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● 運命の星 ●

 あたしは、星の廻り合わせが悪い女だ。

「――で、急にお倒れになり……」
 生まれはシティの東の端っこ、その辺に住んでた連中の大方と同じに、父親も貧しい職人だった。貧乏暮らしが嫌になって、母親は別の男と逃げた。真面目だったはずの父は酒浸りになり、弟は悪い仲間に入って家を出て、逃げ遅れたあたしは、酔って殴る父の拳を避けながら仕事を探した。
 できる仕事は何でもしないと、生きていけそうになかった。そもそも、女が金をもらえる仕事なんてそんなにありゃしない。だって女の仕事って、結婚して旦那の面倒を見て、子供を産んで育てて家の中をきちんとしておくようなことだって、世間様はみんなで言うんだもの。あたしみたいに、身持ちの悪い母親の娘だなんて悪評持ちで、貧乏で持参金もない女と、結婚しようなんて男はいないのに。
「……旦那様も、そう仰いまして……」
 だから、夜の酒場に出て、ちょっと脚の見える服を着て、酔っ払った男たち相手にあまりお上品じゃない歌を歌うようになったときも、あたしはそんなに嫌じゃなかった。お金が稼げるのはもちろん、あたしの歌を聞いたお客さんが喜んでくれるのも嬉しかったし。眉を顰めて軽蔑した目であたしを見る人もいたけど、そんな人は一ペニーだってくれないのでどうでも良かった。……本当は、あの人たちが疑ってたように、身体でも売ってしまえば楽だったかもしれないけど、それだけはしないって決めていた。――貧乏から、身体を使って逃げ出そうとした母親と、同じことはしたくなかったから。
 でも、そんなあたしだって、幸福っていうのがどういうものかは知っている。
「……ですが、その後容体が……」
 クリスに出会ったのも、酒場だった。あの人は学生で、仲間と一緒にひどく酔っ払って、喧嘩騒ぎに巻き込まれたのだ。仲間とはぐれて、一人で立つこともできないのを介抱したあたしを、彼は最初拒絶した。汚れた手で触るなと言い、男を堕落させる悪魔の手先と罵った。
 彼はいいところのお坊ちゃんのようだったから、何を言われてもあたしは気にしなかった。お金持ちなんて、あたしたち貧乏人はみんな、汚らしい虫くらいに思っているものだって解ってたから。でもクリスは、あたしを非難する他の人たちとはちょっと違った。あたしのすることをよく思わない人たちは、一頻り言いたいことを言ったら、すぐに関わり合いになりたくないとばかりにいなくなるのに、あの人ときたらその後も、何度も何度もあたしの前に現れて、こんなことをして恥ずかしくないのかとか、そんなに金が欲しいのかとか、嫌なことばかり言い続けたのだ。
 お金なんて、欲しいに決まってる。それさえあれば、空腹をビールで誤魔化すことも、ときに恐ろしい思いをしながら夜の街を歩くことも、酔っ払いの父親のために頭を下げて回ることもしなくて済むんだから。あたしはついに我慢できなくなった。お偉いあんたはあたしに説教できて、さぞ楽しいんでしょうねと怒鳴って、彼を引っ叩いた。彼はひどく衝撃を受けた顔をしたから、あたしは清々したものだ。これでもう、二度と会うこともないと思ったのに、けれど彼はまたやってきた。クリスはあたしの前に跪いて――結婚してほしいと言ったのだ。
 ――はじめて会ったときから、君を天使だと思っていた。
 今思い返せば吹き出してしまいそうな陳腐な台詞を、でもあの人は大真面目に言った。まるでそれが、この世界でたった一つの真実みたいに。その天使が、取るに足らない小金で、どんな男にも愛想を振りまく様を見るのは辛かった、その上その金で、まともな暮らしもできないでいるのを知ってしまったら、もう耐えられない。頼むから、おれのものになってくれと彼が懇願してきたとき、あたしは確かに幸せだった。この世界でたった一人、彼だけがあたしを見てくれたから――酒浸りの父親の娘でなく、男と逃げた母親の娘でなく、夜の酒場で褒められない仕事をする女でもなく、あたしに恋をしたのだと、打ち明けてくれたから。
 あたしは幸せだった。ああ、でも――だからあたしは、間違ったのかもしれない。
「……手は尽くしましたが、甲斐なく……」
 彼に望まれた通り、あたしはクリスと結婚した。でもそのために彼は、自分の家と絶縁することになってしまった。彼の家は由緒正しい貴族の家柄で、彼の父はろくでもない女に引っかかった息子を勘当したのだ。
 あたしがそれを知ったのは、二人で秘密に教会で誓いを交わした後だった。自分の身内にこの結婚を知られたくなかったあたしは、彼がそれを提案してきたとき、一も二もなく頷いてしまったのだけれど、彼の事情を知ったときにはさすがに浅はかさを後悔した。育ちのいい人だとは思っていたけれど、まさか貴族の御曹司とは思わなかった。けれどあたしがそのことを言うと、彼は決まって不機嫌な顔をしたものだ。
 ――君はおれと結婚してくれると言った。おれがどこの誰でも、愛してくれると。今になって、伯爵夫人になりたかったなんて言わせない。
 伯爵夫人になんて少しもなりたくはなかったけれど、結局あたしは泣いてあの人に、家へ戻るように頼むことになった。
 最初、クリスはただの風邪みたいだった。でも変な咳が続いて、夜中にひどく汗をかいてうなされるようになったら、何か悪い病気に罹ってるんだってことはあたしにだって解る。お医者様に診てもらわなくちゃいけない、せめて治るように休んでいてほしいと言ったのに、あの人は頑として聞き入れてはくれなかった。大したことじゃない、少し疲れていて、夢見が悪いだけだと言い張った。あたしと、元気に生まれてきてくれた小さな娘との生活のために、自分が寝込んでしまうわけにはいかないって、逆にあたしを怒ったりした。
 ついに彼が、あたしと娘から離れて、絶縁したはずの実家へ戻ることを了承してくれたとき、クリスは立って歩くのも辛そうなほど弱っていた。君がおれの妻だって、はっきりと認めさせてやるんだ、とあの人は言い、口付けして見送ったあたしは、このまま彼と別れることを覚悟していた。身分違いの妻なんて認めないあの人の家は、もう二度と、彼をあたしのところへ返す気なんかないだろう。
 けれど、それでもいい。それであの人を助けてくれるなら、何だって構わない。貴族の家なら、いいお医者を呼べるはずだ。高くてよく効く薬だってあるだろうし、いいものを食べて、ゆっくり身体を休めることもできる……。
「――クリストファー様は、お亡くなりになりました」
 でも――あの人は、死んだのだ。
 真夜中、常識外れの時間に家の扉を叩いた男の前で、あたしは玄関先にへたり込みそうになった。地面が平らではなくなって、身体に力が入らない。胸の辺りがむかむかして、気分が悪い。
 それでもあたしが何とかその場に立ち続け、辛うじて吐かずに留まれた理由はただ一つ、この不吉な報せをもたらした人間に対する、敵意にも近い対抗心のためだった。この男は、クリスの家から遣わされた使者なのだ――絶対に、絶対にみっともないところなんか、見せてたまるものか!
「……そう、ですか」
 声が震えていなければいいと思った。侮られるわけにはいかない――あたしを『妻』にしてくれた、あの人の名誉のために。
「解りました。知らせてくださって、ありがとうございます。すぐにそちらに参ります」
「いえ、それには及びません。旦那様はあなた様のお越しを、お喜びにはなりません」
 聞き間違えようがないほどの、率直な拒絶。あたしは思わず拳を握りしめて、怒りで身体が震えるのを堪えた。解ってはいたことだけれど、何も感じずにいられるほど呆けてはいない。
「歓迎されたくて行くんじゃありません。会いたくないのは、あたしだって同じ。でも、あの人はあたしの夫です。さあ、早く連れて行って……」
「お連れするように命じられましたのは、あなた様ではございません」
 こちらの言葉を遮って、相手がそんなことを言い出したので、あたしはわけが解らなかった。つい言葉を中断してしまったあたしの隙を突くように、使者は忌々しいほど平板な口調で、思いがけないことを告げる。
「旦那様は、クリストファー様のお望みをお容れになると仰いました。あの方の勘当を解き――あの方の血を継ぐお嬢様を、当家にお迎えになると」
「……え」
 不意に、背中がぞっとする。溢れだしそうだった怒りが、一瞬のうちに冷たい恐怖に変わった。『あの方の血を継ぐお嬢様』、クリスの娘――可愛い、あたしの娘。
「あ……あんたたちは、アニーを連れて行こうっていうの!?」
 大声で怒鳴ってしまってから、慌ててはっと口を噤む。あまり大きな声を出しては、あの子を起こしてしまう。今年で三つになる娘のアネットは、今は一人で、奥の部屋で眠っている。
「冗談じゃないわ、あの子はあたしの子よ! あんたたちなんかに渡すもんですか!」
「もちろん、それなりの礼を尽くさせていただくつもりです」
 声を潜めて言うあたしの前に、使者はそれまで手に持っていた、黒い鞄を置く。大きさの割に重い音が、あたしにも、その中身を悟らせた。
「これは、お嬢様のお支度に充てていただきたい」
 咄嗟に口の利けないあたしに、使者は表情一つ変えず、しゃあしゃあと言う。もちろん、彼の言葉通りのわけがなかった。三歳の子供に、どんな支度が要るものか。――彼らは鞄一杯の金貨で、あたしの娘を買おうというのだ!
