R*R...石壁の向こう
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● 石壁の向こう ●

 自分に、どこか問題があることはわかっている。
 それが何なのかは、わからないけれど。

***

「殿下の新しいお母上が、お見えなのですよ」
 上着をきちんと着せ付けてくれながら、侍女がそう言うのに、レイドリックは無言で頷いた。六歳になったばかりの彼にとって、『新しい』と『母上』の連結は謎の概念であったが、とにかく侍女が言いたいことはわかっている。
「きちんとご挨拶ができますね。陛下が……お父上が隣にいらっしゃいますから、何も心配はございませんよ」
 けれど、そう言う侍女の声の方が、不安そうな響きをしている。『新しい母上』は、重要な人物なのだ。彼女にとって、ここにいる大人たち皆にとって……かつて、彼の『母上』がそうであったように。
 だが、もう『母上』はいない。侍女の言葉に、再びこくりと頷きながら、レイドリックは灰色の石壁を思い浮かべていた。天まで届くような、巨大な分厚い扉に閉ざされた小部屋。肌を刺す冷気の中、母の棺を呑み込んでいった石壁。
 聖堂の一角にある王家の墓所では、歴代の王族を壁の中に安置している。母が暗がりの横穴に入れられ、大きな石で蓋がされたとき、レイドリックは思わずやめてと叫んでしまった。そんな風に蓋を閉じたら、母はきっと苦しいに違いない。お願いだからそんなことをしないでと、槌を持つ儀典官に取り縋りかけた彼を、側にいた父が引き留めた。珍しく、彼をぎゅっと抱きしめて、父は仕方がないのだよと言った。母は死んでしまった、もう息をしていない。だから、壁の中で苦しむことはないのだと。
 それからしばらくの間は、石壁の夢ばかり見た。灰色の石壁が、奇妙に歪んで母を呑み込んでいく……そしてそれは恐ろしい冷たさで、彼をも引きずり込もうとするのだ。真っ暗な中で目を覚ますと怖かった。時々は、心配した夜番の侍女に揺り起こされることもあって、そういうときは、怖くはなかったが悲しかった。一番に来てほしい人は、もう絶対に来てはくれないと思い知らされる。母も――父も。
 一度、どうしても我慢できなくて、夜中に父のところへ行ったことがある。王の居室の扉を守る衛兵は、しかし、国王陛下は仕事中だからと言って、彼を中には入れてくれなかった。父の姿を見るだけでいい、何も話せなくても構わない、決して邪魔はしないから、どうか入れてほしいと懇願したら、衛兵はひどく困った顔をして、実は、父は城にはいないと言った。レイドリックは真っ暗な寝台に戻り、毛布にくるまってきつく目を閉じ、今度は石壁のことを考えた。怖くない、怖いはずがない。あの中には母がいるではないか――もし引きずり込まれたら、母のところへ行けるではないか。
 夢は怖くなくなって、次第に見なくなっていった。けれど石壁は、今もそこにずっとある。もう彼を呑み込もうとはしない、けれど母を返してくれもしない。固く閉ざされ、決して動かない、永遠の壁。
「おまえにも、新しい母親が必要な頃合いだ」
 だから数日前、父がそう言ったときも、それが彼の『母上』のことではないとわかっていた。母は死んだ――あの石壁の向こうに埋め込まれたままだ。『母上』でない以上、『新しい母親』のことは、特に必要だとは思わなかったが、きっと父には必要なのだろうと思った。父と一緒に、広間で顔合わせをさせられる『たいし』とか『だいじん』とか、肩をそびやかして歩く他のたくさんの大人たちと同じようなものだ。
 身支度を済ませて、侍女に連れられて行くと、扉の前に父が立っていた。彼の姿を見ると、ちらりと笑みを見せたが、それは優しげなものではなく、どこかひきつった、緊張に満ちたものだった。侍女の手を離れて近づいた彼の頭を、おざなりに軽く撫でる。
「レイドリック、おまえの新しい母上を紹介する。今日から、この城で一緒に暮らすのだ。礼儀正しく、仲良くできるかね」
「はい、父上」
 重要な人物の前では、常に礼儀正しく、良い振る舞いを心がけるものだ。念押しする父の言葉は、とうに侍女たちに言い含められている事柄だったので、レイドリックはほとんど自動的に答えた。いつもの通り、広間でやるのと同じ。何も変わったことはない。
 だが、続けて父が言ったのは、思ってもみないことだった。
「それに、弟とも。おまえの弟だ」
「――おとうと」
 レイドリックは、呆気に取られて父を見上げた。そんな話は聞いていない。
「リーベルトという。おまえより二つ下かな。四歳だ」
『弟』という言葉は知っている。きょうだいだ。同じ家で暮らす子供、それも『弟』は、自分より年下の子供のことだ。突然の知らせに、一瞬は何も考えつかなかったレイドリックだが、やがて認識が追いつくと、急に胸が高鳴るのを感じた。子供! ここに子供が来るのだ!
 この城に、ずっと子供はレイドリック一人だ。時々、城を訪れる大人が子供を連れてくることがあって、彼らと遊ぶのはとても楽しいのだが、それも大人の用事が終わるまで、そう長い時間ではない。大人が迎えに来たら、彼らはいなくなって、それっきり。運が良ければ、また会えることもあるが、会えないことの方が多い。
 けれど『弟』は違う。ここで、一緒に暮らすのだ――どこにも行かない、ずっと一緒にいる!
「父上」
 嬉しさに声を弾ませて、レイドリックは父に尋ねる。そう、その子の名前、父は今何と言ったか。
「リーベルトは、なにがすきですか。もう、おかしをたべられるくらい大きいですか。本はよめますか。馬にはのれますか。なわなげと石けりと、どっちがすきですか」
 矢継ぎ早の質問に、父は一瞬目を見張る。しかしすぐに表情を緩めると、今度は温かみのある仕草で、再び彼の頭を撫でた。
「直接、本人に訊きなさい。だが、あまりいっぺんに並べ立てて脅かさないように。優しく言うのだよ」
「はい」
 もちろんだ。決意を込めて、レイドリックはきっぱりと返事をした。脅かしたりなんかしない、絶対に優しくする。『弟』なのだ、自分より小さな子なのだ。怖い思いをしたり、寂しがったりして、泣いたりすることがないようにしなければ。。
 お菓子が好きなら、全部あげよう。本も読んであげる、読み方を教えてあげたら、一緒に読めるようになるだろう。小さかったら、まだ馬に乗るのは無理かもしれないけれど、彼がもう少し上手になったら、一緒に乗せてあげられる。何でも、弟の好きなことをしてあげよう。
 目の前の扉が開かれる。父に従って足を踏み入れた室内に、見知らぬ女性が立っていた。すらりとして背が高いが、腹の辺りだけ少し大きい。父は女性に声をかけ、女性は慣れた仕草で父に腕を差し出した。抱擁と口づけ――親しい者の間で交わされる挨拶、けれどそこには、何か彼の知らない気配があって、レイドリックは目を瞬く。父が、誰かにこんな風にしているのを見たことがない――少なくとも、母としているのを見たことはなかった。
「レイドリック」
 父に名を呼ばれて、彼は務めを思い出した。ではこの女性が、父と皆の『重要な人物』なのだ。
「はじめまして、あたらしい母上。レイドリック・エセルリード・フィスターシェです。おあいできてこうえいです」
 作法の時間に教わった通り、女性の手を取って口づけする。女性は小さく笑い、何か言ったようだったが、レイドリックの耳には入っていなかった。見つけたからだ――彼女のスカートにぴたっとしがみついている、小さな影。
 脅かしてはいけない、ゆっくり、優しくしなければいけない。じりじりする気持ちを抑えながら、じっと影を見つめていると、やがてそれは、恐る恐る顔を上げた。二つの丸い目が、じっと彼を見返す。
「きみが、リーベルト」
 尋ねると、丸い目はぎょっとしたように見開かれた。それが再びスカートの陰に隠れてしまう前に、レイドリックは急いで続ける。
「ぼくは、レイドリックだ。はじめまして、リーベルト、ぼくのおとうと」
 精一杯、優しく言うと、目の前の子供は瞬きをした。やがて、スカートにしがみついていた手が、ゆるゆると離れる。どうしていいのかわからないというようにさまようその手を、レイドリックは近づいて、そっと握った。小さな手、彼自身のものより一回り小さい。
 手だけではない、何もかも彼より小さい。目線の下にある丸い頭も、真新しい靴を履いた足も、金髪からピンと飛び出た可愛い耳も、今、すすり上げた鼻も、不安そうにきつく引き結んだ口も……少しうるんだ青い瞳だけは、もしかしたらこの子の方が大きいかもしれないけれど。
 と、そこまで見て取ったとき、ふと手に柔らかな感触があった。丸い指が、彼の手を握り返したのだ。レイドリックは息を呑んだ。胸の奥から、何かが溢れてきて、息もできないような気持ちになる。
 ――ぼくの、おとうとだ。
 小さい、可愛い弟。どんなことでもしてあげよう。何からも守って、何よりも大事にしよう。
 そして、ずっと一緒に過ごせたら――もうきっと、寂しくはないのだ。

