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● 幸福な食卓 ●

 台所の竈に火を入れて、鉄鍋を熱くする。薄く切ったベーコンと、届けられたばかりの卵をこんがり焼きつけていると、やがて通りからミルク売り商人の声が聞こえてくる。朝一番の搾りたてのミルクは、なんとしても欲しいところだが、しかしここで慌てるのは禁物だと解っている。うっかり鍋を放り出して、中身を炭に変えてしまうのはもうこりごりだ。
 そんな悲劇を回避して、ようやく手に入れたミルクで麦を煮る。薄切りにしたパンに焦げ目をつけて、塗るのはママレードのジャムにしよう――ロンドンのグレンディル伯爵邸で、朝食に出された覚えがあるから、少なくとも間違った選択ではないはずだ。多分。
「……よし」
 食卓に並べた二人分の朝食を確認して、アネットは小さく呟いた。今日は失敗しなかった。……焼いた卵の形が不器用に歪んでいるだとか、パンの厚みがてんでばらばらだとか、ミルク粥をちょっと焦がして微妙に茶色がかった色になってしまっただとかは、まあ許される範囲だと思う。これまでの戦績と比べれば。
 そうした都合の悪い事実に目を瞑れば、残る仕事はただ一つだけだ。アネットは意を決して、寝室の扉へと向かった。音を立てないようにそっと開けて、様子を窺う。
 寝室の中は、先刻、彼女が出てきたときと変わりなかった。まだ窓にはカーテンがかかったままで、室内は心地良く薄暗い。しんと静かで、物音一つしない――息を殺していないと聞こえない、寝台の微かな寝息以外には。
 それを妨げないように、アネットは用心深く室内に足を踏み入れた。つま先立ちで、足音を消して寝台に近付くと、側に座り込んで、眠っている相手を見つめる。互いに誓いを交わした人、誰よりも近くにいる――何よりも愛しい、彼女の夫。
 ――夫……。
 その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、不意に胸がどきりと高鳴って、アネットは慌てて深呼吸をした。もうそろそろ慣れてもいいと思うのだけれど、どうもまだ落ち着かない。今だってときどき、夢なのではないかと思う。彼が――リチャードが、結婚してくれたなんて。二人で、二人だけで、一緒に暮らしているなんて。
 けれどこうして、彼の寝顔を見つめているときは、確かにこれが現実だと感じられる。ロンドンにいた頃、彼女の執事だったリチャードは、必ず彼女より先に起きていて、彼女が寝台に潜り込んだ後も、屋敷の仕事を片付けていたものだ。あの頃は、彼のこんな顔を見ることができるようになるとは思わなかった。執事が主に対してとるべき、丁重で隙のない態度ではなく、こんな風に無防備なところを見せてくれるのが、今は嬉しくてたまらない。
 ――それにしても……。
 よく眠っている。じっと見つめているアネットの視線の先で、リチャードはそれに気付きもせず、掛布に包まって微動だにしない。無心に眠り込んでいる様が微笑ましい一方で、少し気掛かりでもある。リチャードは一言だって、そんなことは言わないけれど……見知らぬ土地で、新しい仕事をして、とても疲れているのかもしれない。
 ――うーん……起こさなきゃ、いけないんだけど……。
 しかしこうも気持ちよさそうに眠っていると、それもなんだか忍びない。もう少し寝かせていてあげたい気持ちで、声をかけるのを躊躇っていたアネットだが、なおも様子を窺おうと寝台を覗き込んだ瞬間、思いがけないことが起きた。
 不意に強い力で、腕を引かれる。咄嗟に体勢を保てず、寝台に倒れ込みそうになるところを、別の腕が支えてくれた。柔らかく抱き寄せられて――口付けられる。優しく触れるだけの、けれど確かに唇に残る、慕わしい温度。
「おはようございます」
 聞き慣れた声が、耳を撫でる。落ち着いた響きには、けれどどこか笑いを堪えているような気配があって、アネットははっと我に返った。いつの間にか寝台から身体を起こして、彼女を抱きしめている相手を、慌てて見やる。
「リチャード! お、お、起きてたの!?」
 訊くまでもない。確実に、起きていたに違いない。動揺するアネットとは裏腹に、リチャードの態度は落ち着き払ったものだった。寝惚けたところなど少しも見えない灰色の瞳で、じっと彼女を見つめたかと思うと、ふと笑みを閃かせる。ますます彼女を動揺させる、けれど惹きつけられて目が離せない、その表情。
「もちろん。――あなたがキスして起こしてくれると思って、待っていたのに」
 解っている。からかわれているのだということくらいは、ちゃんと解っている。しかし必死になって自分にそう言い聞かせても、アネットは跳ね上がる心臓を宥めることはできなかった。急いで視線を逸らしたけれども、もう遅い。頬が熱く火照るのが、自分でもはっきり解る。
「あ……う……えっと……」
 なんてひどい遊びをするのだろう。彼のそんな一言で、彼女がどんなにどぎまぎするか、リチャードは知っているのだろうか。頭に血が上って、上手く考えがまとまらない。止めてほしい――ああ、でも本当は、止めてほしくもないのだ……。
 相反する思いが、尚更動揺に拍車をかける。アネットは彼から離れて立ち上がると、面白がったリチャードが二度目の口付けをする前に、動揺を覆い隠すように慌てて告げた。
「お、起きてたなんて、ずるいわよ! でも、ちょうど良かった……あの、朝食作ったんだけど、一緒に食べない?」

     *     *     *

 アネットが、リチャードとともに故郷を離れ、海を渡って今の生活をはじめてから、そろそろ一月が経とうとしている。お互い人生ではじめての、長い航海の末に辿り着いた新天地だ。頬に当たる風も大地の匂いも、空の色さえ違う。
 一番に違うのは、やはり人だ。港は多くの外国船で溢れ、絶えず人間を運んでくる。荷と人とでごった返す喧騒は、ロンドンの港に劣らない活気に満ちていたが、耳にする言葉には馴染みのない、意味の取れない異国のものも少なくない。英国の植民地として発展しているこの土地は、しかし同時に旧大陸のあらゆる国から、希望と野心を抱えた人々を吸い寄せているのだ。
 一時たりとも静止していない船を下り、ようやく揺れない地面に足をつけた人々を客にするべく、港にはあらゆるものが揃っている。酒場や宿はもちろんのこと、市場に工場に商店、賭場までもがある。そして一番活発なのは、なんと言っても仕事や住まいの斡旋だろう。国で食い詰めたり、より条件のいい仕事を探してはるばる海を渡ってきた労働者たちは、増大する需要に従って、次々と新たな事業へと送り込まれていく。
 そしてもちろん、アネットもそうした仕事の口を見つけるつもりだった。ロンドンでは伯爵家の主として、何不自由ない生活を送っていたが、国を出た今では話が違う。
 元々が貧しい環境で育ったから、働くのは苦ではない。というか、働いていないと何となく不安なくらいだ。ロンドンでのお嬢様生活とはすっかり決別するつもりで、意気揚々とそう主張したアネットに、しかしリチャードはいい顔をしなかった。
「その必要はありません。おれはそんなことをさせるために、あなたにここまで来てもらったわけじゃない」
 活況を呈する新大陸は、しかしその分、発展途上の土地でもある。何が起こるか解らない場所に、右も左も解らない彼女を放り込んで働かせるなど絶対にできないと彼は言った。別に働かされるなんて思っていない、自分で望んですることだ、それに右も左も解らないのは、彼にしたって同じことではないかと言い募っても、それでもリチャードは頑として譲ってはくれなかった。結局、新たな地で過ごした最初の夜は、言い合いが高じて喧嘩になり、互いに背を向けて惨めな気持ちで眠りにつく羽目になったのだ。
 ――リチャードの意地悪。あたしだって、ちゃんとやれるのに……。
 こうなったら、自分一人でも仕事を探しに行こうと、アネットは密かに決意した。リチャードのことは信じているけれど、それでも生活がちゃんと軌道に乗るまでは、彼女だってできることをしたい。
 しかし結局、彼女がそうすることはなかった。次の日の朝、泊まった宿でアネットが目を覚ましたときには、とうにリチャードの姿は消えていたのだ。置手紙で、荷物の番をしているように言われたアネットは、置いて行かれた悔しさと心配で、一日を落ち着かず過ごしたのだが、しかし夕刻になって戻ってきたリチャードは、憤る彼女の苦情はあっさり聞き流し「行きましょう」と言った。行き先は、今二人が住んでいるこの家――二人で暮らすにはちょうどいい、こぢんまりした居心地のいい一軒家は、彼の新たな仕事先が口を利いて、住めるようにしてくれたらしい。
 聞けば、リチャードはこの一日足らずの間に、簡単に仕事を見つけてきたようだ。貿易の事業をしているところで、彼のように幾つもの国の言葉を理解できる人材はどうしても欲しかったらしく、予想外の厚待遇で迎えてくれるということだった。……夫のそんな特技を、そのときはじめて知ったアネットだが、別に驚きはしなかった。何をやらせても完璧な、有能極まりないグレンディル伯爵家の元執事には、できないことなどありはしないのだ。
 ――あ、甘かったわ……。
 そのことは十分知ってはいたはずなのだけれど、しかしこうして改めて実証されると、ため息しか出てこない。彼を甘く見ていたと、アネットは認めざるを得なかった。リチャードの言う通りだ。彼女の心配は、まったく必要のないことだった。リチャードは何もかも手際良く整えて、彼女の面倒を見てくれる――彼が彼女の執事であったときと同じに。
 そしてそれは、二人で生活するようになっても変わらなかった。朝、アネットが目を覚ますと既に食事ができていて、リチャードが紅茶を淹れてくれる。彼女の昼食の心配をして仕事に出かけ、帰ってきてから夕食の支度をする。アネットが手伝おうとしてもやんわり断られ、ならばと片付けや洗濯をしようとすると、顔をしかめたりする。挙句の果てには「女中でも雇いましょうか」などと言い出す始末だ。――一体彼はいつまで、彼女を『お嬢様』にしておくつもりなのか!