「ふっ……ざけないでよ! なんであんたたちは……どういうつもりで」
「お嬢様は、いずれ伯爵家を継がれることになりましょう。是非ともお返しいただかなければなりません。あなたのお手元にある、『継承の指輪』と一緒に」
「……『継承の指輪』……?」
 聞き慣れない言葉、けれど、それが何なのかはすぐに思い当たった。クリスがくれた、あの指輪のことに違いない。ひどく古臭い、骨董品のような指輪を持ってきた彼は、安物じゃないんだと言い訳がましくあたしに言った。彼の家の名誉の証、持っていれば、家の人間が君を軽んじることはないはずだというクリスの説明は、何が何だかよく解らなかったけれど、それでもあたしは嬉しかった。あの人がくれるものはすべて、あたしの幸福だから。
「お返しいただいた暁には、更に相応の礼をと、旦那様は仰せです」
「礼ですって……!」
 あたしの娘、あたしの指輪――あたしの幸福すべてを、こいつらは奪っていこうとしている。かっと頭が熱くなって、あたしは足下の鞄を蹴飛ばした。家から放り出すために、手に持つことさえしたくない。
「出て行って! もう二度と来ないで! あんたたちに渡すものはない、もらいたいものもない!」
 取り繕うはずだった冷静さのことなんて、もう頭から消し飛んでしまった。目の前のこの男は、悪魔だ。あたしはあの子を守らなきゃいけない。クリスに続けて、あの子まで攫っていく悪魔を、追い払わなきゃいけない。
 クリス、クリス、どうして今、ここにいてくれないの?――あたしとあの子を、守ってくれるって言ったのに。
「それがクリストファー様の、ご遺志であってもですか」
「!」
 でも、あたしが何を言っても、目の前の悪魔は消えてくれない。悪魔が口にする彼の名に、逆に息を飲んでしまうのはあたしの方だ。クリスが? クリスがなんて言ったっていうの?
「どうかよく、お考えください。もう、あの方はいらっしゃらないのです。このままあなたが、女の身一つで、お嬢様を育てられるはずがない」
「あたしは母親よ! どんなことをしたって、自分の子は……」
「当家に迎えられれば、お嬢様は伯爵家の後継者としてお育ちになるでしょう。その用意は既にございます。貴族の子女として求められる限りのご教育を致すつもりですし、何一つ、ご不自由なさることのないよう計らわれます。クリストファー様のご息女には、当然のことです」
「…………」
「あなたは母親です。ですから、正しく判断する義務がある。子供の幸福のために、取るべき道を誤ってはならない」
 あたしは何も答えられなかった。答えるまでもない。答えなんか、最初からとっくに決まっている。
 これまでの自分の人生が、一瞬で脳裏を過ぎった。お金もない、頼る者もない、食べるものも満足には手に入れられない。クリスがいなくなった今、それが再びあたしの毎日になる。――どうして、あの子をそんな目に遭わせられるだろう。
 クリス、ねえ、あなたがそうしてくれたの? あの子だけは、助けてくれるように――あたしの呪わしい運命の星から、遠ざけてくれるように。
 口に出しては何も答えはしなかったけれど、黙り込んだあたしの顔を見て、相手は答えを知ったみたいだった。悪魔みたいに見えた使者は、そこではじめて少し表情を崩して、同情するように言った。
「……あなたはまだ若いし、美しい。一人で苦労を背負いこむより、別の人生を探した方がいい。今は私の言葉を、なんと腹立たしいことと思うだろうが、正しいことはいずれ解る」
「…………」
「それで、お嬢様はどちらに?」
 でも、次に口を開いたとき、男は使者の顔に戻っている。失礼、という声と同時に一歩踏み込まれ、あたしははっと我に返った。
「! 待って! まさかもう!? そんな、駄目よ、急すぎるわ!」
「早くて早すぎることはありません。今夜にでもお連れするよう、命じられております」
「こんな夜中に……あの子は眠ってるのよ」
「その方がよろしいでしょう。起こさないようにお連れします」
「無茶言わないで! 夜中にあたしがいないところで起こしてみなさい、あの子は耳が痛くなるような声で泣くわよ! 泣きすぎて、吐くこともあるわ。具合が悪くなるのよ、無理をさせないで」
 案の定、子供に慣れていなさそうな男は、少したじろいだようだった。本当のことを言っただけだが、これは唯一の好機だ。何か言わないと、あの子が連れて行かれてしまう――いずれはそうなるにしても、こんなに早くは耐えられない。あたしの人生最低の夜に、口さえも利かないまま、あの子まで永遠に失ってしまうなんて。
「お願い、あんたはさっき、あの子を大事にしてくれるって言ったわ。そっちのお屋敷に行かせれば、あの子に辛い思いはさせないって。も、もし本当にそうなら、今夜だけは待って。あの子を泣かせないで……そ、それに、いろいろ持って行ってもらわなきゃ。気に入ってる玩具があるのよ、音の出るやつで、鳴らしてあげると機嫌がいいの……外が寒かったら、う、上着もいるでしょ。軽い毛布も……」
 自分でも何を言っているのか、よく解らなかった。堪える暇もなく込み上げてきた涙の最初の一粒が、頬に落ちた瞬間に、あたしの中の何もかもが、ばらばらになってしまったのだ。
 涙でぐしゃぐしゃの顔で、支離滅裂なことを言い続けるあたしを、相手がどんな顔で見ていたのかは知らない。あたしの目はすっかりぼやけて、ものの役には立たなくなっていたから。
「……仕方がありません」
 でも、やがてため息をつくような調子でそう言われたところをみると、多分話が通じないと思われたんだろう。男は低い声で、念を押すように言って立ち去った。
「では明日、改めて。是非あなたからも、お嬢様によく言い聞かせておいていただきたい――お嬢様のお幸せのためには、新しい環境に早く慣れていただくことが肝要だと、ご理解くださいますよう」
 扉が閉ざされる音と同時に、あたしは床に崩れ落ちた。涙は既に零れてしまっていて、堪えてなどいないと思っていたのに、一人きりになった途端、更にぼろぼろと溢れ出ては手の甲を濡らす。止めようのない嗚咽が、静寂の中に響くのが、何だか他人事のように聞こえた。あたしにはもう何もないのに、どうして涙だけは尽きる気がしないのだろう。
 クリスはもういない。この世界のどこにもいない。こんな風に泣いたって、もうあの人は、あたしを見てくれはしないのだ。
 床の冷たさが、次第に脚を蝕んでも、あたしはそこから動けなかった。立ち上がれない、立ち上がりたくない。このまま座り込んで、動けなくなってしまいたい――もう一度、あの人に会えるまで。
「――ママ……」
 でも突然、後ろから幼い声が聞こえた瞬間、あたしはびっくりして顔を上げてしまった。振り向く前に、反射的に涙に濡れた顔を拭う。この声に、泣き腫らした情けない顔で振り向ける母親がいるだろうか。
「アニー」
 暗い部屋から、扉を押し開けて出てきた娘は、あたしが呼んでも応えなかった。こちらへ寄ってくるでもなく、ただその場に突っ立っている。寝惚けて起き出してきたんだろうか。これはちょっと驚くべきことだ。いつも、夜中に目を覚ましたときには辟易するほどうるさく泣くのに、今はそんな気配もなかった。
「……どうしたの? 泣かないで起きてこられるなんて、あんた随分お利口さんじゃない」