***

「リーベルト、危ないよ! 下りておいでよ」
 庭木の下から、レイドリックは、もう何度目になるかわからない呼びかけをした。
 午後、彼の授業や教練が全部終わってお茶の時間になる頃には、必ず現れるはずの弟が、今日はどこにもいなかったのだ。城の者たちに尋ねても、さっきまではいたのにと言うばかりで誰も行き先を知らず、レイドリックはひどく心配になってあちこち探したが、やっと探し当てた結果、その心配はますます強まっただけだった。リーベルトは丈の高い庭木の一本によじ登って、そこから下りてこないのだ。
「いやだ! もう、城になんてかえらないんだから!」
 ここは王城の庭園の一画で、定義の上では明らかに城内なのだが、レイドリックはその点は指摘しないでおいた。そんなことを言えば、弟はますます興奮して、彼の言うことに耳を貸さなくなるだけだ。
「でも、もうお茶の時間だよ。胡桃の焼き菓子があるんだ。果物もあるよ。一緒に食べようよ、きっととってもおいしいよ」
「…………」
「それで、食べ終わったら、昨日の続きをやろう。駒合わせ」
 盤上に駒を並べて戦わせる遊戯は、彼らのような少年たちにはお馴染みのものだが、昨日はとても素晴らしい展開になった。リーベルトははじめて、まったく同じ条件で、レイドリックに勝ったのだ。弟は当然大喜びだったので、それを見ていたレイドリックも嬉しかった――つまり、彼にしてもはじめて、弟にバレずに負けることができたのだ。
 リーベルトは歳の割に、この遊びが上手だった。その上勘も良くて、レイドリックがわざと手を抜くと、すぐに気づいて癇癪を起こす。とはいえ普通にやると、いつもレイドリックばかりが勝つので、それはそれでご機嫌斜めになる。負けてばかりいるのが面白くないのはわかるので、レイドリックは何とか弟を楽しませたくて工夫を重ねていたのだが、どうやらコツを会得したらしい。
 そして木の上のリーベルトも、そのことを思い出しているようだ。少しの間、考えるような沈黙があって、レイドリックは期待を込めて見上げたが、しかしすぐに喚き声が降ってくる。
「いやだ! やらない! どうせまた、兄上がかつにきまってるんだ」
「どうして? 昨日は君が勝ったじゃないか。やってみないとわからないよ」
「わかるさ! 兄上はなんでもできる――なんでも、兄上のほうがじょうずなんだ」
 最後の方は涙声になっている。レイドリックは困惑した。弟に泣かれるのは、どうにもつらい……そもそも、何でリーベルトはそんなことを言うのか。
「だって、みんな言うんだ、兄上はもっとよくできるって」
 語学の教師も、剣術の教師も、今日は彼の出来に満足しなかった。あまりにむしゃくしゃして、わざと馬場の泥を踏みつけて帰ったら、汚した服と靴を侍女に窘めらた。悔しくて泣き喚いたら、ついには母である王妃まで彼を叱って、その全ての説教にレイドリックの名前が出てきたらしい。
 なんてことを、と、聞いたレイドリックは腹を立てた。どうして大人たちは、弟を叱るのに、勝手に彼を引き合いに出すのだろう。そんなこと、比べたって何の意味もないのに。
「そんなの、気にすることないよ。みんな、いい加減なことを言っただけだ」
「でも兄上は、古王国の本がよめるだろ!」
「それは、僕の方が年上だから。君より二つも上なんだよ」
「エリオは、兄上は、ぼくと同じ八つのときにはできたって言った!」
「…………」
 とっさに返す言葉が思いつかなくて、レイドリックは口を閉ざした。実際のところは、そうだ。古王国はとうに滅びたが、その言語は今でも大陸間の国際言語として使われるので、身分のある層では幼い頃から習得させられる。人によってはなかなか馴染めないものらしいが、レイドリックは苦労らしい苦労をした覚えがない。多分、向いているのだと思う。本を読むのは好きで、大変だとか面倒だとかは思わない。書いてあることを理解するのに手間取ったこともない。一度読めば大体頭に入るし、忘れない。
 しかし、皆が皆そうでないこともわかっている。特にリーベルトは、およそ机に向かっての学問というものがまったく性に合わないようだった。わからない、理解できないというよりは、興味のないことをじっと座って聞いているということができないらしい。
 でも、それが悪いわけではない。彼の興味を引くように話してやれば、リーベルトはむしろ賢い子だ。それに、誰も彼もがレイドリックと同じことができる必要なんて一つもない。
「そんなこと、どうだっていいよ。リーベルトはとってもいい子なんだから、ちょっとくらいできないことがあったって、何も……」
「兄上はなんでもできるから、どうだっていいんだよ! みんな、兄上のほうがいい子だとおもってる……みんな、兄上のほうがすきなんだ」
「そんなことないったら!」
 絶対にない。はっきりと確信さえ持って、レイドリックはきっぱりと言った。確かに彼は、いわゆる『出来のいい』子供かもしれない。大人が彼に望むことは、大抵上手くできる。むしろ、何かが上手くできなくて困ったということがほとんどない――だがそれは、皆が彼を好きかどうかということには、まったく関係ないのだ。
「みんな、君のことが好きだよ。父上も、母上も、他の子たちも。僕もだ」
「うそだよ! みんな、兄上がいればそれでいいんだ。ぼくがいなくたって……」
「リーベルト!」
 たまらず叫んで、レイドリックは頭上を睨む。たとえリーベルトの口からでも、そんなことは聞きたくなかった。彼の大事な弟なのだ、いなくなっていいわけがない。そんなことを言うなんて、誰であっても許せない。
 樹上のリーベルトは、一瞬怯んだように見えた。しかし次の瞬間には、口をへの字に曲げて、すっくと枝の上に立ち上がる。レイドリックは息を呑んだ。
「だめだ、リーベルト! 落ちる!」
「しるもんか! ぼくがおちたって、兄上がいればいいんだ」
「そんなわけないだろ!」
 胃の裏側が引きつるような感覚は、恐怖のためか苛立ちのためか。リーベルトが掴んでいる枝の先が不気味な角度にしなるのを、レイドリックはぞっとしながら見つめる。自分があそこまで上って、弟を無事に下ろせるだろうか……無理だ、あんなところに二人は乗れない。何とかリーベルトを説得して、自分から下りてきてもらわなければ。
「リーベルト、お願いだから、もう帰ろう。誰がなんて言ったって、いいじゃないか。みんな、本当のことなんか知らないんだから――君に、どれだけいいところがあるか、知らないんだ」
 だから、そんな大人の言うことを真に受けることはない。熱心に話しかけると、リーベルトはわずかに興味を引かれたようだった。姿勢は変えないまま、はるか下の兄を見下ろす。
「……ぼくの、いいところ? なに?」
「とっても優しいところ。いつだって、僕と一緒に遊んでくれる。それに、勇気がある……母上は、あまりお喜びじゃないのに」
 継母となった人に、あまりよく思われていないということは、何となくわかっている。はじめて会ったときは、それほど嫌がられてはいなかった気がするのだけれど、いつの間にかそうなっていた。あからさまに冷たくされたり、叱りつけられたりすることはない。人前で顔を合わせるときは、むしろ優しげな仕草なのだが、そもそも人前でしか、つまり何らかの儀式や行事でしか、顔を合わせることがない。継母が城へ来て王妃となってから、王女と王子が生まれたが、レイドリックは彼らのこともよく知らない。『弟』は――彼を兄と呼んでくれるのは、リーベルトだけだ。
 ――なんて、可愛げのない子。
 一度、彼がいないと思っているところで、継母がそう言うのを聞いたことがある。実のところ、その言葉を言うのは継母だけでなく、レイドリックは時々大人が彼のことをそう言うのを知っていた。習った作法や指示された手順を守らなかったことは一度もないのに、どうして大人たちが彼を気に食わないのかはわからなかったが、とにかく彼には何かが足りないらしい。『可愛げ』が。
 そして多分、リーベルトにはそれがあるのだろう。単純に姿形だけを見ても、この弟は文句なく可愛かった。青い瞳は丸く、ぱっちりと大きくて、ふくれっ面で突き出す唇は、形のいい薔薇色をしている。幼い丸みを帯びた頬は滑らかな白い肌で、少し伸びた金髪が落ちかかっている様は、まるで良家の女の子のようにも見える。
 しかし、いくら見た目が可憐でも、リーベルトは確かに八歳の少年だ。それも、かなり利かん気な方だ。どうやらレイドリックの返事は、望んでいたほど感銘を与えなかったらしく、リーベルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。が、何かを思いついたようだ。やおら袖をまくり上げると、再び木の幹に取りつく。
「リーベルト!」
「ぼくはゆうきがあるんだ。もっと上までのぼれるよ」
「そういう意味じゃない! 止めてくれ!」
「おちないよ。ぼく、兄上よりずっとかるいんだよ。兄上より、ずっとたかくまでいける。ほら、このえだだって……」
 だがまさにその瞬間、どこかで、ミシッと軋む音がした。レイドリックは反射的に身構える。この高さ――まっすぐに落ちたら、とんでもないことになる。
 受け止めなければ――そんなことが、どうやって――だが、やるしかない!
「――――!」
 耳に刺さる、甲高い悲鳴。感じたことのない衝撃に突き飛ばされたと思った瞬間、耳元で何かが破裂するような音がした。生木が折れるような、無数の貝殻が踏みしだかれるような……だが、それ以上考えることはできない。
「…………!」
 たまらず悲鳴を上げる。しかしその声すら音にならない。音も、光もない。痛い、たまらなく痛い。何がどうなっているのかわからない。体を動かそうにも、全ての感覚は痛みに奪われて、どこにも力が入らない。
「……え! あにうえ! 兄上!」
 それでも、やがて少しずつ、周囲の世界が戻ってくる。さっきからずっと意識の糸を揺らし続けている何かが、自分を呼んでいるのだと、レイドリックは気が付いた。そうだ、呼んでいるのだ。よく知っている、幼い声――ひどく怯えて、切羽詰まって、もうほとんど泣き出している。
 ――リーベルト。
 その名が脳裏に閃いた瞬間、視界が開けた。痛みを押しのけて、思考が戻ってくる。リーベルト、大事な弟、あんなに高いところから、落ちて……。
「あ、兄上……おきてよ……」
 彼を覗き込んでいる弟は、必死の面持ちだった。いつの間にか、レイドリックは地面に横になっていて、だから弟の顔が視界の上にあるらしい。声を詰まらせ、ついには泣きべそをかきはじめたリーベルトに、レイドリックは安堵の息をついた。よかった、無事で、生きている――失敗しなかったのだ。
 だがその思いも、弟がしゃくり上げながら涙を拭う姿を見た途端に霧散する。むき出しの腕が、真っ赤に染まっている。手首から肘まで、まっすぐに走る赤い線。
「リーベルト、怪我を……」
 しかし、それ以上が続かない。体を起こそうとした瞬間、再び破裂するような痛みに襲われる。しかも今度はもっと悪い。急に視界がぐらついて、レイドリックは胸の奥が捩じれるような感じがした。気分が悪い、嫌な汗がにじんでくる。足の先がひどく冷たい。息ができない、苦しい。
「兄上……!」
 再び弟が叫ぶ声が、どんどん遠くなる。もう少し、とレイドリックは思った。もう少しだけ、しっかりしていなくては。リーベルトの様子を見て、誰か助けを呼んで、彼を託してしまうまで……。
 けれど、どうしようもなかった。

 いくつもの顔が、現れては消えていった。遠くに近くに、声が聞こえるが、何を言っているのかわからない。いくつかは、彼に何かを問うているようだったので、レイドリックは懸命に口を開こうとしたが、途端に吐きそうになったので、きつく歯を食いしばった。吐き気を堪えれば堪えるほど、全身から冷たい汗が噴き出して、体を凍えさせていく。手の先、足の先から上ってくる冷たさは、痛みと同じくらい耐え難い。
 一時は全身を支配した痛みは、次第に一か所に収束していった。彼の左側、肩と腕の辺り。
「せめて、ずれずにきれいに折れたのが、幸いと言えば幸いですな。何もかも、元通りになりますよ」
 見覚えのある顔が、妙に明るくそう言ったが、一体何が幸いなのか、レイドリックには全く理解できなかった。直後、痛む部分を掴まれて、何やら固いものに縛り付けられたときには、もう何一つ理解したいとも思わなかった。彼の願いはただ一つ、この冷たさを止めてほしいということだけだ。寒い、どこか暗いところに落ちていく、凍りついた石壁の中に埋め込められる。一体何の罰だろう、どんな悪いことをしでかしてしまったのだろう。どうか、許してほしい――ここから出してくれるなら、どんなことでもするのに。
 おそらく、願いは叶えられたのだろう。今、彼はもう寒くはなかった。だがそれは、許されたということではないらしい。
 ――あつい。
 体中が、燃えるようだ。何か冷たいものに触れたくて身動ぎすると、鋭い痛みが走り抜ける。たまらず吐き出した息さえ熱くて、喉が灼けつく。
 だがそれでも、レイドリックはじっとして、きつく目を閉じたままでいた。ひどくつらいが、しかしこれはまだましなのだと知っていた。彼はまだ夢現の境にいて、朦朧とした意識は、苦痛をいくらか和らげているはずだ。彼は目を覚ましたくなかった。このまま動かず、何もわからなくなってしまいたい。
 けれどその願望とは裏腹に、感覚は無情にもはっきりしてくる。痛い、熱い、体が重い――それに、小さな音が聞こえる。押し殺した息遣い、引きつるような、囁くような――啜り泣き。
 目を開けると、辺りは暗かった。真夜中だ、と直感的に思い、レイドリックは驚く。まだ夕方か、宵の口くらいだと思っていた。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのか。
 暗かったが、枕元に置かれた弱い明かりのおかげで、ものの形はよくわかる。見慣れた天蓋の形、体を覆う掛布の模様、光の届かない壁際にある調度の影さえ見慣れたものだ。自分の寝室、自分の寝台、何もかもいつも通り。
 ただ一つ、いつも通りでないものがある。彼の側には、灯火の柔らかい光を弾く、金色の小さな頭があった。寝台の端に額を押し付けるようにしてうずくまり、声を殺して泣いている。
 こんな様子は見たことがない。レイドリックは呆気に取られ、次いで、それまでの不快とは違う胸苦しさを覚えた。この弟はいつだって、大声で泣くはずだ。欲しいものがあるときは特に、泣くのを我慢するときだって、大声で怒鳴ったり、でなければその辺のものを蹴飛ばしたりして、とにかく何か主張するものだ。こんな風に泣くのはおかしい。
 何とかしなければいけない。泣かせたままにしてはおけない。落ち着かせて、話を聞いて、慰めて……今度は、一体どうして泣いているのだろう。
「リーベルト」
 呼んだ名前は、彼自身にもよく聞こえなかった。灼けついた喉は奥に張り付いて、声がほとんど出ない。
 だが呼ばれた方は、即座に反応を見せた。全身が痙攣するように大きく震えたかと思うと、俯いていた小さな頭がぱっと上がる。濡れた瞳が丸く見開かれて、彼を見つめる。機嫌のいいときの澄んだ青色ではない。泣き腫らして濁った、暗い色だ。
「兄上……」
 その瞳から新たに涙がこぼれ落ち、汚れた頬に筋を作るのを見た瞬間、レイドリックははっとする。頭の中を覆っている靄が一瞬晴れ、彼は何があったのかを思い出した。さっきまで、何をしようとしていたのかも――どうして忘れていられたのか!
「手を」
 乾いた喉がざらついて、たまらず咳き込むと、恐ろしい痛みに貫かれる。叫び出したい衝動をぐっとこらえて、レイドリックは動く方の手を伸ばした。あれは……右腕だった。ぱっくりと開いた、無残な傷。
 今は手首まで覆っている袖を、まくり上げて確かめることはできない。しかし、弟が恐る恐る差し出した手を取って見るだけで十分だった。手のひらに残る乾いた汚れ。濃紺の上着では、汚れはよくわからない、けれど袖口から覗くシャツには、本来の白などどこにも残っていない。
 弱い明かりの中ではどす黒く見えるその色に、レイドリックは胸が詰まる心地になった。では、誰も気づいていないのだ。皆、彼を放っておいたのだ。
「誰か……誰か、大人に……言うんだ。この傷……今すぐ」
 いや、もう既にすぐとは言えない。あれから何時間経ってしまったのだろう。もっと早く、目を覚ませばよかった。自分のことばかり考えていて、弟の怪我のことなんて忘れていたのだ。ずっと痛い思いをしていたのに。
「ごめん、リーベルト……ごめん」
 こんな怪我をさせてしまった。その上、何もしてやらなかった――何があっても、守るはずだったのに。
 次の瞬間、手に軽い衝撃がある。握っていたはずの手が振り解かれたのだ。リーベルトが、彼の手を寝台に投げ返すようにして離れたから。
「リーベルト……?」
 弟の顔は、さっきまでの泣き顔とはまるで違っていた。唇をきつく引き結び、強張った表情で彼を睨みつけている。まだ涙の残る瞳に輝く光は、これまでレイドリックに向けられたことがないものだ。
 だがその正体と理由を、見つけ出す時間はなかった。リーベルトは即座に背を向けると、走って部屋を出て行く。大きく開けた扉を力任せに叩きつける音が、夜の静寂の中で、木霊のように幾重にも響いた。
 再び、寝台の上に一人取り残されて、レイドリックは熱い息をついた。世界が不安定に揺れて、目を開けていられない。どこか、はるか下の方へ引きずり込まれていく……。
「殿下」
 不意に近くで声をかけられ、レイドリックはどうにか再び目を開けた。彼の世話係の侍女の一人が、しかめ面と心配顔が半々くらいの表情で覗き込んでいる。
「申し訳ございません、起こしてしまって……。リーベルト様にも、うるさくなさらないよう、よく申し上げておいたのですけれど」
「……リーベルトに」
 そうだ、まだ終わっていない。今度こそは、ちゃんとしなければ。
「誰か……行かせて。怪我を、してるんだ。手当てを……」
「殿下」
「お願い」
 不確かな思考とかすれた声で、どの程度伝わったのかわからない。けれどぼやけた視界の中で、侍女が頷いたように見えたので、レイドリックは目を閉じた。
 意識が闇に閉ざされていく。痛みも、熱も、苦しみも、何もかもが遠くなっていく。少し前まではあれほど望んでいた救いが訪れて、しかしそれがありがたいのかどうかも、もうわからない。
 ただ――ひどく、疲れたと思った。

