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● 仔犬騒動 ●

 季節外れの嵐が行き過ぎて、空は久しぶりの快晴だった。冬の名残を残す空気はまだ冷たいが、日差しはきらきらと輝き渡って、雨に濡れた木々の緑が眩しい。
 雨上がりの泥濘に落ちた枝葉を踏みながら、アレクシードは急いで庭を駆けていた。向かっているのは王宮の外れ、庭園の端にある小さな物置小屋である。人気がなく、薄暗く、麻袋やら手押し車やらが乱雑に詰め込まれているその小屋は、少年の秘密の場所なのだ。
 それにしても、昨晩の嵐は酷かった。朝、起きて外を見たアレクシードは、見慣れた景色が一変しているのに驚いた。日頃は整然としているはずの花壇は、風雨に折り取られた枝葉で埋め尽くされている。綺麗に刈り込まれていた植え込みには、強風の痕跡がくっきりと残っていた。低木は葉をなくし、中には根元から引っこ抜かれそうになっていた木さえあるほどだ。
 季節外れの嵐の被害に、大人たちはいつもより慌しく動き回っているらしい。いつもとは違う雰囲気を、最初はただ面白がってばかりいたアレクシードだが、しかしふと自分にも心配事があることを思い出した。
 ――あ、あそこ。
 あの、お気に入りの物置小屋は大丈夫だろうか。子供の目から見ても、決して丈夫そうには見えない作りなのだ。風が吹けば軋むし、飛び跳ねたりしたら床に穴が空きそうだ。果たして、あの小屋は昨日の嵐に耐えられただろうか。
 ――もしかしたら、飛んでいっちゃったかも。
 ありそうなことだ。昨夜、真っ暗な部屋に響いていたごうごうという音を思い出して、アレクシードはますます心配になった。せっかく、隣の木から屋根の上に飛び移る方法を見つけたばかりなのに。
 思いつけば、いても立ってもいられない。アレクシードは躊躇いなく部屋を抜け出した。最近になって彼のところにやってくるようになった学問の教師が、今日はまだ来ていないのはありがたかった。林檎の数を足したり、部屋中の物の名前を書いたりするより、あの小屋の方がずっと大事だ。
 庭園を横切って、未だ庭師の片付けの手が及んでいない場所へ辿り着く。王宮の建物の影に隠れて、見慣れた小屋の姿を発見したとき、アレクシードはほっと安堵の息をついた。どうやら物置は、倒壊しても、飛んでいってもいないらしい。
 だが、被害がなかったわけではなさそうだ。近づいてみて、アレクシードは物置小屋の重大な変化に気付いた。入り口の扉が外れそうになっているのだ。
 戸口に立って、中を見回す。薄暗くて様子は良く見えないが、澱んだ空気は湿った匂いがした。きっと、雨は容赦なく小屋の中に降り込んで、何もかもをびしょびしょにしてしまったに違いない。居心地のいい場所がすっかり台無しになったことにがっかりしながら、一歩中に踏み込んだアレクシードは、次の瞬間、思わず声を上げて飛び上がった。
「うわ!」
 足を、何かが撫でたのだ。思いがけない感触に、一瞬身体が竦む。驚きのあまり、ほとんどそれと意識しないまま後ずさったアレクシードは、慌てて足下を見やった。何かがそこにいる。何か、柔らかくて、音を立てて足に纏わりついてくる……小さな、毛むくじゃらの塊。
「…………」
 日の光の下まで出ても、それは離れて行かなかった。どころか、足の間をちょろちょろと動き回り、彼の靴に鼻先を押し当てている。アレクシードは目を瞬いて、ぴんと立った耳や、ふわふわ揺れる尻尾を見つめた。
 ――犬。
 それも仔犬だ。大きさは彼の腕にすっぽり収まるほどしかない。斑に茶色くて、酷く汚れているが、人懐こく寄ってくる仕草には、そんなことは気にならなくなるくらいの愛嬌があった。
 こんなに小さな犬を見るのは初めてだ。王宮には犬などいない。狩に使う猟犬は王城の外、狩場の近くで飼われているし、それにこの犬は猟犬ではなさそうだ。アレクシードは、狩をするときに野に放される犬たちを思い浮かべる。どの犬も毛並みが良くてがっしりしていて、獲物を追って矢のように走るものだ。こんな風に汚れて、落ち着きなく動き回ったりはしない。