 なおも固まっている娘に、からかうように言ってみる。たった今まで、冷たく強張っていたはずの脚にあっさりと力が戻り、あたしは立ち上がって彼女の方へ行った。当たり前だ、あたしが座り込んだままで、誰がこの子を寝台に連れ戻すというのか。
「泣かなくて偉かったわね。でも、まだ夜よ。お外も真っ暗。もう一度、眠らなきゃね」
 けれど覗き込んでそう言った瞬間、いきなり何かが頬に触れて、あたしは思わず身を引きそうになる。そうしなかったのは、それが危険なものではないことを知っていたからだ。熱くて柔らかい、小さな手。濡れたあたしの頬にぺしゃっと触ると、娘はあたしを見上げて言った。
「――まっくらだから、ママ、ないてるの?」
「…………」
「だいじょぶよ。こわいことないよ。あたしがいっしょにねてあげる。おうたもうたってあげるよ。ね、ママ」
 たどたどしくあたしを慰める言葉は、いつもあたしがこの子に言う言葉だ。大丈夫よ、暗くたって、なにも怖いことなんかないんだから。ほら、ママが一緒にいるでしょう……。
 いつの間に、こんなことを言うようになったんだろう。こんなときでも確かに実感できる娘の成長に、少し胸が温かくなる。残っていた涙を素早く拭いて、あたしはにっこり笑おうとしたが、でも結局、上手には笑えなかった。改めて娘に話しかけようとして、そこでやっと気付いたのだ――真剣にあたしを見上げる瞳が、今にも零れそうな涙を堪えていることに。
「……うん、そうね。大丈夫ね」
 震える声を抑えつけて、できるだけ明るく聞こえるように言った。笑いたい気分ではなかったけれど、口角に力を入れて笑みを作る。
「ママ、もうなかない?」
「泣かないわ。怖いことなんかないものね。――アニーが頑張って来てくれたから、ママはとっても安心なのよ」
 いつもそうするように、小さな身体をぎゅっと抱きしめてやる。一瞬の間をおいて、あたしにしがみついてきた娘は、ついに声を上げて泣き出した。いつもの泣き方ではない、もっと切羽詰まった泣き声は、この子の我慢の証に違いない。夜中、一人で目を覚ましたアニーは、恐ろしくて泣きたいのを懸命に堪えて、部屋を出てきたのだろう――きっと、あたしが泣いているのが聞こえたから。
「ありがとうね、アニー。……ごめんね、びっくりしちゃったわよね」
 抱き上げてあやしながら、あたしは寝室へ戻った。寝台に腰かけて、泣き喚く娘の背を軽く叩いてやる。この子がこんなときは、すぐ泣き止んでほしいなんて焦らずにこうしているのが一番だって、あたしは良く知っている。泣きたいだけ泣いたら、ころっと機嫌が良くなるのだ。あたしにしがみついて、甘えられると解ったら、そう長いことぐずりはしない。
 でも――あたしがいなかったら、どうなるんだろう。この子は誰にしがみついて、甘やかしてもらうんだろう。
 腕の中の温もりが、急にずしりと重くなった。いつの間にか泣き止んだ娘は、予想通りにすっかり機嫌が直ったらしく膝の上でもぞもぞしはじめたが、今度はあたしが、また泣きそうになってしまう。慌てて涙を堪えながらも、脳裏に響くのは、さっきの男の言葉ばかり。
 ――お嬢様のお幸せのためには……。
 明日になれば、この子はあたしから離れていってしまう。そして貴族のお屋敷の、お嬢様になるのだ。あたしの知らない世界、でもあたしの知っている世界よりずっといいのは解り切っている。美味しいものを食べさせてもらえる、綺麗な服も着せてもらえる。クリスの娘として大事にしてもらえる――クリスがあたしのために捨ててしまったものを、この子が取り戻すのだ。
 それはきっと、幸せだ。幸せなことだ。だから、あたしはこの子を行かせなきゃならない。たとえ今、この子がどんなに泣いたとしても、それは後の幸せのためなのだから。
「……ねえ、アニー」
 あたしの膝から滑り下りたり上ったりして遊びはじめた娘に、できるだけ何気ない調子で話しかける。あたしの脚に纏わりついたまま、アニーはきょとんと顔を上げた。
「なあに?」
「パパのお家に行きたくない? とっても素敵なところなのよ」
 娘は不思議そうだった。突然、こんなことを言われたって、何が何だか解らないに違いない。
「? パパのおうちはここよ」
「パパのパパ――あんたの、お祖父様のお家なの。あんたに来てほしいって」
「…………」
「お祖父様はすごくお金持ちなの。きっと、あんたをお姫様みたいにしてくれるわ。綺麗なドレスなんか着てね、毎日お腹いっぱいご馳走が食べられるのよ」
 アニーは相変わらず、あたしの言葉を呑み込めない様子で小首を傾げていたが、『ご馳走』の単語が出てくると、ぱっと顔を輝かせた。
「ママ、あたしねえりんごたべたい。あとねえ、まぁるいの。おじさんのまぁるいの。おなかわるくないから、いっぱいちょうだい」
 それが、娘が思いつく限りの『ご馳走』なのだろう。あたしは微笑み、しかしすぐに切なくて胸が苦しくなった。市場で安く買える傷んだリンゴと、手押し車が売る、小さな丸い生地を揚げてバターを乗せただけの菓子とも言えないパン屑が、この子の知っているもっとも素敵な食べ物なのだ。
「……うん、たくさん食べられるわよ。それに、あんたが知らないような美味しいものだって、いくらでもあるんだから。ね、行きたいでしょ?」
「いきたいー」
 娘は嬉しそうに笑って、あたしの誘いにあっさりと頷く。鋭い胸の痛みをやり過ごそうと、あたしは懸命に笑みを作った。あたしは、ほっとするべきなのだ。ちゃんとした母親らしく、娘に正しい道を選ばせたのだから。
 辛くない。辛くなんかない。あたしは母親なんだから――たとえ、二度と会えなくても。こんなに小さなこの子には、やがて忘れられてしまうのだとしても。
「いついくの? あさいくの? ママ、はんぶんこしようね。あたしもね、はんぶんママにあげる」
 でも、屈託なく娘にそう言われて、あたしは言葉に詰まってしまう。この子は、あたしと離れるなんて考えもしていない――きっと、想像もつかないだろう。生まれてからずっと、ただの一日だって離れたことのないあたしが、側にいなくなるなんて。
「アニー……駄目なの。ママは一緒には行けないの。だから、あんたは頑張って、一人で行くのよ」
 よほど驚いたんだろう、アニーはぽかんとした顔であたしを見上げた。けれど、言葉の意味が解らなかったわけではないらしい。あたしと目が合うと、その表情がふにゃっと歪む。
「明日になったら、あんたを迎えに馬車が来るの。馬車よ、すごいでしょう。それに乗ったら、立派なお屋敷に連れて行ってくれるのよ。だからあんたはお行儀良くして、ちゃんとご挨拶をするのよ」
「ママぁ……」
「ほら、泣かないのよ。もうお姉ちゃんでしょう。何でも一人でできるんだから」
 娘が泣き出す前に、すかさずそう言ってやる。ついこの前までよちよち歩きだったくせに、近頃のこの子の口癖は「あたしもうあかちゃんじゃないもん」だ。服を着替えさせようとすれば、自分でやると暴れるし、外を歩かせれば荷物を持ちたいと駄々をこねる。自分のことを一人前だと認めさせたい彼女にとっては、一番効く言葉のはずだ。
 そして予想通り、アニーは泣き声を上げかけていた口をぴたっと閉ざす。泣き出したいのを懸命に堪える様子に、あたしは密かに祈った。お願い、お願い、泣かないで――泣いたって、もう、何も変えられないんだから。ただ、この手を離すのが辛くなるばかり。
「いい子ね。……大丈夫、何も心配しなくていいんだからね。皆があんたによくしてくれるんだから……」