「いい加減にしてよ、リチャード! なんであたしに、何もさせてくれないの!」
「あなたがする必要のないことだからです」
 突然、食ってかかられたリチャードは、最初は驚いたようだった。彼女が何を言っているのか、理解できないという顔をしていたが、やがて彼女が家事をしたがっていることが解ると、いよいよ嫌そうに眉を顰めた。
「あなたが思っているほど、面白いことじゃありませんよ」
「あたしがそれを知らないと思ってるの? あなたと会う前、あたしがどんな暮らしをしてたか、解ってるでしょ!」
「そういえば、手紙を書くんじゃなかったんですか。しばらく引っ越す予定もないから、ここの住所を英国に知らせるといい」
「暇潰しをしたいなんて言ってない!」
 どうやらリチャードは、彼女の訴えを、時間を持て余した故のことだと思っているらしい。まあ、彼の言う通り、手紙を書かなければならないのは確かなのだが。今は遠く離れた故郷で、彼女の手紙を受け取ってくれるはずの人々のことを思い出し、アネットはひどく恋しく思った。もし彼らが近くにいてくれれば、このリチャードの解らず屋ぶりを、思う存分告げ口することもできるのに……。
「とにかく、あたしだってね、家のことくらいできるんだから。どうしてそんなに、あたしに仕事させたくないの?」
「そっちこそ、どうしてそんなにしたがるんですか。水仕事なんてしたって、いいことなんて少しもないでしょう。水は冷たいし、汚れるし、手も荒れます」
「いいことなんて少しもないのに、リチャードはやってくれるじゃない。あたしだって……」
「おれはいいんです。あなたは駄目だ」
「何それ! 不公平よ!」
「じゃあ公平に、誰か別の人に頼むことにしましょう。それでいいですね」
 しまった、このままでは丸めこまれてしまう。彼女にそう念押しして、話を切り上げようとするリチャードを、アネットは慌てて引き留めた。考えてみれば、彼とまともに言い争って、勝てるわけがなかったのだ。何かもっと、別のやり方で説得しなければ。
「ま、待って! その……リチャードは、本当に、それでいいの?」
「この辺りは、使用人を抱える家も多いみたいだし、別におかしなことでもないでしょう」
「で、でもね、でもそれだと……」
「何ですか」
「家で……二人きりに、なれなくない?」
「…………」
 こうして話し合いの結果、彼女も家の中の仕事をさせてもらえることになった。本当は、全部任せてと言いたいところなのだが、それはどうやらリチャードの方が落ち着かないらしい。さすがに、自分が留守にしている間のことは何も言わなくなったが、家にいるときは必ず彼女を座らせておいて、何かと用事を片付けてくれる。水を汲んだり、燃料を運んだりと力の要ることをしてくれるのは、正直とてもありがたいけれど、同時に心苦しくもある。――本当は、家に帰ってきたときくらい、ゆっくり休んでいてほしいのに。
 きっとリチャードにとって、彼女は未だに『お嬢様』のままなのだ。ロンドンの屋敷でそうであったように。気品も教養もなく、身分相応に振る舞うこともできず、面倒事を起こしては彼の手を焼かせてばかりいた、頼りにならない『お嬢様』のまま。
 それは違うと、彼に訴えたい。確かに、身分ある貴婦人としてはいろいろと問題があったアネットだが、しかしそれは彼女が、それまでの人生のほとんどを市井で過ごしてきたせいだ。貴婦人の作法は知らなくても、生きていくために必要な労働は、大概はこなしていける。
 しかし、面と向かってリチャードにそう言ったことはない。言うのを躊躇われる、理由がある。
「あー……」
 朝食を済ませ、リチャードを仕事に送り出してから、アネットは台所へと立ち戻った。鍋を覗き込み、残った粥を匙で掬ってパクリと食べる。朝食で散々に思い知っているはずなのだが、それでも何度でも確かめたくなる……もしかして、何かの勘違いかもしれないと思って。
「やっぱり、美味しくない……よね」
 だが口に出して言ってみると、変わらない現実が実感される。自分の感想に打ちひしがれ、アネットはがっくりと項垂れた。だから、リチャードに言えないのだ。なんでも任せてほしいだなんて、とても言えない。
 ――よく考えたら、料理なんて、したことなかったし……。
 貧民街で母と暮らしていた頃、住んでいた狭い屋根裏部屋には、台所どころか火床さえなかった。あったのは小さな火鉢くらいで、せいぜい労働者向けの露店で買った安い肉や粥を炙るくらいのことしかできない。仕事先で、料理の下拵えをやらされることはあったが、それは大量の野菜の皮をひたすら剥くとか、魚の鱗を取るとか、腕が動かなくなるまで鍋の中身をかき混ぜるといった、力任せの労働ばかりだった。火加減を見たり、味をつけたりといったこととは、無縁に生きてきたのだ。
 とはいえ、アネット自身は、それで不都合を感じたことはこれまでなかった。食べ物というものは何でも、柔らかくなるまで煮て、塩か酢を振りさえすれば食べられるものだと思っていたし、もし彼女がイーストエンドに住み続けていたなら、今でもそう思っていただろう。そうではないと知ったのは、彼女がグレンディル伯爵家の後継者として、ウェストエンドの屋敷に迎え入れられてからだ。はじめて目にする貴族の屋敷は、何もかもが驚くことばかりだったが、塩と酢と油以外の味のする料理は、特に驚いたことの一つだ。
 だが、ある程度以上の階級の人々にとっては、それは驚くべきことでも何でもないし、それはリチャードにとっても同じだろう。……少なくとも、昔アネットがしていたような、干からびて固くなったパンを食いちぎったり、傷んだ食べ物に味が解らなくなるほど酢をかけたりすることを、食事とは言わないはずだ。
 ――リチャードが作ってくれるものは、なんでも美味しいんだけどな……。
 だから、彼と同じように作りたいのだが、これがなかなか難しい。アネットは教わった通りにしているつもりでも、必ず何か失敗してしまうのだ。朝は、どちらか先に起きた方が食事を作る決まりになったので、アネットは毎朝リチャードより早く起きて、その権利を行使しているのだが、しかしその努力もあまり実を結んでいるとは言い難い。
 本当は、リチャードの言う通り、彼に任せた方がいいのだろう。アネット自身はともかく、彼女の練習に付き合わされて、毎朝否応なく妙な味の料理ばかり食べさせられるリチャードには、いい迷惑に違いない。
 ――でも、練習しないと、上手くはならないし……。
 考えれば考えるほど、気分が落ち込む。アネットは、ここ最近何度となく胸中に浮かぶ問いを、改めて心で繰り返した。今更問うても意味のないこと――けれど、問わずにはいられないこと。
 ――リチャードは、なんであたしと結婚したんだろう。
 もちろん、リチャードは確かに、彼女を好きでいてくれるはずだ。そうでなければ、あの日、別の人間と結婚しようとしていたアネットを、聖堂から連れ出してくれたりはしなかっただろう。彼女の結婚相手だったユージンは、喜んでくれながらも心底呆れた顔をしたし、リチャード本人も二度とやりたくないと言っていた。律儀で真面目な彼にとっては、およそ考えられない暴挙であり、だからそこまでしてくれた彼は、本当に彼女を望んでくれたのだと思う。
 けれど、彼の手を取って、これほど遠くに来たというのに、アネットには未だにその理由がよく解らないでいる。実際、二人で暮らしてみても、リチャードが彼女を必要としなければならないようなことなどほとんどなかった。彼はとても優しくて、彼女をこの上もなく大事にしてくれる――でも、彼女に助けてほしいとは、少しも考えていないようだ。
 ――夢みたい……。
 あの日、二人きりで誓いを交わしたときもそう思った。ずっと好きだったリチャードが、ぎゅっと彼女を抱きしめて、神の前で口付けをしてくれたときは、天にも昇る心地だった。
 しかし今、同じ言葉で感じる気持ちは少し違う。果たして彼女は、あの口付けに値したのだろうか。リチャードは優しくて、なんでもできて頼りになって――特に取り柄などないアネットを、好きになってくれる理由が見当たらない。
 幸せな毎日、けれど胸の奥底に、決して溶けない氷のように潜むものがあって、ふとした瞬間に心を冷やす。あの日から、ずっとそうだ。怖い――もしこれが夢ならば、いつかは必ず覚めてしまうのに。
「…………」
 そして今日も、アネットは軽く頭を振って、思考を打ち切った。そうだ、そんなくだらないことを気にしている暇はない。窓の外はきらめくような晴天、絶好の洗濯日和なのだから。
 とにかく今は、身体を動かそう。たとえ料理がいまいちでも、片付けだとか掃除だとか、やることはいくらでもあるはずだ。胸のうちから目を逸らしたまま、今日もまた、彼女の一日がはじまった。
 でも――いつか、こんな得体のしれない不安にも、慣れる日がくるだろうか。

     *     *     *

 新大陸の太陽は、生まれ育ったロンドンのものとはまるで別物のようだった。何かと言えば太陽が厚い雲の向こうに隠れ、一日の間にめまぐるしく天気が変わった郷里とは違う。ここでは太陽は随分と勤勉で、一日中眩しいほどの日差しが、青空から降り注ぎ続ける。
 その日差しで洗濯物を乾かして、家の中を掃除して、少し広さに余裕のある裏庭に小さな畑を作ったらどうだろうと考えながら草を取る。何度か水汲みをして、空いた時間で手紙を書いて、やがてアネットは市場に出かけることにした。そろそろ夕食の支度をしなければならない。
 家から少し歩いたところにある常設の市場には、郊外の農場から様々な作物が運ばれてくる。この辺りの住民にとっては、生活に欠かせない場所で、いつ訪れても大勢の人々で活気に溢れたところだ。アネットもここに来るのはとても楽しいのだが、しかしリチャードはどうもそれを歓迎しない風である。人混みには行くなとか、一人歩きには注意しろだとか、いつも口煩く言ってくる。……絶対に、彼は彼女の出自を覚えていないのだと思う。イーストエンドの路地に比べれば、酔っ払いも喧嘩沙汰も、どこにでもいるはずのスリでさえずっと少ないのに。
 ――心配してくれてるのは、解ってるんだけど。
 ありがたいと思うのは本当、しかしここ最近の彼女の気分では、それも素直に喜べない。やはりリチャードは、彼女を何かを任せられる存在と思っていないのかもしれない。危なっかしくて頼りなくて、いつだって彼に助けてもらわなければ何もできない――彼と人生を分かち合うに足りない存在だと。
 リチャードに解ってほしかった。守ってほしくて、彼と結婚したのではない。彼の力になりたくて、彼を幸せにしたくて――一緒に幸せになりたくて、結婚したのに。
「……もうすぐ、帰ってくるかな」
 市場から家に帰り着くと、日は西の空に傾いていた。窓の外を見やりながら、アネットは一人呟く。やがて暗くなる前に、リチャードが帰ってくるだろう。