 それから数日を、レイドリックは寝台の上で過ごした。
 弟を受け止めた――というよりは、多分に偶然、幸運な角度でぶつかった――ときに、どうやら左腕と、肩の骨のどこかが折れたらしく、腫れ上がってひどく痛んだ。熱も下がらず苦しくて、これだけは無理をしてでも飲むようにと強制された水の他には、何も口にはできなかった。
「おつらいですな。ですが、今しばらくのご辛抱です。大きな怪我をすると、こういうことがままある。二日か三日もすれば、ずっと楽になりますのでな」
 昔から知っている、宮廷付きの老医師が、労わるように優しく、けれど確信に満ちた響きでそう言ってくれるのがせめてもの慰めだった。とにかく、数日我慢すれば終わるのだ。わかっていれば耐えられる。
 それに、痛いのも苦しいのも、ある意味では楽だった。あの夜、意識が朦朧としている間にずっと感じていた底知れない不安や恐怖よりは、今の方がずっとましだ。
 レイドリック本人はそう思って納得していたのだが、しかし周囲の者たちはそうもいかなかったようだ。よほど心配されたのか、一度など目が覚めたら、枕元に、あまり寝付いている人間向きとも思えない堅焼きの菓子など置かれていて、彼の心を和ませたものだ。
 王宮の料理人が腕によりをかけて作るようなものではない、単純で素朴な食べ物だが、それは彼の秘密の好物だった。まだ母が生きていたときに、何度か手ずから作ってくれたことがあったのだ。誰にも言ったことはないけれど、知ってくれている者がいたらしい。
 懐かしい記憶、けれど今思い起こすのは、それだけではない。
 ――リーベルトは……。
 弟も、やっぱりこれが好きなのだ。二人で一緒に食べるおやつに、時々この種の菓子が出てくると、最初に半分に分けるにもかかわらず、リーベルトは決まってレイドリックの分も欲しがるのだ。「半分ちょうだい」と言われてあげると、それをパクパク食べてしまって、また「半分ちょうだい」とねだってくる。いつも、つい乞われるままにあげてしまうから、レイドリックが食べる分はそれほど残らないのだが、それも別に嫌ではない。せしめた菓子に嬉しそうに齧りついている弟は、とても幸せそうだから。
 ――どうしてるかな。
 怪我の手当てが、きちんとされたことは聞いている。腕の傷は、枝か何かで作ったにしてはきれいなもので、膿んだり、悪い病気が入ったりはしていない。もしかしたら少し痕が残るかもしれないが、他には何も問題ないと医師が教えてくれた。それ以外には擦り傷の一つもない、何も心配は要らないと。
 確かに、それはいい知らせだ。けれどそれでも、心配は心配だ。痕が残るかもしれないような怪我をしたのだから、きっと痛むに違いない――あの夜、怪我をしたことを誰にも言い出せないでいる間も、きっとひどい思いをしていたに違いない。
 こうして正気を取り戻した今、レイドリックはそのときの状況をかなり正確に推測することができた。彼が怪我をして、意識もはっきりしない状態になったから、きっと大人たちは大騒ぎしたはずだ。彼は王太子で、だから大人たちは何よりも彼を最優先にすることを、レイドリックはよく心得ていた。彼の身に何かあれば、誰かの責任問題になる。
 そんな最中に、一体誰が弟のことを気にかけただろう。だから、それは彼の務めだったのだ。あのとき、気を失ったりしなければよかった。もう少し我慢して、誰かに弟のことを伝えられていたら。
 横になったまま、レイドリックは枕元の菓子を見つめた。弟に取られることなく食べられるのは滅多にない機会だが、そうしたいとは全然思わなかった。食欲がないというのもあるが、それ以上に――一人では、嫌なのだ。
「これ、リーベルトに持っていってあげて」
 やがて、様子を見に来た侍女に、レイドリックはそう頼んだ。
「僕は、食べられそうにないけど……でも、リーベルトは、食べたいと思うんだ。好きだから」
 これで少しでも、弟の気が紛れるといいと思った。ひどい経験をしたのだから、少しは報いがあってもいいはずだ。たとえ、彼が耐えなくてはならなかった苦痛を、埋め合わせることはできなくても。
 やがて数日が過ぎると、本当に医師が言った通りになった。熱は引き、肩と腕の腫れもだいぶ治まって、必死の思いで我慢しなければならないような痛みではなくなった。もちろん痛むし、包帯を巻かれてきつく固定されているのには違和感があるが、これ以上寝台にいなければならない理由はない。
 まだ治ったわけではないのだから、決して無理はしないようにという注意付きで部屋を出る許しが出ると、レイドリックは真っ先に弟を見つけに出かけた。いつもは、あまり弟の部屋を訪ねたりはしないのだが――きっと継母はいい顔をしないだろうから――今はそんなことを言ってはいられない。
 実際はほんの数日顔を見なかっただけなのに、リーベルトに会うのは随分久しぶりに思えた。会ったらなんて言おう、まず、怪我の具合を訊かなくては。上手に助けられなくてごめんと謝って、それから、あの日できなかった駒合わせをやろう。あれなら、左腕が動かなくてもできる。
 だが今の時間、弟はおそらく教師に捕まって勉強中ではないかと気づいたのは、目的地にだいぶ近づいてからのことだった。そうだった、彼自身は、寝台を離れたばかりの今日はまだ免除されている務めだが、弟はそうではないだろう。出直すべきだろうか。もちろん、そうするべきだ。でも、少しくらいなら――邪魔をしないように、ちょっと顔を見るくらいなら……。
 目的の部屋の前に立ち、レイドリックは少しの間、扉を叩くべきなのかどうか逡巡していたが、その問題は思いがけず解消した。こちらへ向かってくる足音が聞こえる。振り返ると、尋ね人がちょうど廊下の角から現れたところだった。
「リーベルト!」
 弾む声で呼びかけると、弟ははっと顔を上げた。丸い瞳が、驚きでさらに丸くなる。レイドリックは思わずにっこりした――よかった、元気そうだ。
「よかった、ここで会えて。ここまで来たけど、もし邪魔をしたら悪いなって思ってたところだったんだ」
「…………」
 返事はなかった。リーベルトはその場で、凍りついたように立ち尽くしている。その表情には笑顔の欠片さえなく、ただ不自然な、緊張した顔で彼を見返すばかりだ。レイドリックは首を傾げた。何か、様子がおかしい。
「どうしたの? どこか、具合でも悪い? ああそうだ、怪我はどう? ごめん、僕がもっと早くに――」
「――こっち、来るな!」
 それはほとんど悲鳴に近い怒鳴り声で、レイドリックは反射的に、踏み出しかけていた足を止めた。目の前の弟をまじまじと見つめる。
 一方で、リーベルトははっきりと自分を取り戻したようだった。怒りに満ちた瞳で、呆然としている兄を睨みつけると、拳を握り締めて更に声を高める。
「なにしに来たんだよ! けがのことなんか、どうだっていいよ! 兄上にはかんけいないだろ! かんけいないんだから、そんなえらそうにするな!」
「――――」
 関係なくなんかない、自分がへまをやったせいでついた傷だ。偉そうにしたつもりもない、むしろ謝らなければと思っているのに。ずっと、心配で――けれどその言葉のどれも、声にはならない。
 事態が呑み込めず、レイドリックはひどく混乱した。どうして突然こんなことになったのかわからない。ついこの間まで、彼らの間には何の問題もなかったはずなのだ――あの日、リーベルトが木から落ちるまでは。
 何もわからない――でも、その言葉の意味だけは、はっきりとわかる。
「きらいだ」
 押し黙ったままの彼に向かって、弟は甲高く叫んだ。
「兄上なんか、だいっきらいだ。もういやだ――もうぜったい、いっしょになんかあそばないから!」
 言うなり、リーベルトは唇をきつく引き結んでぱっと駆け出す。その場に立ち尽くしているレイドリックの側を、物も言わずに行き過ぎると、そのまま扉の中へと消える。力任せに叩きつけられた扉が、怒りに満ちた音で辺りの空気を震わせて、そして後には、空虚な静けさだけが残った。
 しばらくの間、レイドリックは扉を見つめていた。彼の前に閉ざされた扉、何が何だかわからないうちに締め出されて――もう二度と、開かない。
 どうしていいのか、わからない。いや、もうどうしようもないのだ。扉は閉ざされてしまった。仕方がないのだと、心のどこかから声がする。だって、それはもう死んでしまったのだ。弟は生きているけれど、けれどあのとき何かが死んでしまった。彼がちゃんと受け止められなかったから。
 死んだものは、壁の向こうへ行ってしまう。もう、帰っては来ない。
「……まあ、殿下! どうなさいました?」
 自室へ戻ると、先刻彼を送り出してくれた侍女が、驚いた顔で迎えてくれた。意気揚々と出かけていった彼が、もう戻るとは思っていなかったのだろう。具合が悪くなったのかと心配そうに問われるのに、何でもないと答える。
「ちょっと疲れただけなんだ。だから戻ってきた」
「お医者様をお呼びしましょうか? まだ、無理をなさっては……」
「本当に、大丈夫。でも、部屋にいてもいい? 本を読んで、静かにしているから」
 本を読んでいると言えば、侍女たちはしばらく彼を放っておいてくれる。今は、彼に出歩かず、少しでも安静にしていてほしいと思っているから尚更だ。
 とはいえ、実際に本など手に取る気には少しもなれない。ようやく一人になった自室を見回して、レイドリックは寝台によじ登った。ここ数日ずっとそこで過ごしたから、これ以上いたいとは思わないのだが、他に身の置き場がなかった。どこにもいたいとは思わない、どこにも行きたいとは思わない、何をしたいとも思わない。
 強いて言うなら一つだけ、望む場所がある。あの日、あの木の下。もしもう一度戻れたら、今度こそ、弟をちゃんと受け止めるのだ。いや、その前に何とか説得して、木から下りてきてもらう。怪我なんかさせないで、絶対に助ける。
 そのためになら、何でもする。この数日の苦しみをもう一度繰り返しても、もっとひどくても構わない。もし戻れるなら、今度こそ――。
 ――でもそれが、決して叶いはしないことも、よくわかっているのだ。
 寝台に座り込んで、レイドリックはため息をついた。左肩がやけに痛む。じんじんと疼いて、熱く火照っている。肩だけではない、どこもかしこもだ――胸の奥も、頭の芯も、瞼の裏も。
 頬を伝って零れ落ちる雫を、他人事のように見やる。これと一緒だ、と思う。誰も彼も零れ落ちて、もう二度と帰ってこないのだ。石壁の中に埋められた母も、悪夢の夜に消えた父も――そして、弟も。
 もう二度と。

 その夜、久しぶりに、あの石壁の夢を見た。
 彼の前の石壁は、もはやその姿を変えない。厳然とそそり立ち、冷たく全てを退ける。
 彼の後ろには、固く閉ざされた扉がある。天を突くような巨大な扉、誰も、どんな力を以てしても、開けることは決してできない。
 そしてそのただ中に、彼はなす術もなく立っている。どこにも行けない、この場所に閉じ込められている――いつまでも、たった一人で。