「ママ。ママもいっしょにいこ」
「お呼ばれしたのは、あんただけなのよ。ママは行けないの」
「じゃあ、あたしもいかない! ママといる!」
「そんなの困るわ。ママ、もうあんたが行くって約束しちゃったんだもの。あんたが行ってくれないと、ママ、約束破ったって怒られちゃうわ。ママのお手伝い、してくれないの」
「…………」
 じっと瞳を見つめて言うと、アニーは口を歪めて、言葉にならない声を発した。不満を態度で表すようにじたばたしている娘の手を握って、あたしは更に続けて言う。この手を握るのは、今夜が最後。離さなければいけない、この子のために――それに、あの人のために。
「ねえ、アニー。……あんたの行くお屋敷にはね、パパがいるの」
 クリス、あたしのクリス。彼がもう、同じ地上にいないなんて信じられない。じっとあたしを見つめる青い瞳も、あたしの名前を呼ぶ声も、あたしを抱き寄せる腕も重ねる唇も、永遠に失われてしまった。あたしの知らないところで、彼を逝かせてしまった。どうしても、彼を地上に留めておけなかったのなら――せめて、最期は側にいたかったのに。
「お願い……あたしの代わりに、パパに会ってきて。パパはきっと今頃、とってもあんたに会いたがってる」
 もう遅い。クリスはいない。残るのはただ、息のない抜けがらの身体だけ。けれどそうと解っていても、あの人を一人ぼっちで、死の闇の中へ送り出すのだと思うとたまらなかった。あの人の家族がどんな人たちなのか、あたしにはよく解らないけれど、でもクリスは他の誰よりも、この子に見送ってほしいと思うだろう。彼は本当に、この子を愛していたから。
「あんたが行ってくれたら、パパは喜ぶわ。きっと……寂しがってると、思うの」
 あたしの言葉を、アニーは黙って聞いていた。もう、暴れたり泣いたりする様子はない。幼いなりに、何か懸命に考えているみたいだ。
 小さな娘の手を、更に強く握る。朝になったら、もうこの手はここにはない。この子はクリスの許へ行く、彼が歩くはずだった道を歩く。あたしの運命とは、決して交わるはずのなかった世界で。
 そして、あたしは、失うのだ――すべてを。
「いかない」
 けれど、幼い声がきっぱりとそう言うのを聞いて、あたしははっと目の前に意識を戻した。見れば、アニーはぎゅっと唇を引き結んで、真剣な顔であたしを見上げている。大きな丸い瞳――あの人と同じ色。
「ママ。あたし、パパのとこいかない」
「アニー」
 この子に、何て言って聞かせればいいのだろう。父親に会えるのはこれが最後だと、どうやって解らせればいいのだろう。あたしは彼女を説得しようと口を開きかけたが、けれどアニーの言いたいことはそれで終わりではなかったらしい。いやいやと首を振って、あたしの手を握り返すと、必死の面持ちで続ける。
「あたしいかないもん。パパにあえなくたっていいもん。だからね、あたしじゃなくて、ママがいったらいいの。――だってママのほうが、ずうっと、パパにあいたかったんだもの」
「…………」
「パパがいないから、ママはずうっとかなしいの。パパにあったら、かなしくなくなるよ。そうしたら、ママ、もうなかなくていいんでしょう?」
 真っ直ぐな瞳が、たどたどしいけれど真摯な言葉が、衝撃になって胸を貫く。あたしは身体が震えてしまうのを、堪えることができなかった。この子はこんなに小さいのに、どうしてあたしを見透かしてしまうのだろう。
 会いたい。一緒にいたい。離れたくない。別れる覚悟ができていたなんて嘘。あの人を行かせたくなんてなかった。ずっとずっと側にいたい――叶わないと知ってしまった今になっても、焦がれるほどに。
「ママ、パパにあいにいって」
 そう言う娘は、何だか大人びた顔をしていた。握っていた手を解くと、あたしの膝を優しく撫でる。ちょうどあたしが、むずかるこの子にしてやるのと同じ調子で。
「あたし、ひとりでおるすばんできるよ。おりこうさんよ。ちゃんと、ママとパパがかえってくるのまってるよ」
 けれど、あどけない声は急に詰まった。見上げる瞳に、見る間に涙が溢れてくる。けれど泣き声は上げず、アニーは目を擦りながら、動けずにいるあたしに懸命に言う。
「だから……かえってきてね。ママと、パパと……いっしょにいるの。ねぇ……」
 それ以上は、とても聞いていられない。あたしは愕然として、しゃくり上げる娘を思わず抱きしめた。一度は堪えたはずの涙が、再び溢れ出してくる。この子はちゃんと解っているのだ。あたしが何をしようとしているのかを――あたしがこの子の手を、離してしまおうとしていることを。
「ママ、だいすき……ママ、いかないで。あたし、いいこにしてるから……」
 ああ、何てことを言わせてしまったのだろう。縋りついてくる娘の手を背に感じながら、あたしはただ、彼女を抱きしめ続ける。やっぱり駄目、どうしても駄目だ。
 貴族の屋敷へ行かせれば、何不自由なく暮らせる。綺麗な服も、十分な食事もある。あたしには想像もできない暮らしができる。でもそれで、この子が失うものを埋めることができるだろうか――自分は母親に捨てられたのだと思い込んで、生きていかなければならなくなってしまったら。
 脳裏を過ぎる、愛しいあの人の顔。彼が最後にくれた機会を、あたしは踏み躙ってしまう。彼の愛したこの子まで、あたしの運命に引きずり込んでしまう。
 でも、クリス。あなたは怒らないでしょう? いつもみたいに肩を竦めて、仕方ないなって笑って――あたしを助けてくれるでしょう?
 次に顔を上げたとき、あたしの涙は止まっていた。泣いている暇なんかないからだ。やがて朝が来る。心を決めたなら、動き出さなければならない。
 そして動き出したなら、もう引き返せない。
「アニー。あんた、ママのこと好き?」
「だいすき!」
 問い掛けに、間髪いれず答えた娘をもう一度強く抱きしめる。小さくて柔らかい、愛おしい温度。
 この子だけは、守ってみせる。他の何と引き換えにしても、絶対に。何からも、誰からも――あの忌々しい、あたしの運命の星からも。
「可愛いアニー、ママもあんたが大好きよ。だから、ねぇ――ママと二人で、駆け落ちしてくれる?」

     *     *     *

 冷え切った暗闇を、夜明けを告げる教会の鐘の音が震わせる。ここに移り住んでから、一度たりとも足を向けたことのない教会だけど、わざわざ行くまでもなく、その存在はいつも身近に感じられる。――押しつけがましい坊さんの説教みたいに、毎日毎日飽きもせずがなり立てる、忌々しい鐘の響き。
 泥のような眠りから目覚めて、あたしはため息を零した。夜の仕事に選んだ、酒場を回る歌うたいとして、最後の店を出たのが夜半過ぎ。数刻は眠れたはずなのに、少しも寝た気がしなかった。身体が重い。疲れが澱のように溜まって、全身を呑みこんでしまう。
 このままもう一度目を閉じて眠ってしまえたら、どれほど楽になるだろう。けれど、そんな贅沢が許されるわけがない。結局あたしはいつものように、頭痛を堪えて起き上がるよりなかった。眠っていたら、飢え死にしてしまう。骨身を削って働かなければ、今日の食事も満足に口にできない――この街では。
「アニー。朝よ、起きて頂戴」
 すぐ側で寝ている娘に声をかけながら、寝台を下りる。朝食を準備しなければいけない。といっても、ろくなものがないことは解っていた。拳のように固くなった古いパンが少し、バターがほんの一かけ、それがあたしたちの住むこの部屋にある、食べられるもののすべてだ。