 ようやく慣れてきた台所で、夕食の支度をする。竈に火を入れるのも、鍋を十分熱するのも、もうすっかり心得ている。元々、作業すること自体は嫌いではないし、それほど手間取ることもない。材料をきれいに切り揃えて、あとは鍋に入れるだけ……。
「あれ?」
 が、そこでアネットはふと迷う。何か、入れる順番があったような気がする。前にリチャードに教わったときに、聞いたような気がするのだが、一体何だっただろう……思い出せない。
「……ま、いっか」
 ぱちぱちと弾ける炎の音を聞きながら、しばらく考えてみたが解らない。こうしていても埒が明かない、とにかくやってみることにしよう。洗ったばかりの野菜を、鍋に放り込む。
 しかし次の瞬間、予想外のことが起きた。鍋の中で一際大きく、何かが弾けるような音がしたかと思うと、いきなり炎が燃え上がったのだ。
「え!?」
 どうしていいか解らず、その場に固まってしまう。けれどその一瞬の間にも、炎はますます勢いを増す。鍋から溢れた火が、ちらりと壁を舐めるのを見て、アネットは反射的に手を伸ばした。まずい、どこかに燃え移ってしまう……。
「アニー!」
 背後から、誰かが強い力で彼女の腕を掴む。鋭い声音で名を呼ばれ、アネットはびくっと肩を竦めたが、しかしそうして彼女の動きを止めた相手は、少しの時間も無駄にはしなかった。彼女を押し退けると、炎の勢いと熱に怯むこともなく、側にあった蓋で鍋を閉じる。すぐに炎が吹き出して、蓋を閉じている手まで焼いてしまうのではないかと、アネットは息を呑んだが、しかしそうはならなかった。そのまま、炎は音もなく消えてしまう。
「……リチャード……?」
 やがて、衝撃の余韻が行き過ぎるだけの間のあとに、アネットはようやく、腕を掴んでいる相手を見つめることができた。アネットを炎から引き離し、大過なく鎮火してくれたリチャードは、彼女に劣らず呆然としているように見えたが、呼ばれてはっと我に返ったようだ。
 振り向いた彼は厳しい表情で、アネットは先刻とは違う理由で身を竦める。しまった、とんだ失敗を見つかってしまった。びくびくしているところに、ぐいと肩を掴まれて、反射的に目を閉じてしまう。どんなにか怒られることだろう……。
「アニー」
「ごっごめん、ごめんなさい! こんなことになるなんて思わなくて……」
「怪我は?」
 けれど、彼女の言葉に被せるように発せされた彼の問いは、思いがけないものだった。驚いて目を開けると、真っ直ぐに彼女を見つめる灰色の瞳が見えた。強張った表情には、しかし怒りの気配は感じられない。その必死な、切羽詰まったような眼差しの理由が解らず、ぽかんとしてしまったアネットに、彼はもう一度繰り返した。
「怪我は、していない?」
「え、あ、あたし? だ、大丈夫よ。全然……」
 まさか、そんなことを訊かれるとは思わなかった。しどろもどろのアネットの答えに、リチャードは少し表情を緩めたが、しかしそれでは納得しなかったらしい。ずっと掴んだままだった彼女の腕を取って、その手に何の傷もないのを確かめると、ようやく深くため息をつき――突然、彼女を抱きしめる。
「――良かった」
 背に回された腕を、痛いほどに強く感じる。耳元で聞こえる囁きは、安堵の息に掠れていて、アネットは最初当惑し、次いで胸にじわりと何かが広がるのを感じた。痛みのような、けれど温かい、不思議な感覚。彼に心配をかけたことが申し訳なくて……けれど本当は、少しだけ、嬉しい。
「……ごめんね、リチャード、びっくりさせて。あたしは本当に、大丈夫だから……ありがとう」
「…………」
「あ、そ、それより、リチャードは大丈夫? 火傷しなかった?」
 今更ながらに、先刻の彼の手際を思い出す。あんなに燃え上がった火の側で、リチャードは何ともなかっただろうか。慌ててアネットがそう問い返すと、リチャードはそこでようやく彼女を放してくれた。
「……大丈夫です。おれは、怪我するようなことはしてません――あなたと違って」
「ほんと? 良かった」
「良くない!」
 だが、ほっと胸を撫で下ろす彼女に、リチャードは冷たい声音でぴしゃりと言う。不機嫌な灰色の瞳に苛立たしげに睨まれ、アネットはぎくりとして縮こまった。これから何と言われるか、想像がつく――リチャードは彼女の身を心配してくれたけれど、しかしもちろん、それで説教が避けられるわけではない。
「まったく、あなたときたらどうしてそう、考えられないことばかりするんだ。今度は一体、何をやらかしたんですか」
「な、何も変なことはしてないわよ! ただ料理してただけ……」
「ただ料理していれば、火柱なんか立ちません!」
「あたしだって、なんでこんなことになったのか解んないんだけど!」
「しかも、おれが止めなかったら、火に素手を突っ込んでたでしょう!」
「それはだって、急に燃え出したから、何とかしなきゃって思って……あー!」
 そこまで言って、アネットはようやく鍋の中身のことを思い出した。火から下ろされている鍋に駆け寄り、慌てて蓋を開けてみる。だが、今更慌てたところで事態が変わるはずもない。案の定、そこにあったのは食べ物ではなく、既に炭と化した何かだった。
「あーあ……」
 アネットはがっくりと肩を落として、その予期せぬ生成物を見やった。まんべんなく黒焦げで、到底食べられそうにもない。それでも何となく勿体なくて、一かけ摘まんで食べようとしたアネットだが、しかしそれは未然に防がれた。横からリチャードが手を出して、ひょいと鍋を奪ったのだ。
「駄目です、食べられません。諦めなさい」
「う……でも」
「でもじゃない。――しばらく、あなた一人で火の側に立つのは止めてください。おれの心臓に良くないから」
「ええ!」
「今度、休みのときに、鍋の中身が燃えないやり方を教えますから、それまで我慢してください。とりあえず今日は、おれが作ります」
「…………」
 慣れた仕草で鍋を空にして、リチャードはあっさりとそう言った。そしてそう言われれば、アネットには頷くしかない。たった今、危うく火事を起こしかけた立場では、彼に異を唱えようもない。
 待ってて、と告げたリチャードは、しかしもう怒ってはいないようだった。その辺にある材料を確認すると、さっさと彼女に背を向けて、目の前の仕事に取りかかる。まるで最初から、それが当たり前だというように。
 ――本当は……。
 その方が、リチャードも楽なのかもしれない。邪魔にならないように、少し離れたところから彼のすることを見つめながら、アネットは密かにそう思った。リチャードのすることは何でも手際が良くて、彼女とは大違いだ。彼にしてみれば、アネットがもたもたと危なっかしく料理するのを見ているよりは、自分でやってしまった方が、ずっと気楽なのだろう。
 胸の中の氷の欠片が、冷たく疼く。料理に限らない、他のこともそうなのだ。何も期待されていない、彼に期待されるような存在になれない。
 何のために、彼女はここにいるのだろう。彼の力にはなれなくて、どころか邪魔ばかりして――いつかこの夢が終わるかもしれないと、ただ怖がることしかできない。
「リチャード」
 実体のない不安が膨らんで、押し潰されそうになる。不安なのは、確かなものがないからだ。この夢のような現実を支える、確かな何かが見つからない。
「あのね……訊いてもいい?」
「? 何ですか」
 ただの世間話のように、切り出してみる。振り返りもせず応じるリチャードの背中に向かって、アネットはついにその問いを口にした。これまでずっと訊きたくて、けれど訊くことができなかった――ずっと答えを聞くのを恐れていた、その問いを。
「ねえ、リチャード……どうしてあたしと、結婚なんかしたの?」


 その瞬間、手元でガタンと音がした。鍋の蓋を取り落としたのだということは自覚したが、しかし事態はそれどころではない。リチャードはぎょっとして、背後を振り返る。すぐそこに立っている、彼の愛しい妻が発した、衝撃的な一言。
 アネットは珍しく真剣な顔で、じっと彼を見つめている。その表情に、どこか深刻な翳りが見えるような気がして、リチャードは急に鼓動が強く打ち始めるのを感じる。嫌な予感――ずっと恐れていたことが、突然、現実になるような。
「……どうして、そんなことを訊くんですか」
「だって……あたし、その、なんにもできないでしょう。料理だって……本当はね、今日だって、リチャードが帰ってくる前に、ちゃんと食べられるようにしておくつもりだったのに」
 ひどく情けなさそうに、アネットはしょんぼりと肩を落としてそう言ったが、リチャードには彼女の様子がよく理解できなかった。彼女にそれを求めたことは、一度だってないのに。むしろ、彼女にそんなことをしてほしくはなかったし、できなくて当たり前とも思っていた。――もしリチャードと結婚しさえしなければ、彼女が生活のための労働に手を染めるようなことは、決してなかったはずなのだから。
 彼女から、奪ってしまったと知っている。本来なら、生活のすべてを使用人に任せて、何不自由なく暮らしていけるはずだったアネットを、故郷から遠く離れた見知らぬ土地へ連れてきてしまった。せめて彼にできることは、彼女を守ることだけだ。彼女に失わせてしまったものの埋め合わせには、到底足りないとしても――絶対に、苦労だけはさせたくない。
 だからそのために、何だってしようと決めた。彼女と生きていくために働いて、彼女が落ち着いて暮らせるように住まいを見つけた。彼女がいつものように嬉しそうに、美味しいと言ってくれるなら、料理くらい苦にならない。それで彼女が幸せで――ずっと一緒にいてくれるなら。
「料理のことだけじゃなくて。リチャードはあたしに何でもしてくれるけど、でもあたしは……あたしは、どうしたらいいのかなって」
 けれど、そう呟くアネットの表情は、幸せとはほど遠いものだ。思い詰めた瞳で見上げられ、リチャードはいよいよ言葉を失う。つまり、彼女は今の生活が不満なのだろうか。故郷とは全然違う土地で、何もかもを手放して……選ぶべきではなかった人間を選んだことを、後悔しているのか。
 あの日から――彼女を攫って口付けて、誓いを交わしたあの日から、本当はずっと恐れている。いつかこの幸福な夢が、覚めて消えてしまうのではないかと。
「だから、教えてほしいの。どうして、あたしと結婚してくれたの? リチャードは何でもできるのに……あたしなんかいなくても、ちっとも困らなかったはずなのに」
 身分が違うからだろうか。生まれた場所へ戻りたくなったのだろうか。でもそれなら、どうして彼女はあのとき、彼の手を取ってくれたのだろう。あのとき――婚礼の衣装をまとったアネットが、踵を返して教会の祭壇から下りてくるまでは、こんな大それた望みを抱いてはいなかったのに。
 ――リチャード!