「……どこから来たの?」
 とすれば、どこからか入り込んできたに違いない。子供だから、きっと迷子になったんだ、とアレクシードは思った。
「ここはお前の家じゃない。家に帰らなきゃ」
 しゃがみ込んで話し掛ける。が、仔犬は理解した風もなかった。尻尾を振りながら、彼の周りを嗅ぎ回っている。アレクシードは少しの間じっとそれを眺めていたが、ふと思いついて手を差し出してみた。
 思った通り、仔犬はすぐに駆け寄ってきたかと思うと、彼の手を舐める。その仕草があまりに執拗だったので、アレクシードは仔犬の求めるものを知った。
「……お腹、空いてる?」
 もちろん答えはない。しかしアレクシードは、自分の考えが正しいことを疑わなかった。仔犬の、汚れた毛がぺったりと張り付いている腹回りが随分痩せている。物置小屋の中にいては、食べるものなど見つからなかっただろう。
「ええと、ごめん、何も持ってない。でも、何か見つけてきてあげるよ」
 依然として鼻をくんくん言わせている仔犬に謝りながら、アレクシードは急いで立ち上がる。まずは食べ物だ。この子の家を探してやるのは、それからにしよう。
「待ってて」
 なおも足下に纏わりつきたがる仔犬にそう言って、アレクシードは踵を返す。何となく付いてこさせてはいけないような気がしたので、彼は仔犬をその場に残したまま、来た道を急いで戻り始めた。

     *   *   *

 おい、と肩を突つかれて、フラッドはそちらを振り向いた。見れば、むっつりした顔の少年が一人、部屋の入り口を指している。嫌そうな、というよりは、どういう顔をすればいいのか解らないといった体で彼に告げた。
「あれ、お前だろ」
 何とかしろよと言外に言われ、フラッドは『あれ』が何なのか悟った。示された場所には同輩の少年たちが何人かたむろしていて、その向こうから馴染みの声が聞こえてくる。周りの少年たちよりも幼い話し方の、呑気そうな子供の声。
「あー……そーみてーだなー。ありがと」
 やれやれ、というため息は胸の中だけに留めて、フラッドは雑談の席を立った。『あれ』が今時分、彼の許を訪れることは滅多にない。彼が『だいじなおべんきょ』をしているので、邪魔をしてはいけないと解っているのだ。それがやってきたとなると、何か問題でも起こしたのだろうか……。
「あ、なあ……」
 すると、それまで一緒に話をしていたうちの一人が声を上げる。躊躇いがちに扉の方を見やると、幾分声を落として言った。
「……お前、行かない方がいいんじゃないのか」
「へ?」
「これ以上、懐かれたらまずいだろ。その……あの、『殿下』に」
 友人が言い澱むのを聞いて、フラッドは、ああ、と合点する。小さく肩を竦めて、だが座り直すことはせずに応じた。
「別にどってことねーよ。まだちびだから、扱いも楽だし」
「そうじゃなくて。……揉めるぞ、きっと」
 心配そうなその声は、心底からの忠告なのだろう。フラッドにもそれが解らないわけではなかったが、結局軽く笑うだけで応えなかった。思わず零れた笑みは苦笑だ。
 ――実際、もう揉めてんだけどなー。
 彼の実家――彼が正式に騎士として取り立てられる歳になるまでの間、彼の身元に責任を負う役であるところのオルブレート伯爵家から、詰問の手紙が寄越されたのは半月ほど前のことだ。王太子付の近衛にするべく王城へ上げた養い子が、道を踏み誤りそうだという風聞を聞きつけたらしい。質すというよりは言いつける語調で、自分の務めを忘れるなと言ってきた。余計なこと――つまり、王家のいざこざに関わるなということだ。そして、その現れである妾腹の王子に。
 とりあえず書面だけは殊勝に、王太子殿下に誠心誠意お仕えしていますという旨を記して送り返したのが数日前。これでしばらくは平気だろうと、フラッドは考えていた。決して嘘を書いたわけではない。他の少年と変わらず、王家に仕えるに相応しい騎士となるべく、王城で日々を過ごしているのは確かなのだから。