 切るというよりは、刃を突き立てて割ったパンの欠片を、火鉢の上に並べる。焼かなければ固すぎて食べられたものではないけれど、台所どころか火床すらない住まいでは、これが限界だ。どこからか吹き込む隙間風に震えながら、なけなしの炭が赤く燃えるのに手をかざして、あたしは熱いスープをたまらなく恋しく思った。農場のあの薄い塩スープに、今は懐かしささえ覚える。
 三度の冬を過ごした農場を辞めて、再びこの街へ戻ってきたのは、四度目の冬が来る前だった。
 あの夜、娘を連れて夜逃げ同然にロンドンを離れたあたしが、何とか見つけた働き口は、馬鹿馬鹿しいほどつまらない理由で失われてしまった。長く家を出てぶらぶらしていた農場主の息子が、突然戻ってきたせいだ。放蕩息子を諌めるはずの父親も、後を継ぐからと言われれば強くも言えないらしく、あそこで働いてた人たちはみんな苦しい思いをすることになった。男の人たちが手ひどく扱われるのも、若い女の子が泣かされるのも当たり前のようになった。
 でもそれだけなら、あたしは我慢してあそこにい続けただろう。雇い主の馬鹿息子より、仕事を失う方が嫌だったから、あいつが何か言ってきても、馴れ馴れしく近付いてきても、上手くあしらって気にしないように努めた。けれど、アニーにはそれが耐えられなかったんだろう。にやけた笑みであたしを納屋に連れ込もうとしたあの男に、あの子はひどい臭いのする泥玉を投げ付けた。男は娘を蹴飛ばし、そしてあたしはあいつを殴って、農場を追い出された。本当に、くだらない顛末。
 あんな、子供にまで手を上げるような男の側に、娘を置いてはおけない。そう思ってロンドンへ戻ってきたけれど、けれど今の生活が、あの男よりましなんだろうか。あたし一人の稼ぎでは、浮浪者とゴロツキと盗人ばかりの街で、この小さな部屋を借りるのがやっと。寒さに凍えても着る物もない、疲れきっても休む時間はない。――少なくとも、口にするものは、農場に住み込んでいた頃の方がまだ良かった。
「アニー、ぐずぐずしないで。早く起きなさい」
 惨めな朝食にささくれ立つ心そのままに、あたしは再度娘を呼んだ。食事とも言えない貧しい食べ物、でも他に食べさせられるものなんかない。
 やり場のない感情が、胸の内側を苛立ちで埋める。何もかも、上手くいかないような気がした。あたしはついてない、何一つあたしの思い通りにはならない。真っ当に働いているのに、お腹一杯食べることもできない。こんなに疲れて休みたいのに、満足に眠れもしない。今日もまた、つまらないことで怒鳴られて、へとへとになるまでこき使われるだけの一日なんだろう。洗い物に使う水は肌を裂くほどに冷たくて、運ばされる荷物は肩に食い込むほど重くて――そしてあの子はまだ起きてこない。
「もう、いい加減にしなさい。ママ、すぐに出なきゃいけないんだからね」
 最低限の身支度を整え終わっても、まだ寝台にいる娘に、あたしはついに声を荒らげた。次の鐘が鳴るまでに、仕事先に着いていなければ首になってしまう。それまでに食事をさせなきゃいけないのに、子供はちっともそんなことが解らないのだ。手のかかる娘に苛々して、あたしは力づくで彼女を起こそうとしたが、でもそこでようやく気がついた。
「ママ……」
 あたしの機嫌を察したのか、ようやく起き上がったアニーは、何だか様子がおかしかった。眠そうに顔を擦っている仕草は緩慢で、だるそうな気配だ。どことなく甘えた声で呼ばれて、あたしは嫌な予感がした。慌てて側に寄ってみる。
「ママ、あたし、おなか痛い……」
 落ち着かなく身動ぎしながら、娘はそう訴えた。見上げる瞳は潤んでいて、頬は微かに上気して見える。触れてみれば案の定、熱が出ているようだ。子供の体温と片付けるには少しばかり無理がある、軽い発熱。そういえば少し前から、時々咳をしていたっけ。
 しかしどうして子供というのは、こう都合の悪いときに限って体調を崩すんだろう。あたしは舌打ちしたくなるのを何とか堪えた。こうしている間にも、家を出なければならない時間は刻々と迫っている。
「もう、なんで……困ったわね……」
 とりあえず娘を再び寝かせて、あたしは考えを巡らせた。今日は工場での仕事があるから、一日中帰っては来られない。あたしの朝食は諦めて、昼、この子に食べさせよう。
「アニー、お腹、どのくらい痛いの?」
「うぅん……ちょっと」
「どんな風に痛い? 我慢できないくらい?」
「がまん……できる、けど……」
 はっきりしない返事をするアニーの様子は、けれど案外悪くなさそうで、あたしはちょっとほっとした。何となくだるかったり、具合が悪いというようなことを伝えるとき、この子は決まって『お腹が痛い』と言うのだ。今も多分、そういうことなんだろう。
「きっと、風邪を引いたのね。今日は一日、寝てなさい」
 どこにも行っちゃ駄目よ、と釘を刺す。日中あたしのいない間、アニーが何をしているのか詳しいことは知らないが、どうやら近くの子供たちと一緒に行動しているらしい。悪い遊びをするような子たちではないから、その点は心配していないけれども、それでもこの寒空の下、川で遊んだり、吹きさらしの通りを走り回るようなことをすれば、風邪をこじらせてしまうだろう。
「いい、静かにしているのよ。そうでないと、もっとお腹が痛くなるわ」
「ママ……」
「パンがあるから、食べたくなったら食べなさい。あと、戸締りを忘れないで。あたしが出かけたら、すぐに鍵をかけてね」
 あたしは寝台を離れて、着古した外套を手に取った。言い慣れた細々した注意を急いで口にしながら、手袋をはめる。もう行かなければ。
「ママ」
 けれど、不意に何かが引っかかって、あたしの足を止めた。見れば、寝かせたはずの娘が起き上がって、あたしの外套の裾を握りしめている。
「アニー」
「お仕事、行っちゃうの……?」
「そうよ。遅れそうなの、放して」
「……おなか痛いの」
「だから、寝てなさいって言ったでしょ。ただの風邪よ、たいしたことないわ」
「でも……」
 アニーはなおも手を放さない。上目遣いで見上げてくる瞳が、何を言いたいのかは解っている。けれど、それは無理なことだ。あたしは娘から目を逸らして、わざと素っ気ない口調で言った。
「アニー、ママはもう行かなきゃいけないの。いい子でお留守番しててね。できるでしょう?」
「いや!」
 冷たく言ったら、離れてくれるのではないかと思って言ったのだけれど、それは逆効果だったらしい。アニーは手を放すどころか、ますますぎゅっと外套を握りしめる。
「お留守番なんかいや。ママ、ねえ、一緒にいて」
「止めて、ママを困らせないで。そんなことできないって、解ってるでしょう」
「じゃあ、ママと一緒に行く」
「駄目に決まってるじゃないの! もう、どうしてそんなわがままばっかり言うの?」
 娘の声が甲高くなるのにつられて、あたしの声も険しくなる。本当に、こんなことをしている時間はないのだ。どうしてこの子は解ってくれないのだろう。
 目の奥がちかちかする。苛立ちが胸を圧して、息が苦しくなるほどだ。いつもそう、何をやっても上手くいかない。どんなに頑張っても、結局はいつも何かに邪魔をされる。酒浸りの父親、クリスを連れて行った死神――勝手に風邪なんか引いてきて、聞きわけなくぐずり続けるこの娘も!