 ――行きましょ! ここから出なきゃ。
 あの日、呼ばれもしない教会へ乗り込んで、彼女に想いを告げたとき、彼の目的はただ一つ、彼女の結婚を阻止することだけだった。いや、阻止しようという明確な意識があったかどうかも怪しい。要は、邪魔をしたかっただけだ。何もかも幸福な、誰からも羨ましがられる結婚なんて、させてたまるかと思った。アネットの結婚相手だったユージンの実家であるローズウォール公爵家は、格式ある名家である――夫となるべきユージン以外の別の男に、それも使用人に、想いを寄せられるような娘を、果たして受け入れたいと思うかどうか。
 卑劣な算段だと、自覚していた。彼がしようと決めたのは愛の告白などではなく、彼女を傷つけ陥れることなのだ。にもかかわらず、彼は望んだ。彼女を傷つけたかった――黙って彼女の幸せを願って、忘れられてしまうより、彼女に消えない傷をつけて、心に残る方がまだましだと思った。もし彼女の心の中にいられるなら、たとえその心が、憎しみであっても構わない。
 だから、目の前でユージンが彼女に口付けて、アネットもまた彼を抱きしめ返す様子を見ても、別に動揺はしなかった。もちろん平気ではなかったが、その胸の痛みは、当然覚悟していたことだ。彼女がユージンを選ぶことは解っている。ただ、それを黙って見ていたくなかったから、ここまで来た。それだけだ。
 それだけだった、はずなのに。――けれど次の瞬間、すべてが変わったのだ。
 ――連れて行って、くれるでしょう?
 アネットは祭壇を下りた。真っ直ぐにリチャードのところへ来て、後ろを振り返りもしなかった。予想していたような憎しみではない、どころか彼が望んでやまないあの笑顔で、彼女がそう言ったとき、確かに世界が変わってしまった。
 叶わないはずのことを、叶えたいとはじめて願った。傷つけたいなんて嘘だ、邪魔なんかしたって足りはしない。彼女を連れていく――誰からも、何からも遠いところまで。生まれも身分も、その他のどんなことにも、妨げられないところまで。
 ――もちろんです、お嬢様。何もかも、あなたの仰せのままに。
「――リチャード?」
 不意に呼ばれた名は思いがけず近くて、リチャードは思索から引き戻された。気付けば、目の前のアネットは、いつの間にか不思議そうな表情になっている。話しかけても反応のない彼の様子を、訝しく思っているようだ。
 彼を覗き込む瞳には、確かに気遣わしげな色が見てとれて、リチャードは声を上げたくなるのを懸命に堪えなくてはならなかった。どうして、そんな顔をするのか。もし、少しでも彼を気にかけてくれているのなら、何故今になって、心を変えてしまうのか。
「……あなたは、どうなんですか」
「え?」
「あなたこそ、どうしておれと結婚したんですか。そんなことをしなければならない、理由なんかなかったのに」
 それは本当に、あるはずのない幸運だったと知っている。だからこそ、その幸運の正体を暴きたくなかった。今が幸せであればあるほど、その土台の不確かさを、確かめるのは怖かった。
「り、理由って」
 リチャードの問い掛けに、アネットは目を丸くすると、急に頬を赤らめる。先刻、彼女自身が同じ問い掛けを口にしたときの深刻な気配はどこへやら、落ち着かない態度で、そわそわと視線を彷徨わせていたが、やがて小さな声で呟いた。
「理由なんて……そんなの、決まってるじゃない。リチャードのこと、好きなんだもの。ずっと、こんなに好きなんだから……結婚、しなきゃ、しょうがないじゃない」
 いつもなら、恥ずかしそうにそう言って彼を見上げるアネットを、愛しいとしか思わなかっただろう。けれど今のリチャードには、そんな様子でさえ苛立たしかった。彼女が本当に言いたいことは、そんな言葉ではないはずなのに。
「……後悔、しているくせに」
「え?」
「あなたはいつもそうだ。『好き』だなんて、軽々しく言ってくれて……そんなことより、もっとはっきり言ってくれたらどうなんだ」
「な、何を? ていうかリチャード、何の話……」
「何の? それをおれに訊くんですか、あなたが言い出したことなのに? もう、隠してくれなくていい。ちゃんと解ったから――おれと、別れてしまいたいんでしょう」
 それを口に出すのは、かなりの力を要したが、それでもこれ以上曖昧にしておくことはできない。変に間を持たされるより、自分で言ってしまった方がまだましだ。
「……は!?」
 だが、思い切ってそう言うと、アネットは一瞬、ぽかんとした顔をした。驚いたというよりは、何を言われたのか理解できないという様子でリチャードを見上げていたが、次の瞬間、動揺も露わな叫びを上げる。
「ええっちょっなんで!? 嫌よ、あたしは絶対嫌! なんでそんな……あ、え、もしかして……つまりリチャードが、そうしたいってこと? もうあたしと一緒に、いたくないって……」
「そんなわけないでしょう! おれは離れたくなんかない! でも、あなたにそう言われたら、どうしようもない」
「あたしそんなこと言ってない!」
「言われなくても解ります! あなたは後悔しているんだ。だから、こんなことを言い出したんでしょう――おれが、無理にあなたと結婚したりしなければよかったんだと」
「…………」
「おれが悪かったのは知っています。あなたにひどい決断を強いた。あなたを追い詰めて、他に何も選ばせなかったから」
 それでも彼女が欲しかった。だからこうして、この結婚はアネットの積極的な意志ではなく、彼の想いを拒否できなかったというだけの消極的な選択なのではないかと、常に疑い続けることになっても仕方がなかったのだ。彼女が誰に笑顔を向けても、誰に気安く「好き」だなんて言っても、リチャードの『妻』でいてくれるなら――彼をただ一人の『夫』にしていてくれるなら、胸を焼く暗い炎のもたらす痛みも、幾らかは宥められた。
 ……ふと、リチャードは胸中に燻ぶる炎の存在を自覚する。彼と別れたアネットは、どうするだろう。自由になったグレンディル女伯爵は英国へ戻る。社交界は、彼女と彼女の身分を放ってはおかない。今度こそ、彼女は間違いのない結婚をするだろう。別の男を夫にして、今、リチャードに見せるあの笑顔を、惜しげもなく向けるのだろう。明るく響く快い声で名前を呼んで、側にいて手を繋ぎたがって、いじらしい仕草で口付けをして……彼しか知らない表情を、その男にも見せる。
 忌まわしい想像に、背筋が凍る。そんなこと、絶対に許すものか。彼女が何と言おうと関係ない、どんなことをしてでも、決して彼女を渡さない――けれどそれでは、また同じことの繰り返しだ。無理強いをして側にい続けて、そしてまた、彼女に別れを告げられる。
 彼女に好きになってもらえるなら、どんなことだってするつもりだった。けれど彼のすることは、ことごとく彼女に望まないものを押し付けるだけなのだ。きっと、この結婚も……。
「――馬鹿言わないで!」
 しかし、リチャードがそこまで考えたとき、その思考を断ち切るような声が上がる。彼は声の主を見、思わず続けかけた言葉を呑み込んだ。思い詰めた様子で彼に話を切り出して、けれどリチャードが話に応じると何故か唖然とした顔をしたアネットだが、今はそのどちらでもない。強い光を宿した瞳が、きつく彼を睨みつける。
「何なのよ、それ! あたしに選ばせなかったって、どういう意味!」
「あなたは、おれと結婚せざるを得なかった。他に選べなかっただけなんだ。この結婚は、あなたの意志じゃなかった」
「そんなわけないでしょ!」
 彼の突きつける言葉にも、しかしアネットは少しもたじろがなかった。どころか、ますます怒りに満ちた目でリチャードを見上げると、憤然と叫ぶ。
「勘違いしないで。いい、あたしが選んだのよ。あなたがあたしを選んだんじゃない、あたしが、あなたを選んだの。あたしが選んでないとか……あたしの意志じゃなかったとか、勝手なこと言わないで!」
「…………」
「リチャードが、あたしと結婚するんじゃなかったって思っててもいいけど……い、いや全然よくないけど、それは仕方ないとして、でもあたしまでそう思うなんて考えないで。あたしはずっと、こうなりたかったの。あたしが、あなたと一緒にいたかったのよ。リチャードが、あたしのこと嫌いになっちゃっても――それでもあたしは、ずっとあなたが好きなの」
 その声は憤りというより、むしろ抑えた声音だったが、しかしその言葉は悲鳴のように胸に響く。リチャードはまじまじと彼女を見つめてしまった。彼を見据えている丸い瞳が不意に潤んで、怒りの表情が今にも頼りなく崩れそうなのを見て、密かに混乱する。そもそもは彼女の方が、現状に何か不満を抱いていたのではないのだろうか。
「……アニー」
「でっ、でも、約束だからね!」
 暫しの沈黙を破って呼びかけたリチャードの声をかき消すように、アネットが急に声を上げる。約束、と首を傾げる彼に、そう、と大きく頷く。
「だって、ずっと一緒にいるって、約束してくれたでしょう? 結婚、するとき。……好きとか、嫌いになるとか、そういう心のことはどうしようもないと思うけど、でも一緒にいてくれるのは約束だから! だから、それは守って……それ以上は、我儘言わないから……」
「あなたは、おれと一緒にいたいんですか?」
「い、いたいよ!? いたいに決まってるじゃない!」