***

「――ですから、父上」
 国王の執務室、父の前に立って、レイドリックは辛抱強く、冷静な口調を心がけて繰り返した。
「どうか、もう一度お考え直しください。ジャンテス伯爵には、罷免されるような落ち度はありません」
 ジャンテス伯爵ベルメード・マレンディは、宮廷に伺候し、王家の家政を取り仕切る宮廷伯の一人だ。実際に国の統治を行う大臣などとは別に、国王の諮問機関として影響力を持つ要職である。ジャンテス伯は長くこの地位を務める老練な政治家で、彼自身に対する好悪はわかれても、その見識に一目置かない者はなかった。先だっても、長く揉め事の種だった地方の領有問題を、兵を起こさず王家にも不利益にならない形で収めたのは、彼の手腕と人脈のおかげだったのだ。今、称賛されることはあっても、地位を追われる理由はない。
「罷免などではない」
 しかし、執務机の向こうに座る父の答えは変わらなかった。
「ベルメードの功績は、よくわかっている。どのようにも報いるつもりだ。だが、彼を永遠に働かせ続けるわけにもいかんだろう。この辺りがちょうどいいのだ。もう面倒事から退いて、悠々自適の生活を送ってもいい頃だ。彼にはその権利がある」
 しかし当の伯爵は、そんな権利など道端に投げ捨てて、犬にでも食わせろと言うに違いない。レイドリックには、馴染みの伯爵が怒り心頭でそう言う様がまざまざと想像できた。ジャンテス伯爵は、権力がなくては一日も過ごせない類の人間なのだ。人を使って、何かを自分の思い通りに動かすことが何よりの楽しみなのだ。
 権力欲と言えばそうなのだろう。だが彼は、誰よりもその使い方を心得ていた。彼自身の利益のために使ったことがないとは言えないが、少なくとも、誰の目から見ても愚かな使い方をしたことはなかった――彼の後任者のようには。
「ジャンテス伯爵を退けるのは、イスキル伯爵のためでしょうか」
 前よりも更に、感情的な響きを一切させないよう心掛けてレイドリックは言ったが、しかし完璧とはいかなかったらしい。あるいはそもそも、発言自体が彼の旗色を鮮明にしていたせいか、父王は即座に顔をしかめて息子を睨んだ。
「レイドリック。そんな口の利き方をするんじゃない」
「ご不興を被ったのでしたら、お詫び申し上げます。理由を教えていただきたいと思ったのです。イスキル伯爵に宮廷伯の地位をお任せになるに当たって、父上が彼に期待なさっておられるのがどのようなことなのか」
「独創的な発想の持ち主だ。それに、知性もある。おまえも、彼の話を直に聞くといい。あの男は、この都をもっと優れて洗練されたものにする必要があると言うのだ。そのための計画もすでにある。概略は私も見たが、素晴らしいものだ」
 知性――少なくとも、何が王の心を惹くかを探り、周到に根回しする知性はある。父が、王都の古い佇まいを一方では愛しながら、一方では手を入れたくてうずうずしていることは、近しい者ならよく知っている。古くあるということは、人の営みが作り出す混沌もまた根深いということだ。主に貧しい層が暮らす地域の汚らしい裏路地や、折り重なるようにして連なるみすぼらしい小屋ばかりではない。それなりの屋敷が並ぶ通りでも、時代を重ねるごとに持ち主が変わり、外観にも互いに齟齬が出てくる。美しいものを愛する王には、そういった不調和が実に面白くないようなのだ。
「あの男に王都の改修をやらせようと思う。そのためには、それなりの地位が要るだろう」
 都に手を入れる必要性については、レイドリックにも異論はない。美観のことはともかく、今のままでは、何事かあったときに対処できない。通りが空いていなければ、人の流れを通せない。要所要所に、いざというとき人や物資を集められる空間があれば、何をするにも効率がいいはずだ。大きな問題が起こる前に手を打つべきだし、その点に留意するなら、イスキル伯とそのお抱えの技術者に任せても構わないと思う。
「ですが、そのためになら、何も宮廷伯に任じる必要はない。父上が、勅命をもって責任者に指名すれば、彼を軽んじる者などいません。イスキル伯爵の才能と見識は、父上の信任を得るにふさわしいものでしょうが、過分な扱いは、伯爵のためにもならないと思います。すでに彼は、王妃陛下から多くを賜っています」
 イスキル伯爵の妹は、王妃付きの侍女として宮廷へ入り、今では女主人から絶大な信頼を得ている。もっとも、移り気な王妃の寵愛は、一所に留まることがないのが常なのだが、ともあれ今は件の侍女のところにある。そしてその愛のある間、王妃は何一つ惜しむことはない。
「おまえが言うのは、フェリア・ハーデルベイドのことか。確かにイスキル伯爵家の女だが、女同士のちょっとしたやり取りだ。そう目くじら立てることは……」
「王妃陛下は、彼女に年一千シーデルの年金を賜りました。終身です。それに、エインブローの屋敷と、その付属の土地も――ご存じかとは思いますが」
 しかし、王の驚愕の表情から察するに、明らかにご存じではなかったらしい。並の貴族の財産にも匹敵する『ちょっとしたやり取り』に、父は目を剥いたが、しかし息子を前にしては、抑えた口調で言った。
「……だがそれも、宮内費から工面できる範囲だろう。問題とは思わん」
 もし王妃に、その金を工面するため、自身の日頃の暮らしぶりを見直す気持ちがあればだが……しかしレイドリックは、その点は指摘しないでおいた。これ以上、王の気を悪くしても仕方がない。
 それに問題と言うなら、もっと差し迫ったことがあるのだ。
「先日の、ローグナ通りの騒ぎについてもです。イスキル伯の子息は首謀者の一人で……彼が、リーベルトをあそこへ誘い出したのです」
 安酒場や木賃宿が軒を連ねるローグナ通りは、王都ベルクートの中でもとりわけ猥雑な繁華街として知られている。自警団のみならず、しばしば王城からも兵が派遣され、治安の維持に努めているが、揉め事は常に絶えず、暴力沙汰は日常茶飯事だ。しかし、それさえもこの通りが提供する快楽の一種であるかのように、引き寄せられる人々もまた尽きない――そしてその中には、普段は取り澄ました顔をしている身分ある人々も少なくない。
 違法な商売をしている廉で、とある酒場が摘発されたとき、素性を隠した貴族の御曹司たちが紛れていたのは、ままあることだった。しかし、王家の王子が取り押さえられたことは、まず例がない。他の者のように、酒が抜けるまで一晩牢に投げ込んでおくというわけにはいかない。まして縄を打つことなどできるはずもない。兵士たちは驚き慌てながらも、リーベルト王子を丁重に王城へ護送し、そして宮廷中がその成り行きを知ることになった。
「イスキル伯の才知を、重く用いられるのは結構です。ですが彼の近親者は、宮廷を混乱させるばかりです。どうか父上、彼らに分をお示しください。これ以上は取り返しのつかないことになります」
 とはいえ、王妃の側から気に入りの侍女を遠ざけるのは難しいだろう。たとえ父が何と言っても、耳を貸すような人ではないし、おそらく父もそう強くは言えないだろうから。
 だが、リーベルトの方は放置しておけない。レイドリックは、何度か顔を合わせたことのある、イスキル伯の息子のことを思い出した。彼よりも一つ年上で、がっしりとして背が高く、常に怯えた従者を従えて、何も怖いものはないという風情だった。もちろん、王太子である彼の前で無作法な振る舞いに及ぶことはなかったが、わずかに交わしたやり取りの間にも、レイドリックは、彼とは気が合わないだろうとほぼ確信していた。そしてそれは相手にしても同じだったようで、儀礼的なやり取りの他は、特にこちらに近づいてくることもなかった。だがまさか、リーベルトの方に近づいていたとは。
 知っていれば――けれど、たとえ知っていたとしても、レイドリックに何ができたはずもなかった。弟とはもう何年も、必要最低限の会話しかしていない。しかもそのたびに、憎々しげに睨まれるか、顔を背けられるかだ。リーベルトは、彼の言うことに耳を傾けはしないだろう。
 そのこと自体は、もう諦めがついた。失ったものは戻らない、戻ってくるなどと、微塵も期待することはない。でももし知っていれば、できる限りのことをしたはずだ。彼が嫌われていることと、弟がこの先の未来を失いそうなこととは全く関係ない。致命的な事態が起きる前に、何とか止めなくては。
 今も、できる限りのことをしようとしている。リーベルトは、異母兄の言うことは聞かなくても、父からの話であれば聞かざるを得ないはずだ。
「リーベルトか」
 しかしその父は、どうもあまり気乗りがしない様子だ。深々とため息をつく。
「確かに、馬鹿げたことをした。だが、誰でも馬鹿げたことをするものだ。あれも、この件で少しは学んだだろう。もうじき十四だ、成年になるのだから、これからどうするべきかくらいは、誰に言われずとも分別はあるはずだ」
「まだ十三で、未成年です。それに、衛兵を騙して城を抜け出して、見知らぬ場所で泥酔するようなことを、分別があるとは言いません」
 さすがに声が尖るのを抑えきることができないまま、レイドリックは即座に言い返した。一体、リーベルトはどうしてそんなことができたのか。現場の状況を仔細に聞いたとき、レイドリックは恐怖と安堵と憤りで、頭がくらくらしたほどだ。
 武装した供もなく、剣も帯びず、悪い仲間たちと問題の酒場へ潜り込んだリーベルトは、踏み込んだ兵士たちに発見されたときには、正体もなく倒れ伏していたという。額には大きな痣ができていたが、それがどうしてなのかは、誰にも、本人にもわからなかった。ひどく酔って起き上がれもせず、胃の中のものを全部吐き戻して朦朧としているところを、兵士の一人に、ほとんど抱えられるようにして戻ってきたのだ。
 未知の場所に、危険から身を守る準備もなく向かったことだけではない。もしその兵士が親切に介抱してくれなかったら、今頃どうなっていたか。少なくとも、十三歳の少年にそれほど無茶に飲ませた連中は誰一人役に立たなかったし、責任を取りもしなかった。
 そんな連中を、これ以上、リーベルトの側に近づけておいていいはずがない。不品行を通り越して、命に係わる問題だ。レイドリックはなおも言い募りかけたが、しかし続く父の言葉は思いがけないものだった。
「そう言うな。あれにも息抜きが必要なのだ。おまえにはわからんだろうが」
「息抜き!? あんな危ないことがですか? どうして……」
「あれは、おまえの弟だからだ――おまえの弟でい続けなければならんからだ」
「…………」
 心臓がぎゅっと縮むような心地がして、レイドリックは息を呑んだ。それは、一体どういう意味なのか。どうして、そんな――罰みたいに。
 押し黙った彼の前で、父は机の前から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、背を向ける。
「レイドリック、おまえはよくできた子だ。誰に訊いてもそう言うだろうし、どこから見ても間違いない……正直、私には過ぎた息子だ」
 その言葉の意味を、レイドリックは正確に汲み取ることができる。過ぎたるは及ばざるがごとしだ――どちらにしろ、相応しくないということなのだ。
「だが、誰もが、おまえのように優秀ではないのだ。誰もが、おまえと同じことができるわけではない。常に賢明で、常に冷静で――常に正しくいられるわけではない」
 誰かに、自分と同じことができてほしいと望んだことはない。誰かと比べて自分が優秀だと思ったことも、逆に、誰かの能力を羨んだこともない。あるものは使えばいいし、ないものはどれだけ求めても、駄々をこねてもどうにもならない。誰にだってあるのはただ、できることとできないことの二つだけだ。
 自分が常に正しいと思ったことも、一度もない。もし彼が正しかったのだとしたら、どうして弟は彼を嫌うようになったのか。どうして継母は彼を疎んじるようになって――そして今、どうして父は、こちらを振り向いてもくれないのか。
 正しいどころではない、何か決定的に問題があるのだ。けれど誰も、彼にその正体を教えてはくれない。ただ、冷たい顔をして去っていくだけだ。そんなことを告げてやるだけの価値もないと言うように。
「リーベルトは、常におまえの影に立たねばならん。それは随分と神経の磨り減る仕事なのだ。品行方正に、行儀よくというだけでは、やがては行きつくところへ行きついてしまう。レイドリック、おまえは正しい。だが、もう少し、思いやりというものを持たねばならん。正しいことばかりではなく、他人の気持ちを理解しなければ」
 それが、彼の問題ということだろうか。他人に対して、思いやりがないと――子供の頃の『可愛げがない』に続いての欠落の指摘だと、レイドリックは思ったが、しかし最初のものと同様、具体的なことは何一つわからなかった。では『思いやりがある』とはどういうことか。リーベルトの好きにさせて、彼が自分の体と将来を損なうのを黙って見ていることか。継母を満足させるために、いくらでも散財させてやることか。父の情熱に従って功臣を手放し、王国を崩壊させることか。
 ただ一つ、父の指摘で正しいことがある。確かにレイドリックには、他人の気持ちがわからないのだ――彼らが何を考えているのか、本当に理解できない。
「……わかりました」
 ややあって、レイドリックは父に向かって言った。
「リーベルトの件は、もう申し上げません。出過ぎた口を挟んで、申し訳ありませんでした。――イスキル伯爵の宮廷入りのお話も、ご意向を理解しました。お力になりたく思います」
「本当か」
 窓の外を見ていた父が振り向く。驚きの中にも、微かに期待の混じったその顔に、レイドリックは、ええ、と頷いた。
「ですが、やはり急な話ですから、少し準備は必要かと思うのです。ジャンテス伯爵は、何と言っても長く宮廷におられた方ですし、繋がりも多くあります。もし今すぐ、この話を強引に進めれば、必ず強く反発するでしょう。まずは他の宮廷伯から、少しずつ説得していけば、そこからジャンテス伯爵を説き伏せることができるかもしれません。もしお許しをいただけるのでしたら、私から何人かに話をしてみてもよろしいですか」
 もちろん返事は決まっている。今やはっきりと明るい表情になって、父王は満足げに頷いた。そもそも、宮廷を扱うのが嫌いな父なのだ。廷臣たちの駆け引きなど、関わり合うのはまっぴらだと思っているし、重鎮にあれこれ言われるのも面白くない。だからこそ突然、重要な地位にある人間を取り替えようなどと思うのだが、自分より宮廷に通じた王太子が算段をしてくれれば、それもうまくいくと思っている。
 ――とにかく、これでいくらか時間は稼げる。
 宮廷に出入りする人間の顔を脳裏でふるい分けながら、レイドリックは密かに安堵の息をついた。今日明日にも、などとという強硬な話でなければ、何とでもやりようはある。ジャンテス伯爵が口を利いて治めた地方の騒乱は、まだ彼の存在を必要としているし、その件を強調すれば、日頃は伯爵と距離のある有力者の協力も得られるだろう。いや、時間さえあれば、ひよっ子の彼が差し出がましく世話を焼かずとも、百戦錬磨の重鎮には、自分を守る手段くらいはいくらでもあるに違いない……。
 二言、三言、型通りの退出の言葉を交わして扉へ向かったときには、レイドリックの意識はすでにこの場所にはなかった。まずはジャンテス伯爵に伝えなければ。けれどここを出て、直接接触を図るのはまずい……。
「レイドリック」
 だから、扉に手をかける寸前で、背後から呼び止められたときにはぎくりとした。ひと呼吸の間を置いた後、レイドリックは平静な表情を保って振り返る。背信的な意図が見透かされたかと、内心身構える彼に、しかし父が言ったのは全く別のことだ。
「おまえは……今年も、ウェスタールに来るつもりはないのか」
 ウェスタールは、王国の北部に位置する土地の名だ。王家の離宮があって、国王一家は毎年、夏の暑さを避けてそこで過ごすことになっている。レイドリックも幼い頃は行っていたが、もうここ何年も訪れてはいない。
「ええ。すみません、ここでやってしまいたいことがいくらかあるので」
「おまえも、少しは息抜きをしてはどうだ。たまには違う空気を吸って、美しい景色を見るのも悪くないだろう」
 もしかして父は、一緒に来るようにと誘っているのだろうか。これはまったく意外なことで、レイドリックは思わず父を見返してしまった。今まで、こんなことを言われたことは一度もない。それはそうだ――父と継母とその子供たち、一揃いの完全な家族、どこに彼の収まる余地があるだろう。
 どう考えても、誰にも何の得にもならないと解り切っているのに、何故父が突然こんなことを言い出したのかはわからなかったが、ともあれ答えは決まっている。レイドリックは微笑みを浮かべて、丁重に返事をする。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。ですが私には、特に息抜きが必要なことはありませんから」
 先刻の父の言に従えば、そうなる。レイドリックは、弟を危険な息抜きに駆り立てるほど追い詰めていて、逆ではないのだ。そんなことをした覚えは少しもないのだが、どうやらそういうことらしい。
 まあ、リーベルトも、ウェスタールのような田舎に引っ張っていかれれば、先日のような騒ぎを起こすことはできないだろう。嫌っている異母兄から物理的にも遠く離れられれば、本当の意味で息抜きになるに違いない。
 そして実のところ、彼にとってもそうなのだ。一つの、幸福な家族――どこにも収まることがないのなら、同じ場所にはいない方が、むしろ自然ではないか。
「いい夏をお過ごしください。道中、くれぐれもお気をつけて」
 扉の前で、正しく一礼する。相手が更に何か言うことを思いつくより先に、レイドリックは辞去の言葉を告げた。
「お時間をいただき、ありがとうございました。それでは失礼します――陛下」