「放して!」
 一瞬、目の前が真っ白になる。気付けば、あたしは娘を怒鳴りつけて、その手から外套を無理矢理引き剥がしていた。突然の大声に、アニーがびくっと身を竦めるのが解ったが、その様子さえも、一旦堰を切って溢れ出したものを止めることができない。衝動のままに、あたしは叫ぶ。
「だってしょうがないじゃない! 行かなきゃ、今夜食べるものだってないんだから! この仕事がなくなったら、今度こそあたしもあんたも生きていけないわ。うちにはお金がないの――誰も助けてくれないのよ!」
 だから、あたしは行かなくちゃいけない。何があっても、働き続けなくちゃならない。生まれてから今までの人生で、たった一人助けてくれた人は、もういなくなってしまった。あたしは一人きり――疲れて、擦り切れて、死ぬまでずっと。
 大人しくなった娘を振り捨てるように、背を向ける。出掛けのキスも、言葉さえ交わさないままに、あたしは狭苦しい家を出た。

     *     *     *

「リジー」
 呼ばれて、あたしは慌てて暗がりで身を起こした。起き上がった瞬間こそ、軽い眩暈がしたものの、さっきまでの気分の悪さはすっかり消えていて、あたしはちょっとほっとした。少し眠れたおかげだろう。
 いや、でもそれは決していいことじゃない。明かりを持って現れたのは、あたしをここで休ませてくれた、宿屋の女将さんだった。宿の酒場で歌いにきたあたしが、ろくに立ってもいられない様子なのを見かねて、店の裏の静かな納屋に置いてくれたのだ。彼女はあたしを見下ろすと、素っ気ない口調で言った。
「起きられるんなら、起きとくれ。もううちは店じまいだよ」
 いつの間に、そんなに時間が経ってしまったんだろう。あたしはできるだけ愛想よく礼を言おうとしたけれど、声に落胆が滲むのを抑えることはできなかった。なら、今夜はほとんど仕事にならなかったのだ。せっかくここまで来たのに、一ペニーの稼ぎにもならなかった。
「あのリュート弾きの男なら、もうとっくに帰っちまったよ。悪態つきながらね。……あんたのせいで、今夜はすっかりケチがついちまった、足手まといの女なんか連れて歩きたくないってさ」
 夜の酒場を回るとき相方にしていた、リュート弾きのパーシーは、元々嫌な男だった。ただ、この辺りの盛り場では顔が利いて、一緒にいれば店から締め出されることはなかった。向こうは向こうで、酒場で客受けのいい女の歌い手を連れて歩くのは都合が良かったらしく、あたしはしばらく彼に付いて回って稼いでいたのだ。
 けれど、どうやらあたしは見放されたらしい。あんな奴と一緒にいなくて良くなったのは清々するけど、でも明日からはどこか歌える場所を探さなきゃいけない。大概の酒場には、そこを縄張りにしている馴染みの歌うたいや芸人がいる。そうした連中の難癖や妨害と戦って、自分の仕事ができる場所を見つけるのはとても難しい。しばらくは、またろくに稼ぎもない……。
「さ、早く立った立った。いつまでもそこに座り込んでいたって、仕方ないだろう」
 追い討ちをかけるように急かされて、あたしはようやく立ち上がった。心は果てしなく重かったけれど、確かにこうしていても仕方がない。家に帰らなければ。アニーを一人にしたままだ。
 不意に、今朝のことが脳裏に蘇る。どうして、あんなにあの子を怒ったりしてしまったのだろう。あの子がほんのちょっと甘えたがっただけだってことは、ちゃんと解っていたはずなのに。
 子供が母親に甘えたがるなんて当たり前のことなのに、あたしはそんなことも許してやれなかった。怒鳴って、あの子に寂しい思いをさせて、そうまでして働こうと出てきたのに、それさえも上手くいかない。ちゃんとした暮らしをさせてやることもできなくて。
 こんな母親を、アニーはどう思うだろう。あたしを恨むだろうか――あの子が大きくなって、真実を教えたなら、あの夜のあたしの間違いを責めるかもしれない。あの子の手を引いて逃げてしまったことを。貴族のご令嬢として、何一つ不自由なく暮らせたはずの人生を、捻じ曲げてしまったことを。
 ああ、あの子はどうしているだろう。朝は、少し具合が悪いみたいだった。大丈夫だろうか……。
「ちょっと、そっちじゃないよ」
 女将さんに礼を言って、店から出ようと扉に手をかけたけれど、すぐに止められてしまった。そういえば、店じまいだと言っていた。もう、表通りに通じる出入口は閉めてしまったのか。彼女の言葉に従って、店の裏へと回る。
「こっちに来な。――いいから、こっちだよ」
 けれど、女将さんが進んで行った先は裏口じゃなかった。当惑して、思わず足を止めるあたしに向かって、女将さんは無愛想に指し示す。人のいない厨房、まだ火の消えていない竈。狭い空間の隅に、置かれた小さな卓と椅子。
「そこへお座り」
 あたしの方を見もせず、女将さんは竈の前に立つ。何がなんだか解らない。でも、早くおし、と叱られて、あたしは恐る恐る椅子に座った。
「まったく、なんて顔してるんだい」
 肩越しにちらりとあたしを見て、女将さんは再び背を向けた。鍋の蓋を開けて、中身をかき回しながら言う。
「あんな男とはね、手を切って正解だよ。調子のいいこと言って取り入るから、顔が利くように見えるけど、本当はろくでなしだってことはみんな知ってる。ずっと、あんたはあんな男とは別れた方がいいと思ってたんだ」
 どうやら女将さんは、あたしが落ち込んでいるのを、パーシーと離れたせいだと思っているらしい。とんでもない、とあたしは思わず声を上げる。
「別れるも何も、あんな奴と付き合った覚えはないわよ! ただ、組んでただけ」
「おや、そうかい」
「そうよ。あいつ、顔だけは広かったから……」
 でも、これからはそれが仇になる。あいつの馴染みの店で歌おうとしたら、今度はあいつが、あたしを陰険に追い出すに違いない。今まで彼がそうしてきたように。これまであたしが回ってきた店は、みんなあいつの縄張りだから。
「ほら」
 それは、明日からのことを考えて俯いたあたしの目の前に突然現れた。湯気を立てる、白い皿――美味しそうな匂いを漂わせる、温かいスープ。
「早く食べな。うちはもう、店じまいなんだからね。……少しはまともなものを食べなきゃ、あんた、ここから家に帰り着けもしないよ」
 びっくりして顔を上げたあたしに、女将さんは匙を突き出した。咄嗟に受け取ってしまったけれど、でもあたしはただ驚いて、彼女を見返してしまう。こんなこと、少しも想像しなかった。てっきり彼女も、あのパーシーと同じように、迷惑をかけたあたしにうんざりしていて、すぐにでも追い出したがっていると思ったのに。
「何惚けてんだい。早くしなったら、冷めるだろう。うちの料理は、この辺で一番さ。まさか、食べられないなんて言わないだろうね」
 あたしは慌てて首を振ったけど、まだ頭の中は混乱したままだった。ここの女将さんとは、それほど親しい間柄だったわけじゃない。何度も歌わせてもらっているから、もちろんお互い顔と名前くらいは覚えているけれど、でも挨拶と二言三言の世間話より他には、ろくに口も利いた記憶がないくらいだ。いつも忙しく厨房を切り盛りする女将さんには、流しの歌うたいなんて、いてもいなくても構わない、来ても来なくても気付かないくらいのものだろうに。
「……あぁ、別に、遠慮なんか要らないよ」
 なのにどうして、こんなに親切にしてくれるのだろう。あたしが皿を前になおも躊躇っているのを、でも女将さんは別の理由だと思ったらしい。ぶっきらぼうな口調でそう言うと、卓の横に何かを置いた。
「あんたは客だよ。ちゃんと、支払ってもらったからね。ほら、これはお釣りだ」
「え……? 女将さん、あたしお金なんて」
 払った覚えなんかない。咄嗟に懐を探ってみたけれど、目の前に置かれたコインの額が、あたしの手持ちより多いのは明らかだった。あるはずのないお金を目の前に、うろたえるあたしを見て、女将さんははじめてちょっと笑った。悪戯っぽい、秘密を打ち明けるような笑顔。
「あんたの稼ぎさ。スープの支払いは、そこから引いといたからね。だから、そのスープはあんたが飲んでいいんだよ」
「で、でも稼ぎって……あたしは、今日は全然」
 夜、盛り場を回りはじめたときから身体の調子はよくなかったけれど、それがどんどんひどくなって、ここに辿り着いたときにはどうしようもなく辛くなってしまった。だからこの店では、ほんの短い歌を二つか三つ歌っただけだ。それに、稼ぎは全部の仕事が終わったあと、パーシーと分けることになっていた。あの男がわざわざあたしのために、金を置いていくとも思えない。
「いいや、あんたの稼ぎに間違いないよ。……あんたが真っ青になって今にも倒れそうなのに、あの男は休ませようともしなかったんだろ? その上、あたしがあんたを奥に連れていったら、もらった小銭を全部かき集めて出て行こうとしてね。だから、それをずっと見てたうちのお客さんたちが、怒って取り返したのさ。『それはてめえにくれてやった金じゃねえ』ってね」
「…………」
「うちの常連さんはね、あんたの歌を気に入ってるんだよ。あんな下手くそのリュートなんか、ない方がずっといい。あんたの声がよく聞こえるから――厨房にいると、普通は歌なんか聞こえやしないんだけど、あんたのは聞こえるよ。綺麗な声だ」
 どきんと、鼓動が大きく打つ。頬が熱くなるのが自分でも解る。思いがけない言葉に、あたしは胸がいっぱいになった。