「でもあなたは、何か不満があったんじゃないんですか? おれと、結婚なんかしなければよかったと思うような」
「不満なんて!」
 アネットは目を丸くして、大きく首を横に振った。本当に、そんなことはまったく考えてみたこともないという顔だ。
「そんなのない! 全然ない! だってそうでしょ、こんな立派な家に住んで、毎日ちゃんと食べられて、危ないことなんか全然なくて……いつもリチャードが一緒にいて、優しくしてくれるもの。これで、他にどうやって不満を探せっていうの?」
 最後の言葉は問いかけの形こそ取っていたが、彼女が答えを必要としていないことは明らかだった。きっぱりと言い切ると、アネットは微かに笑みを浮かべる。
「本当に、幸せよ……あたしはね。幸せすぎて、夢なんじゃないかって思うくらい」
 けれどその微笑みを見て、その答えを聞いたとき、リチャードは胸を突かれたような気になった。アネットの言葉が、まるで彼の心を読んだかのように聞こえたからだ。彼女と二人でいるときは、本当に幸せで――そしていつも、どこか夢のようだった。
 夢だから、信じられない。彼の意志にも努力にもかかわりなく、勝手にはじまって終わるようなものと思うから、ずっと恐れていなければならない。どれだけ彼女の側にいても、何度心を質しても、信じられなければ意味がない。
 だが今、アネットは目の前にいる。手を伸ばせば抱きしめられる現実だ。信じられないのは、すべてを夢のように感じるのは、きっと触れてみなかったからだとリチャードは思った。彼女に触れて、その存在を確かめるように、この現実を確かめてみようとしなかった。――夢とは違う、確かに理由があったはずの、この現実のはじまりを。
「アニー」
 思えばリチャードは、これまでただの一度も、それを彼女に訊いてみたことがなかった。彼の頭ではどう考えても、納得できる答えを見出せそうになかったからだ。
「何?」
「さっき、おれを好きだから結婚してくれたって言いましたね」
「! え、な、なになんでいきなり!? あ、いやその、い、言ったけど! 言ったけどね!」
 何故か急に顔を赤らめて、アネットは慌てた様子で応じる。……彼女のこういうところも、リチャードが理解できないことの一つだ。さっきまではあんなに一生懸命好きだと言ってくれたのに、何故、こちらが確認すると動揺するのだろう。本当は嫌われているのだろうかと、勘繰りたくもなる。
 まあ、今はそれを追及したいわけではない。訊きたいのは、ずっと彼が納得できないでいるのは、別のことだ。
「でも――どうして、おれを好きなんですか?」
 ――あたしの方が、ずっとずっと先に好きになったんだから。
 いつもそう言って、自慢げに笑うアネットの言葉は、しかしリチャードにはどうにも信じがたいことだ。自分で言うのも何だが、彼女を好きになる前に、彼女の好意を得るようなことをした記憶などまるでないのだから。
 特別な気持ちなどなかった。出会ってからある時点まで、リチャードにとって、彼女は何者でもなかった。ただ、『指輪』の主というだけのこと。彼女の持つ『指輪』が、彼の探しているものであるかどうかを確かめるために近付いて、利用することしか考えなかった。その結果、彼女がどんな目に遭おうと――たとえその生命を奪うことになっても、構わないとさえ思っていた。
 わけが解らない。リチャードにとって、アネットの気持ちは、何らかの錯誤としか思えない。そしてそう感じるからこそ、何もかもが不安だった。彼女の目に映っているのは、本当に彼なのだろうか。嘘と誤解の上に生まれた虚像ではなく、本当に彼自身だと、どうして解るだろう。
「え? どうしてって」
 問われたアネットは、急な問い掛けに当惑したように目を瞬いたが、しかし質問の内容を理解すると、急に顔を輝かせた。それはもちろん、と拳を握って勢い込んで言いかけるが、そこで何を思ったか、ふと口を噤む。
「……何ですか?」
 その上、何やらじっと睨まれて、リチャードは思わずたじろいでしまう。アネットはむくれた表情で、恨みがましく呟く。
「……そういえば、前にあたしが訊いたときは、覚えてくれてなかった」
「何を?」
「はじめて会ったときのこと。……あたしはそれで好きになったのに、リチャードにとっては何てことなかったのよね。いいんだけどね、別に」
 知ってたし、と拗ねた口調のアネットに、しかしリチャードは咄嗟に言葉を返せなかった。やっぱり、と内心で絶望的に考える。やっぱり、彼女は何か誤解しているのだ。
 はじめてアネットと出会ったのは、あまり柄の良くない賭場でのことだった。大都市ロンドンには、国中から多くの人間が集まってくるが、都会で成功し、ちゃんとした家や仕事を持てる者は一握り。大半は食い扶持を得ることもできず、狭い場所で雨露をしのぐのが精一杯といった人々で、彼らはロンドンの東側、イーストエンドと呼ばれる地域にひしめきあって暮らしている。グレンディル伯爵家から持ち出された『継承の指輪』を探すため、リチャードは暇を見てはあの辺りに足を運んでいたのだ。
 当時の伯爵の息子、つまりアネットの父親が持ち出したはずの指輪は、おそらくは彼の妻子の手にあるものと思われたが、彼女たちの行方は杳として知れなかった。このご時世、母と娘が二人だけで生きていくのは難しい。母親が別の男と再婚するか、そうでなければ結局は、イーストエンドの貧しい地区に流れ着くより他はないだろうというのがリチャードの予想だった。
 正直なところ、砂漠に落ちた一粒の真珠を探すような、当てのない話ではあったが、しかし今すぐ見つけなければならないというようなものではない。気長にやるつもりだったから、老伯爵の死と相次いで指輪の持ち主が目の前に現れたときには、単に都合がいいと思っただけだった。指輪が本物か確かめ、それを手に入れる算段を考えた――指輪を持つ彼女の境遇や、これから先の運命のことなど、少しも気にかけはしなかった。
「助けて、くれたでしょ。叔父さんから、指輪を取り返してくれるとき」
「それは……違います」
 真っ直ぐな瞳から目を逸らすようにして、リチャードは白状した。彼女を助けたわけではない、助けようと思いもしなかった。ただ、指輪のことばかり気にしていただけだ。
「うん、それは知ってるけど」
 しかし彼の告白を聞いても、アネットは平然と頷いただけだ。思いがけない反応に言葉を失うリチャードを見やって、微かに苦笑する。
「でも、あたしのこと庇ってくれたじゃない。叔父さんに叩かれそうになったとき。それに、痛くないかって訊いてくれた。井戸のところで、ハンカチ貸してくれて……もし、指輪が欲しいだけだったら、リチャードはそんなこと、しなくても良かったはずでしょ」
 そうだっただろうか。リチャードはいよいよ困惑を深めて、記憶の中を攫ってみる。あの日のことは……あまりよく覚えていない。
 けれど、真っ先に出てきた思い出が、目の前でにっこり笑うアネットに重なる。今の彼女よりも更に華奢な体つきの、薄汚れた貧相な娘。今、彼の耳をくすぐる快い響きと同じ声で、けれどずっと乱雑な言葉を喚いていた娘は、見た目よりもかなり逞しくあの街での生き方を心得ているようではあったが、それでもあの場にあってはどうにも頼りないと言わざるを得なかった。男ばかり、それも単純で粗暴な暴力に近しい男たちの中にあって、あの細い腕に何ができるものだろう。
 外の寒さに凍えた娘の白い顔、その片頬だけが不自然に赤い。その痛々しい色を目にしたとき、何とも言えない衝撃に突き動かされて、リチャードは席を立っていた。必死な様子の少女の訴えを聞いたわけではない。彼女に同情したわけでも、ましてや正義感などではまったくなかった。単に、彼は心底驚愕しただけだ。あんな娘を、殴るのか――拳どころか、風に吹かれただけでも耐えられなさそうな存在を。
 彼女を殴ろうとする拳を掴んで止めたとき、そこにはアネットに対する思いなど少しもなかった。単純な反射、誰でも同じく動く、当たり前のこと。
 だがリチャードがそう言うと、アネットはますます嬉しそうに笑う。快い笑い声を上げると、煌めく瞳で彼を覗き込む。
「だからね、リチャード。あたし、あなたのことが好きよ」
「え……?」
「それね、全然『当たり前』じゃないよ。あたしのことなんて全然知らないのに、別に好きでもなんでもなかったのに、『当たり前』に助けてくれたから……リチャードのこと、好きになったの」
 ――それが、すべてのはじまり。
「…………」
 けれどリチャードには、素直に納得しかねることでもある。彼女のことを思って、彼女のために努力した結果として、彼女の心を得たというならまだ解る。けれど実際は、ただの偶然だ。なんでもない、彼の意図しないところで起きた、ただの偶然。
 言い様のない焦燥に、胸が疼く。もし本当にそうだとしたら、今こうしてここにいるのは、リチャードでなくても良かったのではないか。もしあのとき、別の誰かが彼女を助けていたら、彼女はその男を好きになっていただろう。あんな誰でもするような、ごく些細な行動一つで。
「だから、誰でもじゃないって。リチャードだけだよ」
「たまたま、あの場にいたのがおれだっただけです。同じようにする男はごまんといる……」
「でもあたし、それまで生きてきて、はじめてだったのよ。リチャードみたいにしてくれる人に会ったの」