***

 親衛騎士などというものを、持とうと思ったことはなかった。
 国王ではなく、他の個人に忠誠を誓い、武器を帯びて身辺に仕える者を王城内でも持つことができるのは、国王に直接連なる王族にのみ認められた特権である。しかしレイドリックは、これまでそれを行使しなかった。王城は衛兵が守っているし、彼が城から出る機会もそれほど多くはない。たまに出かけるときは、城詰めの騎士なり誰かが警護についてくれるから、それで不自由はない。これまで特に問題はなかったし、変える必要があるとも思わなかった。それに……おそらく、彼が、誰かをずっと側に置いておくというのは、あまりいい考えではない。
 だがこの場合は、他に仕方がなかった――『彼女』の場合は。
「レイドリック様!」
 城の広場に面した回廊を通りがかると、弾む声に呼び止められた。見れば広場の反対側では、数人の騎士と、揃いの簡素な衣服を身につけた数十人の少年たちが、めいめいの方向へ散っていくところだった。ちょうど教練が終わったらしい。緊張の時間から解き放たれて一息つく同輩たちとは対照的に、息つく様子もなく駆け寄ってきたのは、まさに彼の、予定しなかった『親衛騎士』だった。
「シエル。今から休憩?」
 いや、親衛騎士『見習い』だ。元々は国王直属の王国騎士となるべく、数年は訓練を受ける予定で選抜されたうちの一人であるシエルはまだ十三で、一人前とは言えない。王太子の親衛騎士となることを前提に、他の騎士見習いの少年たちと同じ訓練を受けている。きっと大変なことだろう――ただ一人、少年ではなく少女の身である彼女には。
「はい! 槍試合の模擬訓練が終わったところです。わたしは二回勝ったんです」
 しかし、嬉しそうに報告してくるシエルの様子に、その苦労を感じさせるところは少しもない。騎士であった父の跡を継ぐため、幼い頃から訓練されてきたという彼女にとって、この状況は肉体的な厳しさはあっても、嘆くようなことではないらしい。レイドリックは、以前目を通した彼女の履歴を思い返した。
 ――シエル・ローヴァイン、中部イアルダ地方グローベル出身。高祖父セノの叙任から続く騎士の家系で、父テオドル・ローヴァインは東方シネオスカの戦いで負傷、のち退役……。
 その父が亡くなったことで、今は一人娘のシエルが家長として、家門の存続を果たさねばならない。普通なら男児を養子に取るか、将来のありそうな男を婿に迎えるか、あるいは国王を、未亡人とその娘の後見として、地所を返上するかのどれかとなるはずの状況だが、テオドル・ローヴァインはそのどの手段も取らなかった。急死だったから、ということはある。戦争の負傷が原因で、長く臥せってはいたが、それだけに、突然容体が悪化するとは、家族も、本人も思っていなかった。
 しかし、おそらく、父は最後まで諦めきれなかったに違いない――自分の理想を託した娘の才能を。
 レイドリックの手元にあるシエルの履歴には、彼女の選抜担当者たちの意見も付託されている。曰く、体力的には問題があり、持久力に欠け、競り合いになると弱い。しかし目がよく敏捷で、剣筋は素直で見どころがある。馬術は優れる、弓も精度は悪くない。性格は明るく活発、多少向こう見ずなきらいはあるが、厳しい状況にも理不尽な命令にも、動じず服せる忍耐力がある。物怖じせず誰とでも交わり、協力することをためらわない……。
 もちろん、何十年に一人という逸材ではない。だがほとんどの人間は、逸材などではないのだ。女であるということを隠していた以外は――本人の主張によれば「隠してなどいません! 誰もお尋ねにはならなかっただけです」らしいが、それは置いておいて――シエルは正しく選考を通過した、優れた候補者なのである。能力は能力だ、女であろうとなかろうと。
 それに、ローヴァイン家の存続のこともある。シエルの実家のような、小さな領地を与えられた騎士の家門というのは、王国全土の至るところにある。自分の家族と、一人か二人の使用人を養うのが精一杯の小さな土地を、自力で耕したり家畜を飼ったりして暮らしているもので、どうかすると裕福な農民よりも質素な生活をしていることも多いのだが、彼らには農民にはない、あるいは貴族ですら持たないものが備わっている。王国騎士は、その土地の権威なのだ。王に対する忠順を示し、王の名の下に人々を助け、その信頼を得る。生まれて一度も土地を離れることもなく、国王など見たこともない人々の王と王国への帰属意識を支えているのは、まさにこういう、小さな騎士の家々なのだ。
 ローヴァイン家も、土地では長く尊敬を集めている家のようだった。これを取り潰して、王領として管理するのは簡単だ。しかしそれでは、小さな土地と引き換えに、比べものにならないものを失うことになる。
 とはいえ、女が王国騎士になるのは無理だ。いつかはそれも可能になるかもしれないが、少なくとも今、シエル一人のためだけに、王を説き伏せ、騎士たち全員を納得させるのは不可能だ。となると、レイドリックに残された手段は一つだった。王国騎士に準じる、騎士の家門を保てる地位、他の誰も、王ですら口を挟めない、彼の一存で就けることができる――けれど、これまで誰にも開いてこなかった場所を、彼女に開く。
「でも、わたしはついていたんです。相方がミルスだったから。あの子は度胸があって、滅多なことでは怯えたりしないんです。みんなは足が遅いとか、鈍くさいって嫌がるけどそんなことない、いい馬なんですよ。わたしとは気が合うのかも」
 彼のはじめての親衛騎士となるシエルは、今のところ、その措置を不満には思っていないようだった。まだ見習いで、実際に主にくっついている必要はないにもかかわらず、教練が終わって自由時間ができると必ずレイドリックのところへやってくる。でなくても今のように、彼の姿を見かけると、どこからでも飛んでくる。
 長く憧れていたという、王と王国に仕える騎士になれず、一個人のためだけに剣を振るう立場になったことを、嘆いている様子でないのはよかったが、それはそれとして、彼女のこの態度はいささかレイドリックを当惑させるものがあった。どこへ行くにもついてきて、何でも嬉しそうに話しかけてくる。彼のことを心から、まるっきり信頼しているというように……。
 厩舎の馬の話をしているシエルを、レイドリックは不審に思われない程度に眺めた。背は彼より低いが、同世代の少女の中では高い方だろう。ひょろっとした体つきは、しかし鍛えているせいか、華奢という感じはしない。生き生きと輝く、赤みがかった茶色の瞳は丸く大きくて、よく見れば可愛らしい顔立ちだが、彼女が少女だと知っていなければなかなか気付けない。王宮に来た当初は短く刈り込まれていた髪は、時間の経過で少し伸びていて、それが無頓着に乱れているのが、活発な少年らしい雰囲気をますます強く見せていた。この歳の少女であれば持つような大人びた気配はなく、むしろいくらか子供っぽく見える。十三歳、彼より二つ下。
 ――同い年だ。
 その考えは、突然、火花のように意識の中で弾けて、レイドリックは急いでそれをもみ消した。馬鹿馬鹿しい、どこを取っても似てなんかいない。髪の色も目の色も、背格好も全然違う。
 しかし、そう思って彼女を更によく観察した途端、これまで見えなかったものが見えてくる。伸びかかった髪に隠れて、目立たないが――。
「――これは?」
「!?」
 目の前の少女から、みゃあ、だか、ひゃあ、だか、踏まれた猫のような音が漏れたが、レイドリックは構わなかった。手を伸ばして、彼女の額の髪を払う。真新しい、擦り傷だ。深刻なものではない、けれど血の跡はまだ生々しい。
「あ、そ、それはですね」
 問われたシエルは、ひどく狼狽した様子だった。見る間に耳まで真っ赤になると、不自然に力んだ姿勢で固まっていたが、主の質問に対しては、どうにかしてちゃんと答えなければと思ったようだ。
「今朝、武器庫で、試合用の槍が倒れてきて当たってしまいました。今日、わたしは準備の当番だったのです。急なことだったので、避け切れなくて」
「こっちの、腕の痣は?」
「あ、昨日の、戦闘訓練のときだと思います。後ろに回り込まれていたのに、気が付きませんでした。訓練用の剣で殴られるくらいでよかったです」
「誰に?」
「えっ? 誰? いえ、誰というわけでは……。ええと、班に分かれて行う模擬戦だったんです。だから、相手の班の誰かだと思うんですけど」
「……それで、その膝を擦りむいたのは?」
「こ、これは……転びました。階段で、誰かにぶつかっちゃったみたいで」
「…………」
 答えるシエルは、緊張してはいるが、何かを隠しているようではない。この少女にそういうことはできないと、レイドリックはとうに知っていた。少し一緒にいるだけでわかる、彼女は嘘がつけないし、つこうと思うことも、つく必要さえ感じない種類の人間だ。
 嘘をつこうと思わないから、他人が故意に偽りをなすとも思わない。人にはそれぞれ思惑があることまでは理解していても、それが自分にとって危険なものだと考えることがない。全てはただの事故、何もおかしなことはないと。
 もちろん、それが正しいかもしれない。彼女の話からだけでは判断できない。しかし、正しくない可能性だって十分にある。何せ、彼女はその存在だけで、要らぬ注意を引きつけるだけのことはあるのだ。女の身で、選ばれて王宮にまで至り、騎士になろうとは――まして、それまで誰にも与えられなかった、王太子付きの親衛騎士の座を得ようとは。
 そして、もしそうした悪意が実在するなら、レイドリックにはその責任が――少なくとも一部は――ある。彼女に危害が加えられるなら、傍観はできない。
 しかし、介入する方法はあるだろうか。騎士見習いたちにとって、王太子の権力などというものは、何でも切れる魔法の剣のようなものだ。迂闊に振り回せば、何一つ跡形も残らず切り捨ててしまう……。
「あの、レイドリック様」
 ふと、控えめに名を呼ばれて、レイドリックは目の前に意識を戻した。見れば、いつの間にか、シエルは悄然とした面持ちになっている。
「申し訳ありません。このところ、わたしは大変不注意でした。このように隙があっては、お側にお仕えすることは叶わないと理解しています。以後、警戒を怠らず、このようなことがないよう努めます。どうかお許しください」
「ああ、違う、そういうことじゃなくて……君が自分の安全に気を付けてくれるというのは、それはそうしてほしいけど」
 どうやら、シエルは彼の沈黙を誤解したらしい。どう説明したらいいだろうと、レイドリックはしばし彼女を見つめ……ふと、思いついた。再び彼女の髪に触れる。
「! レイドリック様、何を……」
「少し、髪が伸びた」
 再び固まって、上ずった声を上げかけたシエルは、彼がそう告げると我に返ったようだった。すみません、と、恥じ入ったように詫びる。
「そろそろ、切らなくちゃと思っていたんですけど、なかなか時間がなくて。お見苦しくて申し訳ありません、すぐに……」
「いや。このまま伸ばしたらいい。その方が似合う」
 今の少年めいた風貌も、似合っていると言えば似合っているのだが、もっと似つかわしい姿があるはずだ。そう言うと、シエルは困った顔で彼を見返した。
「で、ですが……騎士となるのに、女のように髪を伸ばしているわけには」
「髪が長かろうと短かろうと、容姿がどうだろうと、君は女の子だし、私はその上で、君を親衛騎士にするつもりだ。何か問題があるかな?」
「あ、ありません! もちろんありません! ですが……」
「それに、女の子だと示すのは、悪い考えじゃないよ。そうすれば、誰の話を聞くべきか解る」
 もし彼女の敵が、彼女を女と見て侮るなら、それはむしろ彼女を利することになる。それはその程度の人間であるということを、喧伝しているようなものなのだ。相手を軽んじていることを、当の相手に知られる人間が、賢明であるとはとても言えない。実に便利でわかりやすい、人間の試金石なのだと説明されて、シエルは呆気に取られたようだった。これまで彼女の達成すべき基準は、常に『男と同じように』であったからだ。
 そしてそれは一方で、彼女の周りの少年たちにしても同じなのだ。女でありながら『男と同じように』振る舞えるシエルだからこそ、憎たらしいのだ。女のくせに、本当は自分たちと同じではないくせに、いかにも同じだというような顔をしているから。
 だがシエルが、視覚の上でも『女』であればどうか。『女のくせに』は、『女だから』に変わる――『女のくせに』彼らを押しのけて、王太子付きの親衛騎士の地位を手に入れたのではない、『女だから』手に入れたのだと。シエルにとっては理不尽な考え方に違いないが、それこそ彼女の真実にはまったく関係のないことだ。それで少年たちの自尊心が救われれば、彼女への対応も変わってくるのではないか。
 ……もっとも、シエルが見た目にも『女』であるからこそ、良からぬ考えを起こす者がないとも言えない。王国中の候補者から、特に選ばれて王宮に足を踏み入れた者の中に、それほどの下衆が混ざっているとも思いたくはないが、どんなことでも起き得るものだ。しばらくは注意して様子を見ている必要がある……。
「それは……そう、でしょうか。うん、そうかも」
 彼女の存在が周りに及ぼしている影響について、レイドリックは説明しなかったが、しかしそれがなくても、彼女を説得するには十分だったらしい。シエルは考え込むように呟くと、やがてぱっと顔を輝かせて応えた。
「わかりました! それが、レイドリック様のお考えであれば、仰る通りに致します」
「うん、ありがとう」
 反射的に口をついて出た感謝の言葉は、自分でも予期しないもので、レイドリックを密かにたじろがせた。そう、彼女のために言ったことだ。それは間違いないけれど――果たして本当に、彼女のため『だけ』だったと言えるかどうか。
 彼に向けられる、親愛の表情。どこへ行くにもついてきて、振り向くたびに目の当たりにするそれは、妙に気分を落ち着かなくさせる。少女の姿でいてくれるなら、まだ幾分かましだろう――似ていない、全然違う、女の子の姿なら。
 そのとき、鋭い笛の音が響き渡った。シエルがあっと声を上げる。
「次がはじまってしまう! すみません、レイドリック様」
「うん、気を付けて、頑張っておいで」
 召集の合図に慌てる彼女に、短く送り出す言葉をかける。シエルはにっこり笑うと、素早く敬礼をしてから、踵を返して一目散に駆け出した。
 遠ざかる後ろ姿を、レイドリックは少しの間見送った。そのほっそりした背中が、他の似たような背格好の訓練着に混ざって見えなくなる。あの中で、彼女はどれほどのことに耐えなければならないのだろう――それだけの辛苦に耐える価値があるか。
 家門の存続という点では、今しばらくは耐えてもらわなければならない。だが時が来て、ひとたびレイドリックが彼女を叙任すれば、あとは彼が罷免するか、彼女が騎士の位を返上したいと申し出るかしない限り、その身分は有効だ。そして彼女の方で望まない限り、レイドリックにはそれを取り上げるつもりはない。
 だから、彼女は好きなようにしたらいい。たとえ彼の親衛騎士でいたくはなくなっても、どこかに彼女の能力を生かせる場所を見つけてやれるだろう。今から考えておいた方がいいかもしれない。結局のところ誰も、彼の側には長くいられないのだ。
 ――あの子はどのくらい、私に我慢できるんだろう。
 レイドリックは小さくため息をつく。やがて、騎士見習いの少年たちの群れから視線を巡らせると、本来の目的地へ向かって再び歩き出した。