 何をやっても、上手くいかないって思ってた。あたしが何をやったって、誰も見てもいない。どこかで野垂れ死んだって、誰も気にも留めないって。
 でも、そうじゃない。ちゃんと、見てくれている人がいる。あたしの知らないところで、あたしには見えないところで、何かが動いている。忌々しいと思っていた、ずっと呪ってばかりいた――目には見えない、あたしの運命の星が動く。
「そんなわけだからね、また明日からも、うちには来てくれなきゃいけないよ。うちも、お客さんを逃すようなことがあっちゃ困るんだ。それを食べて――精をつけて、ちゃんと歌えるようになって来てもらわなくちゃ」
 今夜みたいな騒ぎは困るよ、と、女将さんは釘を刺すように言ったけれど、あたしはすぐには答えられなかった。こんなに優しい言葉をかけられたのは、この街に戻ってきてからはじめてだ。仕事を失わずに済む。明日からも、あたしはここで歌える――いてもいいって、パーシーじゃなくあたしを入れてくれるって、女将さんは言ってくれた。
「ありがとう、ございます……」
 やっとの思いでそう言って、あたしはたまらず頭を下げる。何度言っても、どれだけ感謝してもしきれない。でも女将さんは顔をしかめて、よせとばかりに大きく手を振る。
「ああ、ああ、止めとくれよ。それより、早くその皿を空にしてほしいもんだね。いつまでも片付きゃしないじゃないか」
 女将さんに急かされて、あたしはようやく目の前の皿に手をつけた。ミルクをふんだんに使ったスープは濃厚で、芋や野菜が惜しげもなく入っている。
 こんな立派な食事をするのは、どれくらいぶりだろう。匙を口に運んだ瞬間に、胃がぎゅっとなる感覚が走る。泣きたくなるほど美味しくて、あたしは無我夢中で匙を握りしめた。ひどく空腹だったことが、ようやく思い出される。朝から何も食べていない……。
 ――ああ、でも……。
「……どうしたんだい?」
 突然、匙を卓に戻したあたしに、女将さんが怪訝な顔をする。それを見上げて、あたしは意を決して言った。ちょっとみっともないけれど、でもそんなことは言っていられない。
「女将さん。このお皿、貸してもらえませんか」
「何だって?」
「家に……娘に食べさせたいの。ずっと、ろくに食べさせてあげられてないから」
 空腹なのは、あたしだけじゃない。家にあるパンの欠片なんかじゃ、到底足りないことは解っていた。きっと今頃、アニーもひどくひもじい思いをしている。それでなくとも、あの子は風邪気味なのだ。ちゃんとした、力のつくものを食べさせなくちゃいけない。
 そう言って嘆願するあたしに、女将さんは驚いたようだったが、すぐにその顔をしかめる。何を言っているのかという様子だ。
「皿だって! 馬鹿言っちゃいけない、それはここで使うもんなんだ。持って行かれちゃ、困るに決まってるだろう。大体、もし割ったら、どうしてくれるつもりなんだい」
「それは……」
「とにかく、この皿は駄目だ」
 きっぱりと断られれば、二の句が継げない。けれど、女将さんの言葉はそれで終わりじゃなかった。何とかして食い下がろうとするあたしが口を開くより先に、ぽつりと付け加える。
「――だから、こっちの鍋を持ってお帰り。転んで引っくり返したりするんじゃないよ」
「! 女将さん!」
「おっと、忘れちゃいけない」
 礼を言いかけるあたしを遮るように、女将さんは手を伸ばした。卓の上にあるコインを幾つか摘まんで、自分のポケットに入れる。
「礼を言われることなんか、あたしゃなんにもしてないよ。ちゃんと代金はもらうからね。……さあ、早く食べてしまいな。子供が待ってるんだろう」
 女将さんはそれきり背を向けて、鍋にスープを移す作業に専念してしまう。あたしは礼を呑み込んで、勧められた通りに目の前の仕事に取り掛かった。
 野垂れ死ぬわけにはいかない。何もかも上手くいかないからって、腐ってしまっていいはずがない。あたしにはあの子がいるのだ。
 早く家に帰りたいと、あたしはようやく素直に思えた。早く、早く――愛しい、あの子のところへ。

     *     *     *

 ずしりと重みを感じる鍋を抱えて、あたしは息せき切って家へと駆けた。いつもなら、疲れ切った身体は耐え難く重いはずだけど、今夜は違う。女将さんが、一杯分のスープの代金で鍋に譲ってくれたスープは、あたしたち二人がお腹いっぱい食べるのに十分な量だった。きっと、アニーは喜んでくれるだろう。美味しそうに食べる姿を想像すると、それだけで足が軽くなる。
「ただいま」
 古びて軋む建物の一番上、狭くて暗い屋根裏部屋の扉を開けた。帰る道々、あたしの足下を照らしていた角灯の明かりで、室内を見渡す。真っ暗な部屋の中から、答えはない。
「……アニー?」
 一瞬、娘がいないのかと不安になる。けれど微かな衣擦れの音がして、寝台の上にある掛布の膨らみが目に入った。もう、眠ってしまったんだろうか。
 無理に起こすのも躊躇われ、あたしはちょっと残念に思いながら、鍋を冷え切った火鉢に置いた。少しの暖もないこの部屋じゃ、せっかくのスープも冷めてしまうだろうけど、仕方ない。
 でも、そんなことは問題じゃないってことに気付くまでに、それほど時間はかからなかった。ため息をついて、もう休もうと思いかけたあたしの耳に届く、不吉な物音――喉に絡みつくような咳と、荒く乱れた息遣い。
 あたしは息を呑んで、一度は手放した明かりを手繰り寄せた。慌てて寝台に駆け寄って、娘の様子を確かめる。
「アニー」
 呼びかけても、答えはない。咳を堪えるように、身体を丸くして眠っている娘は、ひどく苦しそうな顔をしていた。真っ赤な頬、胸の辺りを押さえてぐったりとしている様は、誰が見たって一目で病気なのだと解る。たまらず触れてみると、ぞっとするほど熱い。
「アニー、しっかりして!」
 朝は、全然こんな風ではなかったのに。ちょっとした風邪、寝ていればすぐ治るくらいに見えたのに。こんなに悪くなってるなんて――あたしが放っておいたから。側についててやらなかったから。
 どうしよう。どうしたらいいんだろう。再び咳き込みかける娘の背をさすりながら、あたしは動転して彼女の名前を呼び続ける。目の前が真っ暗になって、身体が震える。どうしよう、もしこの子に何かあったら……。
「……ママ……」
 そのとき、掠れた声があたしを呼んだ。薄く開いた瞳がぼんやりと、けれど確かにこちらを見る。良かった、答えてくれた。あたしは思わず彼女の手を握りしめる。
「そうよ、ただいま。具合はどう……」
 けれどその手がひどく冷たくて、あたしは驚いて言葉を切った。身体中が熱いのに、握った手だけが氷のように冷え切っているのだ。
 理由はすぐに解った。服の袖が、不自然に汚れている。触ってみれば濡れていて、あたしは愕然とした。この子はどこで、袖を濡らして冷たい水に手を突っ込むような真似をしてきたのか。
「アニー! あんた何をしてきたの? 今日は家で寝てなさいって……」
「ママ」
 衝撃のあまり、思わずきつく問い詰めそうになったけれど、結局そうはできなかった。アニーは眩しそうにあたしを見上げて、苦しい息でにっこりと笑う。
「ママ。お金、あるよ」
「え……?」
「あたし……もってる」
 言うと、娘は、握りしめていたもう一方の手を差し出す。ずっと胸元にあったその手が、苦しみのためではなく、握り込んだものを大事に庇うためだったのだと、あたしはようやく気がついた。
「はい」
 その手を開いて、アニーは嬉しそうに言った。小さな手から、一枚、二枚と音もなく零れ落ちたそれらは、弱々しく光を跳ね返す。古びて、煤けて錆びてしまった、数枚の銅貨。
 あたしはただ呆然と、それを見つめることしかできなかった。一体、この子は何を言っているんだろう。どうして、こんな、お金なんて。
「……あ、あたしのだよ、ママ」
 あたしが混乱して黙っているのを、けれど娘は別の理由と思ったらしい。急に顔を歪めると、言い訳のように付け加える。
「悪いことなんて、してないよ……。川で、探したの……釘とか、金物とか、いろいろ……」
 誰も彼もが貧しいこの街では、働き口のない小さな子供たちも、街中のいたるところで小金を稼ごうとする。使い走りをしたり、店の前を掃除したり……くず鉄拾いも、そんな仕事の一つだ。使い物にならなくなった金具を拾い集めて、業者に売るのだ。決して、実入りのある仕事じゃない。一日中、凍えながら川底をさらったって、いくらにもなりゃしない――ちょうど今、この子の手から零れ落ちたくらいのお金にしか。
「どうして……」
 この寒空の下、そんなことをしていれば、身体を悪くして当たり前だ。衝撃的な娘の告白に、あたしは何とかそれだけを問うた。何だって、この子はそんな馬鹿げたことを仕出かしたのか。こんな小銭なんかのために、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの……。
「ママ、大丈夫」
 なのに目の前のアニーは、小さく笑ってみせるのだ。あたしの手を握り返して、嬉しそうに――けれど、どこか不安そうに。
「ちゃんと、お金あるよ……あたし、ママのこと、助けるよ……」
「…………」
「だから、ねぇ――明日は、一緒に、いてくれる……?」
 掠れた声の囁きが、鋭い鞭のように心臓を打つ。蘇った記憶が荒々しく押し寄せて、一瞬にして目の前を染め上げる。あのときの光景――今朝、あたしがこの子に投げつけた言葉。
 ――放して!