 ただ、本当に仕える気があるのかどうかは、また別の話だ。別の話なのだから、何も馬鹿正直に伯父に報告する必要はないとフラッドは思っている。どうせ、いずれ解ることだ。はっきりと道が分かたれる、その日がきたら。
 つまりは『ばれるまで黙っていよう』という極めて不誠実な方針を改めて心に決めながら、フラッドは扉の側、場違いな声の主のところへ向かう。伯父の懸念の源、今では彼の同輩の少年たちもその素性を知るようになった黒髪の王子は、近くの少年たちに何事か話しかけているようだったが、フラッドの姿を見るとぱっと顔を輝かせた。
「あ、フラッド」
「あ、じゃねーよ。お前、どうしたんだよ」
 言いながら近付くフラッドを歓迎したのは、小さな来訪者ばかりではなかった。それまで子供に捕まって、何やら話を強いられていた様子の少年たちも、途端にほっとした表情で彼を振り返る。あとはお前が何とかしろと言わんばかりの眼差しを向けられて、フラッドは肩を竦める。完全に子守りは――この扱い辛い立場の子供の相手は、彼の役だと決まったらしい。
 子供の気が逸れたのをいいことに、少年たちはさっさと部屋の中へ逃げ出してしまう。その、いつにもましてそそくさとした立ち去り方に、フラッドは首を傾げたが、すぐに原因に思い至った。
「おい、アレク。お前何言ったんだよ」
 最近は呼び慣れた名前を呼ぶと、子供は彼を見上げる。前に一応『殿下』と呼んだら、物凄く変な顔をされたので、以降、本人の名乗った名前で呼ぶことにしているのだ。
 問われたアレクシードは、何のことか良く解らない様子できょとんとしたが、重ねて問うと悪びれずに白状した。
「お星さまのあみって、どうやって作るのかって」
「……何?」
 案の定、返ってきた答えはまるで意味不明だ。やっぱりな、と嘆息するフラッドにはお構いなく、アレクシードは期待溢れる眼差しで続ける。
「だって、おべんきょしてるんでしょ。フラッドも作れる? あみ」
「何だか良く解んねーけど、お前の『だって』の使い方がおかしいのだけは解った」
 ちなみに、あとでアレクシード本人と友人たちの話をよくよく聞いてみて解ったことだが、アレクシードの言っている『あみ』とは、夜空の星を捕るための網らしい。何の勉強をしているのかと問われた少年たちの一人が、たまたまその日習っていた天文のことを話したところ、アレクシードは空の星が、そこらの虫か何かのように捕まえられるのではないかと考えたようなのだ。
 アレクシードの話が一足飛びで、必要な情報が抜け落ちているきらいがあるのはいつものことだが、更にそこに非現実的な要素が加わっていると余計に訳が解らない。ようやく話が繋がったとき、フラッドは一頻り笑った後に、子供の説明能力の欠陥と夢見がちな世界観に一抹の不安を覚えたりしたのだが、このときはまだ、そこまでのことは解らなかった。ただ、何故他の少年たちが逃げ出したのか理解しただけだ。――たまの休み時間に、虫取り網を作れと言われれば、さぞ面倒くさいことだろう。
「今は駄目だ。欲しけりゃ、後で作ってやるから」
「ほんとに!?」
「ああ。……何、お前そんなこと言いにきたの?」
 いつもは訪ねて来ないようなときに来るから、何か変わったことでもあったのかと思っていたのだが、そういうこともなさそうだ。ほっとするのが半分、拍子抜けするのが半分のフラッドだったが、しかしそれは早合点であったらしい。フラッドに問われた瞬間、アレクシードは途端に何かを思い出したようで、やけに真面目な面持ちで言った。
「フラッド、お願いがあるんだ」
「え、網じゃねーの?」
「あみもだけど! あのね……お菓子、ちょうだい」
 最後の方は何故か声をひそめて言うので、フラッドは思わず吹き出しそうになった。まるで機密事項のように神妙に語り出す内容がそんなことだとは、咄嗟に予想がつかなかったのだ。しかしふと心づいて、フラッドは笑うのを止める。