***

 玄関ホールに近づくと、空気はいよいよ冷たくなった。どこもかしこも贅沢に暖められたこの屋敷でも、さすがにここまでは居心地よくとはいかないらしい。しかし今のレイドリックには、外気の存在こそが心地よかった。肌を刺すほどに冷たい風に当たれば、息ができる――この絡みつくような暖気も、甘ったるい脂粉の匂いも、すべて風に流れてしまったら。
 高い天井に、彼の足音だけが響く。他の人間の姿は見えなくて、レイドリックは密かに歯噛みした。彼の親衛騎士は、一体どこで油を売っているのだろう。これから、彼女を捜して回らなければならないのか? それに馬車も? もういい、いっそ城まで歩いて帰ったって……。
「レイドリック様!」
 そんな彼の苛立ちの思念が届いたわけでもないだろうが、次の瞬間、馴染みの顔はどこからともなく――実際には、玄関側にある、夜番の使用人部屋の扉から――現れた。よかった、と、彼は皮肉に考えた。少なくともこれで、彼女の名前を叫びながら、この屋敷中を徘徊する必要はなくなったわけだ。
「シエル、城へ戻るよ。すぐに出られる?」
「は、はい。では、今夜はこちらにお泊りではないのですね」
 目を丸くしたシエルに、ますます苛立ちが募る。誰がそんなことを言ったのか。彼自身でない以上、他の誰かが吹き込んだのだ。こんなやり方で手を回して、彼を嵌められると思ったのだ。
「君は泊まりたかったのか?」
 しかし、反射的にそう言い返してしまって、レイドリックは即座に後悔した。彼女には何一つ、責められるべき失策はないのだ。主に従って訪れた屋敷で、主の命に従って、離れた場所で待機していた。彼女にこんな口を利いていい理由はない。
「……予定が変わったんだ。遅い時間になってしまって申し訳ないけど、準備してもらえるかな」
「王太子殿下!」
 ただいま、と敬礼したシエルが離れていった途端、別の方向から声がする。奥から現れたのは、この屋敷の使用人頭だ。滞在すると思われていた客の、突然の辞去の動きを聞きつけて、泡を食って出てきたものらしい。どうやら、屋敷の主は間に合いそうにないのだろう――それほどまでに、彼を今夜、ここに留めておけると信じ切っていたのか。
 その認識はレイドリックにとってはますます不愉快なものではあったが、しかし状況は都合が良くもある。主人に従っただけの使用人に話すのなら、それほど腹も立たない。主が出てこないのなら、彼のすることについて無難に説明する必要もないし、また一介の使用人には彼を止めることもできない。レイドリックは追ってきた使用人頭に振り向くと、極力丁寧な口調で告げた。
「長くお邪魔をして、申し訳ありませんでした――これほど長く、お邪魔するつもりはなかったと、ご主人に伝えてください」
「お待ちください! もう、夜も大変遅うございます。これから外へ出て、王城へお戻りになるのは……」
「そう、もっと早く戻ればよかった。あなたの言う通りだ」
「殿下がご滞在の間には、どのようなご不自由もなくおもてなしするよう、主より申し付かっております。恐れながら、私どもに何事か不手際がございましたでしょうか」
「いや、あなた方には何の落ち度もない。歓待に感謝しています。レムド侯爵にも、よろしくと――次は、宮廷でお会いしましょうと」
 宮廷――つまり、裁判の場でということだ。たちまち青ざめる相手に、同情を覚えなくはなかったが――侯爵の浮沈は、彼ら使用人の浮沈も同然であろうから――しかしもはや、彼がどうこうする筋合いでもない。意図が正しく伝わったと見て取って、レイドリックはそのまま扉を開けて外へ出た。追いすがる声には構わず歩き続ける。早く馬車を見つけるためには、どっちへ行ったらいいだろう……。
「レイドリック様、どうぞこちらへ」
 迷う必要はなかった。すでに馬車は門前に停まり、側で彼の親衛騎士が待機している。シエルは少しも時間を無駄にしなかったらしい。その気付きは、彼の先程の後悔に新たな重みを加えたが、ともあれ今はありがたい。
 彼が馬車に乗り込むと、素早く後に続いたシエルが、内側から扉を閉めた。それを合図に、馬車がゆるゆると動き出す。車体の微かな軋みが、規則的な振動に変わって、レイドリックはようやく息をついた。隣に座る親衛騎士に向かって尋ねる。
「……君は、私があそこに泊まると思ってたんじゃなかったの」
 だがそうであれば、これほど速やかにあの屋敷を離れることはできなかっただろう。明らかに、シエルは準備していたのだ。御者にまで言い含めて、すぐに動けるように――いつ来るか、本当に来るかどうかもわからない、主の命令に備えて。
「侯爵家の方からは、そのように言われましたが」
 問われたシエルは、しかしそのことを何とも思ってはいないようだった。微かに小首を傾げて、常と変わらない口調で答える。
「ですが、直接ご命令をいただいたわけではないので。レイドリック様に直にお目にかかって、新たなご指示をいただくまでは、我々の行動に変更はないものと思っていました」
 自分の親衛騎士として任じた彼女の性格を、今ではレイドリックも良く知っている。とにかく素直で、真面目で、熱心だ――時々は、融通が利かないという域にまで。すでに時刻は深夜に近いとか、どんな主人でもこんな時間まで他人を待機状態で拘束していいはずはないだとか、さすがにこの時間まで音沙汰なければ、もう自由にしていていいだろうとか、彼女にも休む必要があるだとか、そういうことはちっとも考え付かないのだ。
 だから、そういうことを考えるのは、主の方の責任だ。責任の、はずだが……思い返して、レイドリックは心底情けなくなった。今夜、彼は彼女のことに注意を払っていなかった。義務を怠ったのだ。その上見当違いにも、どこで油を売っているのかなどと、彼女に苛立ったりして……。
「ありがとう。本当に助かった」
 せめてこれだけは心から言わなくては。隣の親衛騎士を振り向いて、感謝を伝えたレイドリックだが、しかしそれ以上は何を言う気にもなれず、黙って視線を外に転じた。散々な気分だ……馬車の振動が、いつにもましてきつく感じることも含めて。
 そして、シエルも何も言わなかった。おそらくは、主の望みを察してくれたのだろう。車輪の立てる音だけが響く車内の沈黙を、レイドリックはありがたく享受していたが、しかしそれも長くは続かない。
「…………」
 自分の親衛騎士の性格は、とうによく知っている。素直で、真面目で、熱心で――嘘がつけない。何を考えているのか、見ればすぐにわかる。今だって、生真面目な表情で唇を引き結んでいるかと思えば、時折こっそりと彼の様子を窺っている。何か言いたげな顔をして、しかしすぐにはっとしたように視線を明後日の方向に逸らし、けれどどこを見ても落ち着かないというように、再び主の姿をちらちらと見たりするのだ。
 少しの間、気付かないふりをしてみたが、やはり無理だった。レイドリックは大きく息をつくと、ついに諦めて彼女を呼んだ。
「シエル」
「は、はい!」
「私のことなら、大丈夫だよ。おかしなことは何も起きていないし、君が警戒する必要はない。だから、そうそわそわしないでくれ」
「えっ! あっ、す、すみません! お邪魔するつもりでは」
 目を丸くしたシエルの顔には、何故わかったのだろうとありありと書いていて、レイドリックは微かに苦笑した。むしろ彼女は、どうしてこれで隠しおおせていると思ったのだろうか。
 しかし、続けて彼女が言ったことは少し意外だった。挙動不審が彼にばれたことを、内心を表に出す許しを得たと受け取ったのか、今やはっきりと気遣わしげな顔をして、シエルは尋ねたのだ
「ですが本当に、お加減はお変わりないですか? 今日は、少し……いつもより、お召しだったように思うので」
「……そんなに、酔ってるように見えるかい?」
「いいえ。でも、お酒、あまりお好きじゃないでしょう?」
 シエルが、そんなことに気づいていたとは知らなかった。だが、確かにそうだ。いつもこうした会食の席につくときは、酒類は、相手や場の雰囲気に対して礼を失しない程度にだけ口を付けることにしている。元々さして好きでないということもあるが、それ以上に、思考が影響を受けるのが嫌なのだ。いつでも機を捉えられるようでいなければ、軽い世間話のように聞こえて案外重要な情報を取り落しかねない。
 今夜は少し過ごしてしまった自覚はあった。気が進まなかったが、相手がしつこく勧めてくるものをいちいち断っていると話が進まないと思ったのだ。だがこんなことなら、さっさと断ってしまえばよかった。
 そもそもそれを言うなら、こんな話自体、最初から断ればよかったのだ。ここへ来るべきではなかった。たとえ王の口利きでも、きっぱりと撥ね付けておくべきだった。
 レムド侯爵家は、その祖を王家よりも古く遡れるほどの歴史ある名家だが、現在の侯爵は破産寸前だ。派手好みな風流人で、ありとあらゆる物事が自分好みでなければ気が済まず、そのためにならいくらでも富をつぎ込む。その、つぎ込む富がどこからきているかということにはてんで興味がなく、金がなければあるところから持ってくればいいとばかりに借財を重ね、ついには先祖伝来の土地まで手放さなければならないところまできた。
 ここに至って、さすがのレムド侯爵も、事態をどうにかしなければと思ったらしい。しかしどうにかといっても、これまで領地経営や資産整理などといったことを何一つ顧みずにきた侯爵に、何かをどうにかできるはずもない。彼が思いついた解決策はただ一つ、何とかしてくれそうな相手に泣きつくことだけだ。
「レムド侯爵家は、長く国を支えてきた名跡だ。このような形で傷つけられるわけにはいかん」
 泣きつかれた国王が、彼を呼び出してそう言ったとき、レイドリックはそれ以上何も聞かずに退出したくなった。父王とレムド侯爵に個人的な親交があることは知っていて、何となく嫌な予感がしていなくはなかったが、まさか本当にそうくるとは思わなかった。
 他人の借金問題などに首を突っ込んで、ろくな目に遭うはずがない。まして、レムド侯爵に非があるのは明らかなのだ。侯爵の放蕩も領地への無関心も、広く知られたことだ。貴族の領地は単に個人の財源ではなく、国王の名において統治されるべき王国の資産である。その務めを満足に果たさず、一体どうして『国を支えてきた』と言えるのか。
 ……悪いことに、一つだけ、そう言えなくもない事実がある。昨年完了した王立劇場の改築に、レムド侯爵は多額の資金を出していたのだ。もちろんこれは寄付の類という扱いだが、その金が借金から出ていた以上、この問題がこじれにこじれた場合、王家に要らぬ揉め事が降りかからないとは言えない。
 とにかくはっきりした話を聞いてみなければ、と言ったレイドリックを、侯爵は狂喜して歓迎した。詳しい話を聞かせるというので、こうして王都の侯爵邸まで足を運んできたのだが、しかし晩餐の席での侯爵の話はおよそ要領を得ないものだった。話題があちこちに飛んだり、行きつ戻りつする上に、侯爵自身がどこまで『詳しい話』を認識しているのか甚だ怪しい。何とか辛抱強く話を続けると、内密の話ができるという私室へ案内された。詳しく説明できる者を連れてくると侯爵は言ったが、しかし実際は違った。
 その部屋に現れた女を、最初、レイドリックはただの使用人だと思った。何か伝達の行き違いがあって、誤ってやってきたのだと。しかし、そうでないことはすぐにわかった。艶のある濃い色の髪が、白く滑らかな肌に映える。潤んで輝く瞳で彼を見つめ、赤く膨れた唇を動かして女は言った。柔らかく吸い付くような感触が彼の手に触れる。頭の芯を痺れさせる、甘い声と脂粉の匂い……。
 ――典型的だ。
 美酒と美女、酔わない男はいない。少なくとも、いないと侯爵は思っている。彼を溺れさせさえすれば、あとは手懐けた犬のように、自分のために甲斐甲斐しく働くと――そんな思惑に気づかれないほど、彼を完璧に酔い潰せると思ったのだろうか。こんな、あまりにも杜撰なやり方で?
「確かに、酒はあまり飲まないようにしてるけどね。でも自分の許容量は知ってる。前に、試しにやってみたことがあるから。前後不覚になるまで飲むって、なかなか難しいんだなと思ったよ……だからこれくらいは、まだ大丈夫」
 不愉快な記憶を脳裏から追い出しながら、レイドリックは隣の親衛騎士に答える。彼女を安心させるつもりで言ったのだが、しかし効果はおよそ予想と逆だった。シエルは目を丸くすると、愕然と声を上げる。
「や、やってみたって……もしかして、限界まで飲んでみたってことですか? 試しに? なんてことを、危ないですよ!」
「大袈裟だな。死にはしないよ」
「場合によっては死にますよ! えっ、いっ、いつですか!? そんな、わたしがお側についていながら……!」
「慌てないで、最近のことじゃないから。ずっと前の……君と会うより、前のことだよ」