 それは単純に、彼女の生きてきた環境が不運だっただけだ。短い期間ではあったが社交界に出て、一般的に女性がどのように扱われるものかを知った今では、彼女だってそれを自覚しているだろう。誰だってあの場にいたら、あのときのリチャードと同じように行動する。たとえば――たとえば、彼女が結婚するはずだった『彼』だって。
「…………」
 しかしその考えが脳裏に閃いた瞬間、リチャードはすんでのところで言葉を呑み込んだ。馬鹿馬鹿しい思いつき、到底、口になどできるはずがない――だがそれが厳然として心の中に存在し続けることを、認めないわけにはいかない。
 見当違いであることは、重々承知している。アネットの結婚相手だったユージンは、リチャードにとって恩人でもある。もし彼がこの上なく親切に、好意的に立ち回ってくれなければ、リチャードは永遠にアネットの手を取ることができなかったはずだ。ユージンには感謝しているし、そうするべきだとも思う。
 けれど、アネットはどう思っているのだろう。一度は結婚すると決めて……口付けまで交わした相手ではなく、リチャードを選んだことを――後悔することはないのだろうか。
 決して口には出さない、けれど決して消え去ることのない思い。馬鹿げている、そんなことを感じる筋ではないと理解していても、その感情は針のように不安を心に縫い止めて、おそらくはずっとそこに在り続けるだろう。
 不安だから嫉妬を覚えるのか、それとも逆なのかは解らない。ただ、だからこそ望んでしまう。偶然ではないと、他の誰でも良かったなんてことはないのだと。リチャードにとっての彼女がそうであるように、アネットにとってもまた、彼が唯一の存在であると確かに信じられたなら。
 少しの間、二人の間に言葉が途切れた。アネットは、彼を好きだと言ってくれる。リチャードが望めば、どんなことでも言ってくれるだろう。しかしその心は本当に、彼の気持ちと同じものだろうか。言葉では足りないのに、言葉以外に頼れない。気持ちを確かめる術がない。
「……ね、ねえ、ところで……」
 しかし、不意に相手の声が沈黙を破った。どうやらアネットの方では、この沈黙は、彼が彼女の言葉を受け入れたものと解釈したらしい。少し上ずった声で、今度は逆に問いかけてくる。
「そっちは……どうなの?」
「? どうって?」
「だ、だから! リチャードは、あたしのどこを好きになってくれたのかなって」
 今度はそっちの番だからね、と言ったアネットは、僅かに頬を赤く染めている。早口に言い終える調子は照れくさそうで、いかにも他愛ない質問に聞こえたが、しかしその眼差しは真剣だ。
「……だって、あたしはイーストエンド育ちで、全然教養なんかないし……まあ、知ってると思うけど。別に美人でもないし、ここに来たから、身分とか財産とかもあんまり関係なくなっちゃったし……料理もできないし……」
 最後は消え入りそうな声で呟くと、アネットはしゅんと肩を落とす。どう考えても彼に好かれる理由が思い当たらないと、彼女が悲しそうに言うのを聞いて、リチャードは唖然とした。彼女は何を言っているのか。そんなこと、これ以上なく解り切ったことではないか。
「何を馬鹿なことを。何ができてもできなくても、おれがあなたを好きなことに変わりはありません」
 今、アネットが挙げたどれか一つの事柄でも、それを理由に彼が結婚を申し込んだのだと思われているとしたら、甚だ心外だ。それに、彼女はひどい誤解をしている。ロンドンにいた頃、彼女に作法だの教養だのを仕込んでいたのは、アネットが社交界に出るべき貴婦人だったからで、リチャードの好き嫌いとはまったく関係ない。そうした事情がなくなった今は、耳に快い彼女の声を聞いていられるなら、どんな話でも聞きたいと思う。輝く瞳で彼を見つめ、微笑む顔はたまらなく可愛いし、少し恥ずかしそうな仕草でこちらを見上げてくるときなど、どうしようもなく可憐で――他の誰がなんと言おうと、この世で一番愛らしい。
「…………! でっ……でも!」
 なんとしても彼女に解ってもらおうと、大真面目にリチャードが告げると、アネットは息が詰まったような顔をした。ただでさえ血色の良かった頬がますます色味を増し、失った言葉を探してでもいるかのように視線を逸らしたが、しかしそこで何か思い直したのか、決意を固めた表情になると、急いで声を絞り出す。
「そ、そう思ってくれるのは嬉しいんだけど、でも、最初はそうじゃなかったじゃない。あたしのこと、何とも思ってなかった……いつから、その、そういう意味で、気にかけてくれるようになったの?」
 問われて、リチャードがふと思い浮かべたのは、あの霧深い夜のことだった。闇色の外套を纏った彼が、冷たい銃口を向けたその先。脅されて自由を奪われ、避けることもできず銃口の前に身を晒すアネットは、しかしどこまでも毅然として、目を背けることなく彼を見つめている。
 その瞳から、光が零れる。尊い宝石のような涙は、彼女自身のためのものではない。それは、リチャードにくれたものだ。銃弾と引き換えにするには、あまりにも不釣り合いな贈り物。
 ――あなたを幸せにしてくれますように。
「あなたが……あんなことを、言うから」
 はじめは、驚いただけだった。驚いただけだと、自分では思っていた。彼に銃を向けられて、殺されかけたというのに、どうしてそんな言葉が出てくるのか理解できない。わけが解らなくて、苛々して、忘れようと努めて……けれど結局できなかった。うっかり繋いでしまった手を離せなくなるみたいに、うっかり心に入れてしまったその言葉を、放り出せなくなってしまった。
 彼女だけが、彼にくれた――どうしても手放したくないと、心から思えるものを。
「あんなことをするのは、あなただけです。あなたは、もっと自分のことを心配するべきなのに」
 言いながら、リチャードは何となく腹立たしくなってきた。彼にこんな思いをさせるのは、アネットだけだ。自分の生命が危ないというのに、他人のことに涙を流す。面倒事に巻き込まれてもそれを避けることもせず、何を知っても態度を変えない。
 誰であれ、自分の面倒くらいは自分で見るべきだ。それができない、どころか好き好んで危険に近付きたがるような人間など、どうなっても知ったことではないと思うのに、彼女だけがそう割り切れない。彼女が自分を守らないなら、彼が守るしかない――守らせてほしいと思うのは、それを喜びと感じる相手は、ただ一人、彼女だけ。
 だというのに、どうやらアネットの方では、彼は『ただ一人』ではないらしい。銃口を向けられて、その相手の幸せを願うような娘はおそらく彼女一人だろうが、理不尽に殴られる少女を救おうとする男は、大多数とは言わないが多くいるだろう。リチャードはそのうちの一人に過ぎない。もし彼があの場にいなければ、別の誰かが彼女を救って……そしてアネットは、その男を好きになっていたのだろう。
 だが、密かにふてくされている彼に、彼女は予想もしないことを言った。彼の言葉を聞いたアネットは、驚いたように目を瞬いて、小首を傾げて問い返したのだ。
「えっと、それってつまり、あたしがリチャードのこと大好きだからってことよね」
「……は?」
「だって、あたしがあのとき幸せになってって言ったから、リチャードはあたしを好きになってくれたんでしょ? あたしがそう言ったのは、リチャードのこと好きだったからよ。じゃなきゃ、言えないよ、そんなこと」
 すごく怖かったもの、と呟くアネットには、しかし恨みがましいところは少しもなかった。まるでその恐怖さえ愛しい記憶であるかのように、明るい声音で告げると、確かめる目でじっと彼を見つめる。
「怖かったけど、でもそれでリチャードがいいんだったら、あたしもいいって思ったの。そんな風に思えるの、リチャードだけだから。――ね、あたしがそう願ったから、リチャードはあたしを気にしてくれるようになったってことじゃない」
 そういうことに、なる……の、だろうか。確信溢れる口調で迫られ、リチャードは曖昧に頷いてしまう。思い返せば確かに、はじめて出会ったときから、彼女にすげなく扱われたり、拒絶されるようなことはただの一度もなかった。別に、それで彼女を意識するようになったわけではないが……けれどそれが快かったのは否定できない。受け入れられることを――それは、特別でない彼女の優しさだと思っていたが――無意識のうちに信じられたのかもしれない。
 妙に、胸がざわついた。彼女の言葉に反駁したい衝動と、けれどその言葉を喜んでしまう気持ちが入り混じって、自分の心が把握できない。好かれたから好きになったなんて、そんな単純なものではない。彼女の好意は、偶然の産物に過ぎない――でもそんなことを言われたら、もう何も言い返せないではないか。何気なく、当たり前のように――『リチャードだけ』なんて言われたら。
 本当に、そうなのだろうか。アネットは本心から、彼だけだと言ってくれるだろうか。
 もし、こんな出会い方をしなくても――あんな偶然の出会いで、彼女の好意を得られなくても、この恋は確かなものであっただろうか。
「良かった!」
 けれどそんな思考は、次の瞬間、嬉々とした声に吹き飛ばされた。それまでの、どこか不安げだったり、不思議そうだったりする表情を一変させ、アネットは弾けるような笑みを浮かべる。