 ――どうしてそんなわがままばっかり言うの?
 ――うちにはお金がないの。
 ――誰も助けてくれないのよ!
 目の前の現実を、もう疑う余地はない。全部、あたしのせいなのだ。あたしがこの子を追い詰めて、凍える街に追い出した。あんなに懇願されたのに、側にいてもやらなかった。何一つしてやらなかった――母親の心を得るために、金が必要だと、この子が思い込んでしまうほどに。
 身体から力が抜けて、あたしは崩れるように寝台の横に座り込んだ。あっという間に視界がぼやけ、零れる涙を止めようと考えることもできない。詰まりそうな息は嗚咽に代わって、肝心の言葉が出てこない。今、どうしても言わなければならない言葉が。
 ――ごめんなさい。
 ごめんなさい。あなたを守ることができなくて。守りたいのはあなただけなのに、本当に心からそう思っているのに、でも毎日の暮らしに追われたら、ときにそれさえ覚えていられなくて。
 あたしは弱い母親だ。この子を守れない――なのに、手を放すことは、もっとできない。
「ママ」
 アニーが、ひどく驚いてあたしを見上げている。母親が、こんな風にみっともなく泣き出すなんて、彼女には理解できないことだろう。娘はおろおろして身体を起こすと、俯いて泣くあたしを覗き込む。
「な……泣かないで……あ、あの、ごめんなさい、ママ。あたしが、悪い子だったから……? ママの言う通り……家にいなかったから……」
 こちらを心配するその声が、気遣わしげなその瞳が、尚更あたしの胸を突く。それ以上聞いていられなくて、あたしは娘を抱きしめた。きつく、きつく――誰にも、何にも奪われないように。
「――忘れないで」
 嗚咽に震える喉から、何とか声を絞り出す。この子に聞こえるだろうか。伝わるだろうか。
「あんたが、大事なの……あたしの、この世で一番大切な娘なの……」
「…………」
「他のものなんか、どうでもいい……あ、あんたが……元気で、健康で……幸せでなきゃ……」
 けれど、そこまでが限界だった。溢れ出る涙が喉を潰して、唇からは意味をなさない音が漏れるばかり。強く唇を噛みしめて、それを堪えようとしたあたしは、けれど次の瞬間、その力も失った。
 ぎゅっとしがみついてくる、小さな気配。あたしが抱きしめているはずなのに、けれど確かに抱きしめ返してくる細い腕が、優しく背中を撫でてくれる。労わるように、慰めるように――大丈夫だよって言うように。
 頭の中が真っ白になって、何もかもが消えていく。幼い娘を抱きしめて、あたしは母親になってはじめて、子供のように声を上げて泣いた。


 頭が痛くなるほどに散々に泣いて、ようやく落ち着いた後、あたしは娘が乞うのに従って、寝台へと入った。濡れた服を着替えさせた後、もうすっかり冷めてしまったスープを、それでも美味しそうに飲んだアニーは、あたしの腕にしがみついて、一緒に寝ようと甘えて言ったのだ。
「寒くはない? ちゃんと暖かくして寝るのよ」
 伝わる体温はまだまだ熱くて、気掛かりではあったけれど、この子を失うかもしれないと恐れるほどではないということも解っていた。きちんと食事を取れるなら、ゆっくり休ませればそのうち良くなるだろう。あたしの言う通りに、大人しく目を閉じた娘の髪を、そっと指で梳いていると、不意に彼女が口を開いた。
「ママ」
「なに?」
「あのね……お歌、歌ってくれる?」
 寝転がったままこちらを見上げて、少し照れくさそうにしているアニーに、あたしは精一杯の笑顔で応えた。もう一度目を閉じるよう促して、緩やかな旋律を辿る。古い古い子守唄。
 泣きすぎて掠れた声は、自分の耳には決して快くは聞こえなかったけれど、娘は嬉しそうにあたしの側に身を寄せてくる。小さな身体の、確かな存在が伝わってくる。
 あの夜、この子の人生を奪ってしまった。あたしさえ手を放していれば、この子にこんな苦労を押し付けずに済んだ。解っていて、でもそれができなかったのは、この子のためを思ってたからじゃない。離れられないのは、あたしの方――守られているのは、ずっとずっとあたしの方だ。
 だから、あたしはこの子のものだ。身も心も、人生だって賭けてしまって構わない。そんなもので、あたしの過ちが埋め合わせられるとは思わないけれど、それでこの子と一緒にいられるのなら、惜しむものなんて一つもない。
 あたしのけちな運命の星が、たった一つだけ起こしてくれた奇跡。眠り込んだ子供の小さな手を握って、あたしはただ密かに祈った。どうか長く、この手を握っていられるように。

 いつか、あまねく人々が別れ行く、その日がくるまでは。

     *     *     *

「――ママ!」
 鋭い悲鳴のような声が、意識を震わせる。視界はひどく暗かった。冷たく澱んだ闇の塊が、胸にきつく圧し掛かっている。苦しかったけれど、もがくこともできない。身体が重くて、目がかすむ。
 はっきりしない世界の中で、それでも辛うじて見えるのは、こちらを覗き込んでいる誰かの顔だけだった。若い少女の顔。辛そうに表情を歪めて、今にも泣き出しそうに見える。慕わしい面影の、この子は誰だっただろう……。
「ママ、起きて……眠っちゃ駄目……。答えてよ……ねぇ」
 ――アニー。
 答えは自然に浮かんできた。たった今まで側にいた幼い子供とはかけ離れた姿、けれどその答えはあっさりと胸に落ちる。そう、確かにこの子はあたしの娘。もう子供じゃない、ちゃんと大きくなってくれた。もう駄々をこねたりしない、手を繋いで歩かなくても迷子になったりしない――けれど泣き顔はあの頃と変わらない、可愛い子のまま。
「……ママ……!」
 呼ぶ声が遠ざかる。その声を失いたくはないのだけれど、どうすることもできそうになかった。何か強大な力が、あたしを深い水底に引きずり込んでいく。身体は鉛になって、もうあたしのものじゃない。息ができない。苦しい。苦しい。
 ああ、でも。まだ沈んでしまうことはできない。もう少しだけ――この子に返すまでは。
「――え? 指輪……?」
 自分がなんと言ったのかは解らなかったけれど、何とかつなぎ止めている擦り切れた意識の中で、娘がそう言うのは聞こえた。そう、あの指輪。クリスがくれた、約束の証――この子が誰なのかを証立てる、唯一確かなもの。
 ――だから、手放さないで。
 この子はクリスの娘、貴族の――ああ、なんて名前だっただろう、思い出せない――お嬢様だ。こんな街じゃないところで、こんな貧しい暮らしじゃなくて、あたしとは違う、ちゃんとした人生を歩くことができる。
 本当は、最初からそうするべきだった。あの夜、クリスが死んでしまった夜に、あたしはこの子の人生を奪ってしまった。だから、返さなくちゃいけない。自分からは放せなかった手が、否応なく引き放されてしまう前に、せめてできる限りの償いをしなければ。
 ――ごめんね。
 あの日のことを、一日だって忘れたことはない。何度も何度も後悔した。あの選択は、あたしの身勝手。娘に辛い思いをさせて、苦労を強いたことを解っているから。
 ――なのに……それでも、一緒にいられて幸せだったなんて言ったら、あんたはどう思うかしら。
 答えはない。もう、声が聞こえない。感じたことのない静謐が、ひたひたと押し寄せてくる。どうなるんだろう、どこへ行くんだろう……ねえ、クリス、あなたはそこにいてくれる?
 ばらばらになって落ちていく。静謐の波にさらわれていく。手を握っていてほしい、離れずにいられるように。たとえ遠く離れても、ずっと近くにいられるように。
 どうか――ああ、どうか。

 ――愛しているわ。ずっと、いつまでも。
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