 そう言って、レイドリックはふと気づく。彼女と出会ったのは、十五のときだ。そしてそれから、もうじき五年になる。これはちょっとした驚きだった。もうそんなに経つなんて――そんなに長く、一緒にいるなんて。
 そしてその経験から察するに、シエルは彼の言葉に少しも安心はしなかったようだ。声を低めはしたが、浮かない顔はそのままに問う。
「どうして、そんなことなさったんです? そんな……」
「馬鹿げたことをするのは、らしくないって?」
「そんな危険なことをなさるのは、お願いですからやめてくださいってことです。でも、馬鹿げたことと思ってくださっているなら、そっちでもいいです」
 彼女らしい言い方に、小さく笑う。レイドリックは肩を竦めて、もうやらないよ、と応えた。
「でも、誰だって、一度は知りたくなるんじゃないのかな。これだけ多くの人間が、喜んで口にする。何もかも忘れられて、幸せになれると言って、中には人生のすべてを放り出して、客観的には不幸になってでも求める者もいる。本当にそんなことが起きるのか――試してみたくなるだろう?」
 残念ながら、と言うべきかどうか、彼には何も起きなかった。何も忘れられはしなかったし、幸せになれもしなかった。どれだけ飲んでみても、彼は彼のままで、何も変わらず――なのに次の日には、本当に起き上がれないほど気分が悪くなった。二日酔いだと言っても誰も信じてくれなくて、ちょっとした騒ぎにしてしまった決まり悪さも含めて、なんて代償と引き合わない遊びだと思ったものだ。
 シエルは、まだ何か言いたそうな様子だったが、しかしその機会はなかった。馬車が停まったのだ。
 持ち場に詰めている宿直の衛兵を除いて、王城にはすでに人の気配はなかった。染み入ってきた冬の冷気に、通路に灯された灯火が凍えそうに震えている。石壁に、二人分の足音だけが虚ろに響く。
「どうぞ、レイドリック様」
 先に彼の部屋に足を踏み入れたシエルは、手慣れた正確さで異常がないかを確かめてから、ようやくレイドリックに入室を認めてくれた。いかなる事態にも備え、主の行くところ常に従い、すべての安全を確認するのは親衛騎士の務めだが、正直レイドリックは、そこまでしてくれなくてもいいと思っている。彼の心情では、王城の入り口で別れて、彼女の今日の務めはおしまいにしたいところだったが、彼女がそれを受け入れないだろうこともよくわかっていた。
「ありがとう。遅くまで付き合わせて、悪かった。明日は遅くていいから、ゆっくり休んで」
 せめてできるのは、時間を無駄にせず、早く彼女を解放することだ。お休み、また明日、と挨拶をして、レイドリックは彼女を扉の向こうへ送り出した。
 ようやく一人きりになった部屋で、ため息をつく。そう、確かに、ゆっくり休むべきだ。実際に何か働いたわけでもないのに、妙に疲れた。さっさと眠って、明日のために備えるのが建設的なやり方というものだ。
 しかし実際に彼にできたことは、何とか寝台に歩み寄って、そこに座り込むことだけだった。上着くらいは脱がなくてはと思ったが、その手も途中で止まってしまう。何もかもが、ひどく億劫だ。上着を脱ぐのも、着替えるのも、寝台に潜り込むのも――明日が来るのも。
 酒精というものは本当に、人を幸せにするものだろうか。少なくとも、レイドリックには信じられない。酒精は思考に干渉する――日の当たる世界では意識から締め出していられたものを、暗闇の中から引きずり出してくる。鍵を壊し扉を破り、暴力的な執拗さで。
 女の赤い唇が動く。哀願する、欲望の声。要領を得ない話ばかりする男は、しかしこちらに向ける、値踏みする視線だけははっきりしている。あの男を助けろと、父は言った。だがそれは本当に、彼に言っていたのだろうか。話をするときに、視線が合わなくなったのはいつからだろう。そもそも、合っていたことがあったのか? あの人は問題が解決されるなら、誰だってよかっただけなのだ。
 なんでこんなことをしているのか。たまたま王家に生まれたから、それが義務だから、それだけだ。でも、その義務がなければ、一体何をしていいのかわからない。したいことなんかない。何もない。
 何かが、欠けているのだ。ずっと昔から、そう言われてきた。そうなのだろう。でもそれは何なのか。これほど長く探しているのに見つからない――そして多分、この先も、見つかる見込みはないだろう。
 明日が来ることに、何の意味があるだろう。今日と同じ明日が来たところで、それが一体どうだというのだ。何も見つからない、どうすればいいのかもわからない――何のためにも、誰のためにも生きられないのに。
 馬鹿なことを考えるのはよせ、と理性の欠片が言う。とにかく彼には義務があって、果たすべき仕事がある。この上、何のためとか誰のためとか、面倒なことをぐずぐず言うのは時間の無駄だ。やるべきことさえやっていればいい。それで時間は過ぎる、何も考える必要はない。
 しかし一度理性の枷を外れた思考は、もはや止まることなく空転し続けるばかりだ。だから酒は好きでないのだ。本当に皆、こんな感覚が好きなのだろうか。考えたくもないことを延々と押し付けられて、なす術もなくいなければならない、こんな感じが?
 それとも、足りないのだろうか。こんな中途半端な酔い方ではなく、もう少し飲んでみたら、今度こそは……。
 だがその考えが閃いた瞬間、突然物音がして、レイドリックは我に返った。礼儀正しく、控えめな――しかし確かに、誰かが彼の扉を叩いている。およそ礼儀正しくとも、控えめとも言えない、真夜中の訪問。
 一瞬、返事をしないでおこうかと思う。義務は果たすつもりだ。何か不測の事態が起きたなら、いつでも扉を叩いてもらって構わないと周りには言っているし、いつもはその気構えでいる。でも今夜だけは、放っておいてもらうわけにはいかないだろうか。
「レイドリック様」
 けれど扉の向こうから聞こえてきた声に、その試みも断念する。ついさっき別れたばかりの彼の親衛騎士がわざわざ戻ってきたとなれば、明日に回せない何事かがあったに違いない。それでなくても、今夜、彼女には不当な扱いをしてしまった。せめて、ここで応じるぐらいのことはしなくては。
 億劫なのをこらえて立ち上がる。ひと呼吸おいて扉を開けると、やはりそこにいたのはシエルだった。彼の姿を見ると、ほっとしたように顔をほころばせる。
「よかった! あ、すみません、お邪魔してしまって。でも、お休みになる前にと思って!」
 はいこれ、と勢いよく差し出されたものを反射的に受け取ってしまって、レイドリックは目を瞬いた。城の厨房から持ち出したと思しき大きめの水差しと、杯が一つ。
「寝台にお入りになる前に、お水をそれだけ全部飲んでしまってください。そうしたら、明日がだいぶ違いますから」
「ああ……。ありがとう、でも、わざわざそんなことのために戻ってきてくれたの? 大丈夫だよ、それほど酔ってはいないから」
「もしひどく酔っておいでだったら、このくらい水を飲んだところで明日には何の変わりもないですけど、少し飲みすぎた、くらいでしたら、もう全然違います。それに……わたしの経験から言って、あなたのような方は、少し気をつけていらした方がいいです」
「私のような?」
「お酒で豹変したり、潰れちゃったりするような人は、ある意味安心なんです。見てる人間にはこれ以上はだめだなってわかるし、潰れてしまえばそれ以上飲むこともできなくなりますから。でも、飲んでてもずっと平静で、最後まで意識がちゃんとしている人は、どこからが危ないのかわかりにくいんですよ。周りにもわからないし、多分、当の本人もわからないから、気付かないうちに大変なことになっちゃったりします。気をつけて、気をつけすぎることはありません」
「随分詳しいね」
「信じてください! これでもわたしは、『馬と宝冠』亭の名誉殿堂入り会員なんです。ありとあらゆる酔っ払いには慣れています!」
「……何だって?」
 突然、聞き覚えのない単語が出てきた。思わずきょとんと訊き返してしまったレイドリックに、シエルは一瞬、しまったというような顔をした。どうやらそれは、主に告げるべき事柄ではなかったらしい。とはいえ、それほど堂々と言ってしまったことを今更なかったことにするわけにもいかず、シエルは曖昧な微笑を浮かべながら、懇親会です、と答えた。
「まあ、あの酒盛りを、体よく言えば、ですけど……。王城の衛兵隊は、『馬と宝冠』亭を行きつけにしていて、ときどき、わたしも誘ってくれるんです」
 シエルが王城の衛兵たちと親しく言葉を交わすようなところは、レイドリックもこれまでに何度も見ている。本来が王国騎士となるべく、つまり国王直属の精鋭として兵を従える身分となるはずだった彼女は、しかしそういうところに屈託はないらしい。相手が平民出の衛兵でも、今や王国騎士となった同輩でも、同じように話す。明るく物怖じしない性格のためか、衛兵だけでなく城仕えの使用人にまで友達がいるらしく、レイドリックは密かにほっとしていたものだ。彼のただ一人の親衛騎士という特異な立場に置いてしまった彼女が、そのために孤独になっては気の毒だと思っていたのだが、その心配はないとわかったからだ。
 しかしまさか、そんな飲み会に混ざるほど馴染んでいるとは思わなかった。しかもどうやら、一度や二度ではなさそうだ。
「彼らはわたしがいると、いろいろと都合がいいんです。ジーヴァルに――この男が、とんだ酒豪なんですけど――独り勝ちさせなくてすむし。それに介抱要員が一人確保されるしで」
「君は……お酒が強いの」
「そこそこです。酒場の在庫を一人で一掃するなんてことはできませんけど、でもそれほど深刻に具合が悪くなったこともありません。衛兵隊のみんなは、ついにわたしを飲み比べには入れてくれなくなったから、あの中では、まあ、強いんだと思います」
 こともなげにそう言うシエルを、レイドリックはしげしげと見つめる。何もかも、はじめて聞くことばかりだ。もちろん、彼女が自分の時間にどんな活動をしていようがいちいち報告する義務はないし、そうして欲しいとも思わないが、それにしても、ほぼ毎日顔を合わせている人間に、まったく見たことのない一面があることを知るのは、なんとも妙な気分だ。
 ――大体、いつから……。
 不意に目の前の彼女が、見知らぬ相手のように見える。ついこの前まで、彼女はこんな風ではなかったではないか。細い体には大きめの訓練着を着て、いつもどこかしら土や泥で汚れていて、彼の行くところどこへでもついてきたがって、まるで他のことには何も関心がないというように……。
 いつの間に、その髪はそんなに伸びたのだろう。いつの間にそんな身ぎれいな姿になって、いつの間に――。
「レイドリック様?」
 名を呼ばれて、我に返る。とっさに目の前の親衛騎士から目をそらして、レイドリックはため息をついた。
「君が、そんな遊びをしているとは知らなかったな」
「す、すみません! 衛兵隊には、いつもお世話になっているので、こうした親睦を深めるのは大事なことかと」
「そういう言い訳をして、楽しくやってたのか」
「えっ!? いえ、そんな……あ、え、えっと、申し訳ありません!」
「本当に。――そんな楽しそうなことがあるなら、どうして私も誘ってくれなかったんだ?」
「…………!?」
 シエルは目を白黒させて、その場に固まってしまう。申し訳ないと思う一方、彼女の動揺にはいくらかほっとして、レイドリックはにっこり笑った。こういうところは、変わらない。彼の言うことをいちいち真面目過ぎるくらいに真に受けて、何一つ疑わない。出会った頃の、あの少年のようだった彼女のままだ。今はまだ。
 たとえ、いつかは変わってしまうにしても――今は、まだ。
「まあ、無理は言わないでおくよ。私がくっついて行ったりしたら、息抜きにはならないだろうからね」
「そんなことはありません! いついかなるときも、あなたをお守りすることはわたしの誉れで……」
「君は気にならなかったとしても、衛兵たちはとっても落ち着かないと思うな」
 誰だって、勤務時間外に、王太子などという厄介事を抱え込みたくはないものだ。何か反論しかけて、しかし適切な言葉を見つけられずにまごついているシエルに向かって、レイドリックは穏やかに告げた。
「わかったよ。君の才能と経験には敬意を払おう。言われた通り、この水を飲んでから寝ることにするよ。――気にかけてくれて、ありがとう」
「い、いえ!」
「でも、君もあまり無茶な飲み方をするんじゃないよ。いくら体質っていっても、どこかに限度があるだろう。楽しむくらいにしておくんだよ。もし誰か、君に羽目を外させようとするような人間がいたら、言って。そのときは、ぜひ私もついて行かせてもらうから」
「え? あ、だ、大丈夫です! そういうことはありません」
 答えたシエルは、少し焦ったようではあったが、何も隠し立てしてはいないようだ。何故、主がそんなことを言うのか、訝しんでいるようでもある。その様子に一応は安心すると、レイドリックは改めてお休みと挨拶を残し、敬礼するシエルの前に扉を閉めた。