「それなら大丈夫、あたし、自信あるもの。――あたしがリチャードを好きでいる限り、リチャードはあたしのこと、好きでいてくれるってことでしょう」
 彼の当惑に気付いたか、アネットは笑みを少しはにかむような表情に変えた。ずっとね、と彼女は呟く。
「ずっと、リチャードと一緒にいたいの。だから、嫌われちゃったら困ると思ったんだけど、でもよく考えたらあたし、リチャードがどこを好きになってくれたのかも良く解んなくて。その、今日も、失敗したし……」
 灰になった鍋の中身にちらりと目をやって、アネットは小声で付け加えた。さっきも料理が云々と言っていたところからすると、どうも内心、忸怩たるものがあるらしい。正直、リチャードとしては、その後の会話の衝撃でそんな彼女の失敗など忘れかけていたくらいなのだが、ともあれ彼女は思い切るように首を振って続ける。
「リチャードより上手にできることなんかないし。今はよくても、もし時間が経ったら、リチャードが好きだと思ってくれてるあたしも変わっちゃうかもしれない。そうなったらどうしようって……不安だった」
 ――いつかこの夢は、覚めてしまうのかもしれない。
 それはまさに、彼が抱いていたものと同じ不安だ。リチャードは驚いてアネットを見返した。彼にとっては、決して有り得ないと解り切っていること、けれど彼女にはそれが上手く伝わらない。――もしかしたら、彼女も同じように、もどかしく思っているのだろうか。
 近くて遠い、二人の距離。――これほどすぐ近くにいるのに、互いに同じ不安を抱いて、同じ結末を恐れている。
「でも、一つだけなら、変わらないでいられると思うの」
 アネットは真っ直ぐに彼を見つめる。その表情に影はなく、瞳には穏やかな輝きがあった。この上もなく無邪気で、温かく幸せそうな――彼が望んでやまない笑顔。
「リチャード。好きよ、大好き。ずっと前から――ずっとこの先、未来まで」
「アニー」
「他に何もあげられないかもしれないけど、それだけはずっとそうだから。他の誰が、あなたのことを好きになっても、あたしの方がずっとたくさん、ずっといつまでも好きだから。だから……」
「…………」
「――それなら、ずっとあたしを好きでいてくれる……?」
 だが、その瞳の光が不安げに揺れる。それを見たと思った瞬間、言葉をみなまで聞かないうちに、リチャードは彼女を抱き寄せていた。腕の中に収まる、柔らかい感触――艶やかな唇に口付けて伝わる、熱くはないのに溶けそうな温度。
 言葉では、上手く伝わらない。どれだけ側にいても、いくら想いを口にしても、その心までは解らない。不安、猜疑、互いの中にある様々な感情は冷たい壁となって、互いの像を歪ませる。壁の外にあるものを、人は本当には理解できないものなのだろう。
 理解はできない、けれど感じることはできる。抱きしめた身体のしっとりとした存在感、指が触れる肌の滑らかさ、繋がる吐息を手繰り寄せて、もっと奥へと向かう。五感のすべてが導くままに、互いが溶け合って分かちがたくなるまで――いつか、心が重なるところまで。
 しかし、もっと深く口付けを進めようとして、リチャードはふと微かに違和感を覚える。溺れそうに柔らかい感触は、彼を受け入れる気配がなく、さりとて拒絶するようでもない。少しの動きもなく、されるがままの彼女を訝しく思って唇を離す。どうしてだろう……と考えかけたリチャードは、しかし真っ赤になって立ち尽くしている彼女の様子を見て、ようやくその理由を知った。ああ、そうか。
「アニー。――キスしてもいいですか」
「し、した! もうした!」
 順番が逆、と喚くアネットは、どうやら彼の行動を予測できなかったらしい。突然の出来事に当惑していた彼女は、しかし我に帰ると、憤った口調で抗議してくる。
「あのねえ! そういうことは、先に言ってって言ってるじゃない! こ、心の準備が要るんだから……」
 けれど、羞恥に頬を染めて涙目で彼を睨む姿はどうにも可愛いばかりだったので、リチャードは何の苦もなく非難を無視した。更にもう一度、唇に触れる。文句でさえ愛おしい声が途切れる。
「準備なんか、必要ない。おれは、ありのままのあなたを知りたい」
 目に映る彼女が、確かにこの腕の中に存在していることを。触れ合う肌の温度を。身体の奥で、常に響き続ける鼓動を。――目には見えない、触れることもできない、その心のありのままを。
 文句を中断させられたアネットだが、今度は何も言わなかった。少しの距離も埋めようとするように彼の背に回された、細い腕を感じながら、リチャードはさらなる深みへ下りていく。彼だけではない、抱き合って口付けに応えてくれるアネットもまた、同じところを目指しているだろう。
 心臓が忙しく鳴りはじめる。互いに触れ合ったところから、身体が熱を持って火照る。息を継ぐたび頭の芯がくらくらと揺れて、くだらない思考も感情も、すべてを消し去ってしまう。壁を失った先に、残る願いはただ一つ――このまま、絡み合って溶け落ちてしまえたら、どんなにか。
「……あ……ねえ、リチャード……」
 やがて、口付けでは飽き足らなくなってきた唇の合間から、小さな声が漏れる。甘い声音に、リチャードは僅かに身を引くと、浅い息をつくアネットを覗き込んだ。上気して染まった頬、大きな瞳は熱っぽく潤んで見えて、彼女もまた同じ願いを抱いてくれていることは容易に知れた。弾む息に掠れる声は、けれど常よりも一層印象強く耳に響く。
「何ですか」
「夕食……どうしよう? このままじゃ……」
 途切れた言葉のその先は、聞かなくても解る。リチャードは思わず笑ってしまう。そういえば、そんな仕事もあったのだった。確かにこのままでは――彼と彼女の望みを果たせば、二人で食卓につけるのは、一体いつになることやら。
「なんでも、あなたの好きなものを作ってあげますよ。あとで」
 だが、今は構っていられない。答えの代わりに、彼女の身体を抱き上げる。小さく声を上げて彼の首にしがみつくアネットの、色付いた頬に素早く口付けると、リチャードは彼女にだけ聞こえる小さな声で、そっと囁いた。
「だから、どうか今は、おれの願いを叶えてください。今日も、明日も、明後日も――ずっと、側に」

     *     *     *

 数日後、仕事を終えて家に帰ってきたリチャードは、思わぬ光景に目を瞬いた。
「あっ、お帰りリチャード!」
 彼に気付いたアネットが、明るく出迎えてくれる。が、そんな彼女の笑顔も、目の前の異変から彼の注意を逸らすことはできなかった。出迎えのキスもそこそこに、リチャードはそれを指し示して問う。
「アニー。――どうしたんですか、この料理は」
 夫婦二人で使う食卓は、いつもなら少しも不自由さを感じない大きさなのだが、今はそれが極端に窮屈に見えた。所狭しと並べられた皿には、様々な料理が美しく飾られて溢れ返っている。食材の種類が限定されているところは、いかにも庶民の家庭料理だが、それを手を変え品を変え別の料理にする手際は、貴族の屋敷の料理人に勝るとも劣らない。量だけで言えば、貴族の正餐だって凌ぐだろう。中央に鎮座する、丸々と太った鶏のローストを見やったリチャードは、二人でこれを食べ尽くすには明後日までかかるだろうと目算した。
 一体、これは何事だろうか。何かの祝いか、記念日か……しかし思い当たる節もない。
「えへへ、すごいでしょ」
 もしかして、何かとんでもないことを忘れているのではないかと密かに焦ったリチャードだが、幸いにもそういうことではないらしい。彼の内心など知らぬげに、アネットはあっさりと応じる。
「リチャードのために、腕によりをかけて作ったの! って、言いたいところだけど……まあ、見ての通り、違うわ」
 自分で言っておきながら、何やらがっくりと肩を落としている。確かに目の前の仕事が、彼女の実力では果たせないことは一目瞭然である。
「もらったの、お礼にって。あたしも、こんなには食べ切れないって言ったんだけど」
「もらった? どうして? 誰に?」
「えっと、そこの通りの角の……ああ、待って。食べながら話すから。リチャード、お腹すいたでしょ。あたしちょっと味見させてもらったけど、マイラの作った料理、すごく美味しいわ」
 聞き慣れない名前を親しげに口にして、アネットは席に着くよう促す。言われるまま、椅子に腰を下ろしたリチャードは、微かに眉を顰めた。一体、そのマイラというのは何者なのか。何が目的でアネットに近付いたのか……というか、アネットはまたしても、何かろくでもないことに首を突っ込んでいるのではないか……。
「べ、別に怪しい人じゃないのよ。通りの角のお家の奥さんなの」
 リチャードの表情から、彼の危惧が伝わったのか、アネットは慌てたようにそう説明した。なんでも今日、たまたまその家の前を通りがかったときに、彼女を助けることになったのだという。
「真っ青な顔で、ずっと家の前をうろうろしてたのが見えてね。ここに越してきてから、何度か顔は見たことあったから、その家の人だってことは解ってたんだけど、だったら家に入らないって変じゃない? もし、具合が悪いのに、何かあって家に入れないなんてことだったら大変だと思って、どうしたんですかって声かけたの」