 窓を開けると、外は薄明るかった。空高くから月光が差し、誰もいない中庭の石の舗装を照らしている。自室から見える見慣れた風景、だがこの凍える空気の中、あまりにも冴え冴えとした光に照らされた空間は、不思議なほどに違って見える。作り物めいて美しく、一方で廃墟のように荒涼とした――まるでここだけ、ぽっかりと世界から切り取られてしまったような。
 やはり同じく冷え切った水を口にしながら、レイドリックはその景色を眺めた。確かに、シエルは正しかったようだ。冷たい感触が喉を下っていくたび、息がしやすくなる気がする。先刻までは彼を押し潰しそうにさえ思えた、あの不可解な感覚も、もう戻ってこない。
 やはり、酔っていたのだ。だからあんなつまらないことが、世界の大事みたいに癇に障っただけなのだ。何一つ、変わったことは起きていない。誰かが彼を、彼の望まないやり方で利用しようとするなんて、今更どうこう思うようなことではない。単なる日常、今までずっとそうだった――そしてこれからも、ずっとそうだ。
 暗がりの中、女の赤い唇が動く。遠い国の花を思わせる脂粉の香り。彼の腕にかかった、絡みつくような感触。
 ――どうか、この一夜だけ……。
 もちろん、そうだろう。今や滑稽にしか感じられない記憶に、レイドリックは微かに唇を歪めた。彼女の目的のためには、一夜の既成事実さえあれば十分だった。それ以上は要らない。それ以上は、彼と一緒にいなければならない理由などない。
 ――どうして、『ずっと一緒に』とは、言ってくれなかったんだ?
 誰にも、そんなことは耐えられない。わかっている。けれどどうせ嘘ならば、そのくらいの愛想をくれてもよかったのに。
 凍てついた深夜、辺りからは何の物音も聞こえなかった。月明かりに照らされた世界を、レイドリックはじっと見つめる。切り離された世界、音もなく、声もない。静かで、凍りついていて、動くものはなく……誰もいない。
 誰も――いるはずがないのだ。

***

「シエル。君は、リヒターシェンに戻るべきだ」
 ついにそう口にしたとき、胸中を占めていた最も大きな感情は安堵だった。やっと、言えた。ここまで来て、やっと。
「レイドリック様!」
 目の前のシエルの愕然とした表情を見るのは、さすがに心が痛んだ。自分の言葉が、彼女にとってどう響くのかはわかっている。遠く故郷を離れ、家族も友人も、愛着のある何もかもを後に残して、彼についてここまで来た――彼のためだけに、来てくれたのだ。なのに、今になってこんなことを言うのは裏切りも同然だ。
 わかっている。でも、言うしかない。たとえ今、彼女をひどく傷つけたとしても――取り返しがつかなくなる前に。
「本当は、最初からそうするべきだったんだ。ちょうどいい機会だ」
 最初から、彼女をついて来させるべきではなかった。どんなに懇願されても、リヒターシェンに残してくるべきだった。
 ツァーラントとの和平を結ぶための体のいい人質として、自分が出向こうと決めたとき、レイドリックは自分の先行きについては何とも思わなかった。ツァーラントのような、今や飛ぶ鳥を落とす強盛国に目を付けられて、リヒターシェンに和平を受ける以外の選択肢はないし、誰かが行かねばならないのなら、彼以外に選択肢はなかった。それだけだ。
 王太子の地位などというものは、たまたま父王の子としては一番最初に生まれたから、彼に回ってきていただけだ。彼がいなくなれば弟妹たちに代わるだけのことで、問題はない。だが、敵国――和平なんて一時的な口約束だと、誰にだってわかっている――に赴いて、情勢を判断するということは、おそらく家族の中では彼にしかやれないことだろう。こうなるしかない、ならば何を思うことがあるものか。
 何とも思わない――彼女のこと以外は。
「何故ですか」
 衝撃を隠しきれない声音で、シエルが問う。突然蹴飛ばされた仔犬のような表情から、目を背けたい衝動を抑え込んで、レイドリックはじっと彼女を見返した。駄目だ、どんな顔をされても、もう間違うわけにはいかない。
「どうして、そんなことを仰るのですか。わたしはあなたの親衛騎士です。あなたに忠誠を誓って――」
「もう、誓う必要はない。君が私のすることを望まないのなら」
 実のところ、必要というならば、ずっと必要はなかった。レイドリックにとって、彼女は予定しなかった親衛騎士だった――そして彼女にとっても、レイドリックは予定しなかった主だ。国王に仕える王国騎士になれなかった彼女に機会を与えた、ただの方便だ。彼女でなければならない理由はない、彼でなければならない理由もない。
 いつか、終わりが来ると知っていた。誰一人、彼の側には長くいられない。どうせ終わるものならば、今ここで――五体満足で、彼の運命に巻き込まず、彼女を故郷へ帰せるとしたら今しかない。
「君は、こういうことには向いていない。卑怯な手段を、目的のためならと呑み込むようなことはできないだろう」
 ツァーラントのイスラ王を、殊更に残虐な人間だとは思っていない。会う前からそう思っていたし、実際に会った後は尚更そう確信した。乱暴な口を利き、ときに横柄とも思える態度で、どんな強硬な手段を取ることもためらわないが、それにはすべて理由と計算があってのことだ。戦場での並外れた戦果で知られる『覇王』は、ただ勇猛さで諸国を蹂躙してきたわけではない。細心な頭脳と緻密な計略あっての業なのだ。
 リヒターシェンではじめて彼の噂を聞いてから、レイドリックはずっと彼の消息を追っていた。彼の辿った征路、彼の指揮した戦場、彼の支配地での動向など、できる限りの情報を集めていた。いずれ彼が自国の脅威になると思っていたのは確かだが、それだけではない。正直に言えば、魅了されていたのだ。大胆で型破り、誰も思いつかないようなことをして、しかしそれが決して不合理ではない、むしろすべてが理に適った動きなのだ。理性に裏打ちされた発想、それを徹底して押し通す強さ、こんな人が、同じ世界にいるなんて。
 だが、それだけに恐ろしい。イスラは残虐な人間ではないが、目的のためならどんなことでもやってのける。何を犠牲にすることも、誰を傷つけることも躊躇わない。たとえば――レイドリックの動きを牽制するためだけに、シエルを傷つけることも。
「そうと知って連れてきたのは、私の間違いだった。正せるものなら、正したいと思う」
 彼を甘く見ていたのだ。初対面で痛感させられた。シエルに斬りかかった覇王の剣は、慄然とするほどの殺気に満ちていて、レイドリックを心底ぞっとさせたものだ。この和平にかかっているのは自分の身命だけ、シエルはあくまで彼にくっついているだけの親衛騎士で、だから彼女の命は守れると思っていた……だが本当にそうだろうか。イスラが次にどんな手に打って出るか、必ずすべてを予想できるわけではないのに。
 よく、シエルは平気でいたものだ。あんな剣を正面から受けて、それでもレイドリックの方ばかり気にかけていると気づいたときには、ほとんど憤りさえ覚えた。どうして彼女はそうなのか、どうしてそんなときまで、務めのことなんて考えているのか――彼の方は、こんなにも、恐ろしくてたまらないのに。
 あのときから、もうずっと、怖くてたまらない――いつか自分の側で、彼女を死なせることになるのではないかと。
「無理強いはしないよ。帰ることも、残ることも――けれど、私は考えを変えるつもりはない」
 だからよく考えて、と付け加えたが、シエルの出すべき答えは当然決まっている。彼女の忠誠は必要ないと、面と向かって言ったのだ。親衛騎士にとってこれほどの仕打ちはないだろう。たとえシエルがその仕打ちを恨まなかったとしても、やはり取るべき道は一つだ。主に必要ないと言われた親衛騎士は、その職務に忠実であればあるほど、離れざるを得ないはずだ。
 ――これで、終わりだ。
 また一つ、別れるときが来ただけだ。お定まりの展開、しかし今回は、これまでよりはまだましだ。彼女の身命を守ることができる、少なくとも、彼の運命に巻き込まずにいられる。十分に意味のあることだ――心の一部が削り取られたような、虚ろな痛みに耐えるだけの意味が。
 そう、思っていたのに。
「レイドリック様――もし、イスラ陛下を暗殺されるのでしたら、どうかこのわたしにお命じください!」
 先刻は確かに、呆然と悲愴がないまぜになった様子で彼の前から立ち去ったはずのシエルは、しかし何を思ったか、勢いよく戻ってきたかと思うと、決然とそう言ったのだ。レイドリックは唖然とした。一体何がどうなって、そういう考えになったのだ?
「それがあなたのご意志なら、必ず成就させてみせます。そのために、わたしはあなたに親衛騎士の誓いを捧げたのです――あなたの望む未来を叶えるために」
「……どういう風の吹き回しかな。君は、イスラ陛下を排除するのに反対だと思っていたけど」
 内心を押し隠して、レイドリックは彼女を見やった。彼女の考えていることは、何でもわかると思っていた。素直で正直、真面目で忠実な彼の親衛騎士の考え方は、手に取るように把握していると。
「正直に申し上げて、間違っていると思います」
 なのに今、シエルが口にする言葉は、およそ彼が想像もしなかったものだ。いよいよ呆気に取られるレイドリックに、しかし彼女はためらいなく続ける。
「あの方を殺してしまったら、きっとあなたは後悔する。でも、だからこそ、もししなければならないのだったら、わたしのこの手をお使いください。あなたの御名も――御心も、傷つける必要はありません」
 まっすぐに向けられる眼差しは、彼のよく知る彼女のもの。しかし今、それは、これまで味わったことのない感触を彼の胸中に呼び起こす。心の奥底まで貫くようにまっすぐで、けれど決して不快ではない。むしろ――。
「わたしは、あなたを救うことはできないかもしれません。けれど、あなたと同じものを背負うことはできる――同じ重さで背負うことはできなくても、その欠片だけでも」
「…………」
「あなたに降りかかる罪も呪いも、あなた一人を傷つけたりはさせません。そのために、わたしはここにいるのです」
 これは、彼の知っている彼女だろうか……しかしレイドリックは、慌ててその考えを押し殺す。彼女のことは、何でもわかる。わかっているはずだ。忠誠心に溢れ、与えられた任務に情熱的で、ときに行き過ぎる。それだけだ――『親衛騎士』の職務に熱心なのだ。そのために、こんなところまで来てしまうほど。
 だから、彼も『主として』言わなければならない。
「……私は、君にいてほしいとは思わないよ。ここにいて、君にいいことがあるとも思えない」
「わたしはここにいたいです。いいことではなくて、悪いことを受け入れるために――あなたと一緒に」
「私は、君が主として望むような人間ではないかもしれないよ。君に何をさせるか解らない――大勢の人間を踏み台にして、自分のために利用して、そのことに何の痛痒も感じない人間だとしたら、君の忠誠と献身に、何の意味があるのかな」
 それは彼の最後の抵抗だった。自分がどういう人間かは、自分でよくわかっている。謀略も陥穽も、別に好きではないが、躊躇もまた感じない。良心の呵責などというものは、目的の前にいくらでも無視してしまえる。何かが足りない、欠けている。
 頼むから、と、レイドリックは密かに祈った。頼むから、もう聞き分けてほしい。これ以上、その眼差しで彼を見ないでほしい。
 けれど、どれほど強く願っても、やはりシエルは彼を裏切る。依然、目を逸らすことのないまま、彼女はきっぱりと言ったのだ。
「最後まで、あなたと一緒にいられます」
「…………」
「レイドリック様、わたしはもう、あなたに誓ってしまいました。他のどこにも、誰の下にも、行きたいとは思いません。あなたに望まれるほど、お役に立てないことは重々承知していますが――せめて、あなたのために死なせてください」
 ついにすべての言葉を失って、レイドリックは口を閉ざすよりなかった。まったく、とんでもない台詞だ。死なせるなんて、そんなことができるわけがない。そうならないように、こんなに必死になっているのに、どうしてそういうことを言うのか。
 でも――でも。
 ――最後まで、一緒に。
 耳に残る、その響きが、刻印のように焼き付いて消えない。そのたった一言が、彼の理性とは裏腹に、すべてを塗り替えてしまう。
 本当に、そんなことがあるだろうか。何かが足りなくて、欠けているものが見つからなくても、彼女はそう言ってくれるだろうか。
 誰も、彼の側には長くいられない――けれど、彼女だけは?
「……もう、駄目だな」
 零れた呟きは、彼自身にも意識されないものだった。しかし敗北は承知している。もう、駄目なのだ。何がどうでも、たとえどんな危険があっても――彼女を放せない。
「努力は、したんだ、これでも。――君の手を離してあげられる、最後の機会だったのに」
 どうして、とレイドリックは言わずにはおれない。どうして、君はいつもそうなんだろう。
「いつもは、私の言うことを何でも聞いてくれるのに、どうして肝心のところでは聞いてくれないのかな――肝心の、嘘のときには」
「レイドリック様……?」
 きょとんと目を瞬いて当惑しているらしい彼女の表情は、やはり見慣れたもので、レイドリックは小さく微笑む。シエルが、彼のことを何もかも知っていると思ったことはない。むしろ、何も知りはしないのではないかと思うことさえある。王太子の肩書の他には、理想も希望も自分の意志も、何一つ輝かしいものを持たない彼のことなど、全く知りはしないだろう。
 けれど、それでもとにかく、彼女はずっと側にいてくれたのだ。期待も失望も詮索もせず、彼が何を持っていようがいまいが関係なく。
 それが、彼にとってどんなことなのか、きっと彼女にはわからないだろうけれど。
「でも、後悔してたのは本当だ。あのときから……君がイスラ陛下に斬りかかられたときから、ずっと帰ってほしかった。一番、してはならないことをしてしまったと気が付いたから」
 今だって、まだ、恐れている。あのときシエルを失っていても、それはひどい気分になっただろうが、この先は更にだ。おそらく、もうきっと耐えられない。
 だからもう、耐えようとは思うまい。
「でも、もう――これで離れられなくなった」
 もし彼女に何かあったなら、もしこの先、彼女を失うようなことになるなら、そのときは何もかも手放そう。地位も身分も国も義務も――命だって、放り捨てて構わない。
 無責任だと、他人は言うだろうか。でもいつだって、それが彼の本心だったのだ。何も必要ない、何一つ興味はない。欲しいものは、心から望んでいることは、ずっとずっと一つだけ。
 ――どうか、最後まで、一緒に。
 もう、目を背けたいとは思わない。レイドリックはまっすぐ彼女を見つめると、意を決して告げた。
「解った。君には、何もかも白状しよう。――君には知られたくなかった、私の卑怯で悪辣な計画も、全部」

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