 ……やはり、余計な揉め事に巻き込まれそうなことをしている、とリチャードは思ったが、しかし敢えて口には出さなかった。彼であれば確実に、関わり合いにならないよう通り過ぎるところだが、アネットにはそういうことはできないだろう。仕方がない――心配になりはするけれど、変わってほしくもない、愛しい人のすることだから仕方がないのだ。
 ともあれ幸いなことに、その女性は悪意ある人間ではなく、確かにその家の住人だった。なんでも、玄関前に置かれた荷物の処遇に困っているのだという。もう怖くて怖くて、と、彼女は涙ながらに訴えてきたらしい。
「旦那さんのお友達が、お土産にって置いていったらしいんだけど、それがあるから家にも入れないんだって」
「何があったんですか?」
「死んだ鶏」
「……それは嫌がらせですか。それとも呪いですか」
 玄関先には似つかわしくない凄惨な光景を思い浮かべ、リチャードは顔をしかめたが、しかし現実にそれに遭遇した本人はけろっとしたものだ。違う違う、とアネットは手を振ってみせる。
「だから、お土産なんだって。ちゃんと絞めて、血抜きもした鶏よ。あとは羽を毟って捌くだけだったんだけど、それが怖いって言うのよ。仕方がないから、あたしが代わりにやってあげたの」
「……そんなことできるんですか、あなたは」
 市場で売っている肉だって同じものなのに、羽がついているだけで怖いなんておかしな話だと、アネットは心底不思議そうに言う。ねえ、と同意を求められたリチャードは、なんと答えたものか迷った。確かに彼女の言うことはもっともだが、だからといって鶏の羽を容赦なく毟ってしまえる若い娘もなかなかない。ましてや彼女は今でもれっきとした、伯爵家の女主人なのだが。
 まったく、とリチャードは内心で呟く。相変わらず、アネットは予想がつかない。いつだって彼の見えないものを見て、彼には考えつかないことを考えていて、夢にも思わないようなことをする。
 いつか、彼女のことを何もかも、理解できる日が来るだろうか。――来てほしい気もするが、来なくてもいいとも思う。これまでずっと、彼女は驚きの泉であり続けた。きっとこれからも、ずっとそうだろう。
「そうしたら、すごく感謝されてね。それで、この夕食ってわけ」
 どの皿から手をつけるべきか散々迷った末に、ようやく選んだ香草焼きを突き刺しながら、アネットはそう話を締めくくった。なるほど、道理で鶏尽くしなわけだ、とリチャードも納得した。手のかかった品数から考えて、感謝の意味ももちろんあるだろうが、どうやらそれだけでなく、大量の食材を余すことなく消費しようという意図もあるらしい。件の女性は、なかなか堅実な主婦のようだ。それにしてもアネットは、一体どれだけの鶏の羽を毟ったのだろうか……。
「……それでね、リチャード」
 そんなことを考えていると、少しの沈黙のあとで、不意にアネットが呼びかけてきた。顔を上げたリチャードに、彼女は決意を秘めた表情で告げる。
「あたし、昼間、マイラの家に通ってもいい? 彼女、とっても料理上手なのよ。あたしも覚えたいって頼んだら、教えてくれるって言ってくれたの」
 いい? と訊かれたが、リチャードにはそれを駄目だと言うことはできない。彼女には自由に、自分の望むことをしてほしいと思うし、それを束縛するような夫にはなりたくない。
「……別に、あなたがそんなことをしなくても」
 けれど、何となく面白くない。直接彼女を引き留めることは言えず、リチャードはごく遠回しにそう言うしかなかった。
「わざわざ他人に習ったりしなくても、料理人を雇えばいいでしょう。そのくらいの余裕はあります。なんだったら、おれが全部やってもいいし」
「それはしないって決めたでしょ。リチャードは働きすぎよ。あたしの面倒なんてみてないで、ちゃんと休まないと、そのうち身体を壊しちゃうわ」
「そんなことは……」
「それに……そろそろ、まともな朝食が食べたいとか、思わない……?」
 どうやらここ最近、アネットが作るようになった朝食について、彼女自身は思うところがあるらしい。情けなさそうにそう尋ねてくるアネットに、リチャードは驚いて答えた。
「おれは、今のままで十分ですよ。もし、不満があるんだったら……」
 とうに、自分でさっさと作っているはず――と言いかけて、リチャードは慌てて口を噤んだ。それはアネットには黙っている、彼だけの秘密だ。少し後ろめたい、けれど手放しがたい、毎朝の幸福。
『先に起きた方が朝食を作る』という二人の間の決め事に忠実に従えば、おそらく三日のうち二日は、リチャードにその役目が回ってくるはずだ。夜が遅くて朝早い生活を何年もしてきたから、少し眠れば目が覚める。少なくとも、隣でアネットが、寝台から起き出そうともぞもぞしているときには、意識ははっきりしている。
 そのまま黙って寝たふりをしていると、身体を起こしたアネットは、彼の様子を窺ってから、そろそろと寝台を下りる。足音を立てず、そっと寝室の扉を閉めるのは、彼を起こさないように気を遣ってくれているからなのだろうが、それがあまり意味のないことだと、彼女は気付いているのだろうか。やがて聞こえてくる、ガチャガチャと金物がぶつかる音、不器用に何かを取り落とす音……慣れない者が聞けば不安になりそうな賑やかな物音だが、それを聞いていられるのが、リチャードにとってはこの上もなく幸せに思える。こんなことは、今まで経験したことがない――彼が寝ていても、誰かが彼のために、朝食を作ってくれることなんて。
 母と暮らしていた頃は、料理番は彼の担当だった。使用人として働いた家では料理人がいたから、彼が作ることはなかったが、それでも朝食前に何か仕事を片付けるのが当たり前だ。寝室にも漏れ聞こえてくる「あっ」だとか「なんで?」だとか、ときには「やった!」などと呟くアネットの声は、本当に真剣そのもので――こんなにも自分が大事にされていると実感できることが、他にあるだろうか。
 だから、不満などあるはずがない。――再び扉を開けたアネットが、寝台に近付いて、無邪気な笑顔で「おはよう」と起こしてくれるなら、本当に、それだけで十分。
「不満があったら……何?」
 だが、一度言いかけた言葉は、しっかり相手の耳に届いてしまっていたらしい。怪訝そうに眉を顰めるアネットに、リチャードは急いで別の言い訳を探した。自分で作る、とは言えない。朝の密やかな楽しみを、自分から手放すようなことはできない。何とかそれは隠しておこうと懸命だったリチャードは、ついうっかり言ってしまった。もう一つの本心――料理を習いに行きたいという彼女に、素直に頷いてやれなかった理由を。
「……おれが教えるんじゃ、駄目なんですか」
「え?」
「おれだって、少しは教えてあげられるのに……その人に教わる方がいいんですか」
 ……以前、リチャードがまだ彼女の執事だった頃、その手の仕事は彼の専任だった。上流階級の振る舞い方など何一つ知らない彼女に、読み書きから作法まで仕込んだのだ。アネットもそれをよく解っていて、何かというと彼に尋ねたり、相談したりしてきたものだ。
 あの頃とは違う。既に彼らは主従ではなく、仕えたり仕えられたりする関係ではない。昔に戻りたいとは思わないリチャードだが、しかし時折は、あの頃のことを考える。別に、なんでも訊けとは言わないが、もう少し頼りにしてくれてもいいのではないか。頼られたい、喜ばれたい、望むことはなんでも叶えて――甘えられたい。
 だがもちろん、そんなことを彼女に面と向かって言えるはずはない。はずはなかったのだが……目を丸くして彼を見返すアネットの表情で、リチャードはようやく失言を悟った。まじまじと見つめられるのが気まずくて、思わず目を逸らしてしまう。この分だと、何もかもばれてしまったに違いなかった。つまらない願望、子供じみた独占欲――きっと、彼女は笑うだろう。
「…………。今のは、忘れて」
「そりゃ、リチャードが教えてくれるのが一番だけど」
 しかし、アネットは笑わなかった。忘れてほしいと言いかけるリチャードの言葉を遮るように言うと、はにかんだ表情で告げる。
「でもそれじゃ、リチャードがびっくりしてくれないじゃない?……上手になったらね、リチャードに驚いてほしいの。こんなに美味しいもの作れるようになったのかって」
 彼を喜ばせたいのに、彼からやり方を教わるのでは、いまいち恰好がつかない。だから行ってもいい? と再度問われれば、もうリチャードに抗う術はない。いや、最初からなかった――アネットが、彼のためにしてくれるのだと思えば、大概のことは拒否する気にもならないのだから。
「あなたが、そうしたいなら」
 だから次の瞬間、彼女が見せてくれた笑顔だけで、もう何も望むことはない。
 ――……いや。
 敢えて言うなら、一つだけある。何気なく口にした夕食が思いがけず美味しくて、リチャードは妙な感動を覚える。味もするし、塩辛くもない。焦げてもいなければ、生焼けでもなく――この家の食卓ではなかなか有り得ない奇跡。
 この分なら、アネットの師となる見知らぬ女性は、まともな料理人であるらしい。頑張るから任せといて、と明るく宣言するアネットに応えながら、リチャードは心中密かに、ついに彼には成し得なかった、彼女の調理技術の向上を願ったのだった。――割と、切実に。
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