「腹減ってんの? 朝飯は?」
 逆にそう訊き返したのは、以前の経験からのことだ。フラッドは、初めてこの子供と出会ったときのことを思い出した。悪戯か何かの罰として、食事を取り上げられたらしいアレクシードは、食べ物を探して庭園の木によじ登っていたのである。
 たとえ子供だろうと、いわくつきの出自だろうと、王家の王子が食事にありつけないなど言語道断な話ではあるが、その王子が、庭木の実だのその辺に落ちている食べ物だのを口に入れるようでは更にまずい。以来、別に何の義理もないのに、フラッドはこの子供の食糧事情を気にするようになってしまった。王城の大人は、この子供に作法を躾る前に、まず拾い食いから止めるべきではないのだろうか。
 とはいえ、半人前の彼に、王子の教育について口を挟む術があるはずはない。その辺にあるものを食うなとしつこく注意したり、ときには貰い物の菓子をやったりするくらいがせいぜいだ。しかしそれでも多少の効果はあったらしく、最近では、アレクシードは庭木に登るより先にフラッドの許にやってくるようになった。……フラッドの説教を理解してのことではなく、単に彼を『おやつ係』と認識しているだけかもしれないが、進歩は進歩だ。
「朝ごはん、食べたよ」
 彼の危惧など知らない様子で、アレクシードは元気にそう応えたが、次の瞬間、はっと息を飲む。フラッドを見上げると、不安そうな顔で問うた。
「あ……ごはん食べたら、お菓子はだめ?」
「いや、だめじゃねーけど」
 フラッドは思わず苦笑してしまう。やはり彼は『おやつ係』らしい。しかも、もし彼が駄目だと言えば、しょんぼり引き下がりそうなところを見ると、かなりの要職と言えそうだ。彼としてはそんな職についた覚えはないが、しかし放ってもおけない。
「解ったよ。来い、一緒に頼んでやっから」
 あいにく、今は食べ物の持ち合わせはない。城の厨房に行こうと言うと、アレクシードは少し当惑したようだった。
「……フラッドは、お菓子持ってない?」
「今日は持ってねえ。――大丈夫だよ、別にオレじゃなくても、食い物くらい誰でもくれるって」
 そうでなければならない。そうでなければならないということを、この子供は知らなくてはいけないのだ。フラッドが諭すようにそう言うと、アレクシードは怪訝な顔で彼を見上げたが、それでも差し出された手を取った。
「でも、お菓子をくれるの、フラッドだけだよ」
「そんなことねーよ。ためしに、今度誰かに頼んでみろよ。そーだなー……『王太子殿下にそうしろって言われた』とか何とか言って」
「兄上? 兄上は言ってないよ?」
「馬鹿、オレは王太子殿下の近衛騎士なんだから、オレの言うことはあの人が責任取るって決まりなんだよ」
「そうなの?」
「そーだよ。それが偉い人ってもんだ」
「そっかあ」
 責任を押し付けられた本人が聞いたなら顔をしかめそうなフラッドの言を、しかしアレクシードは疑いもしなかった。どころか、兄上はえらいんだね、などとにこにこしている。兄が褒められるのが、自慢でたまらないのだろう。
 幼い子供を適当に誤魔化したフラッドは、とりあえず厨房でもこの手で行くか、と考えながら、子供の手を引いて歩き出した。

     *   *   *

 どうもおかしい、と、彼は思った。何だか、変なのだ。確かに、現状は常ならぬものではあるけれども、それにしても『あれ』の態度は、どうにも妙なところがある。
 思いながら、ユーゼリクスは長卓の反対側を見やった。アダルシャン王国の王太子たる彼と夕食の席を共にする栄誉を与えられた『あれ』は、俯いて黙々と皿の上のものを弄っている。王城には珍しい黒髪の子供は、彼より四つ年下の異母弟である。
 普段は、ここで弟と顔を合わせることは、まずない。一応は同じ王宮に住んでいながら、彼らの生活は他人に近いのだ。食事時に限らず、生活の全てにわたって、彼らが表立って会う機会はほとんどない。どころか、相手が何をしているか、どこにいるのかさえ伝え聞くことはない。
 もっとも、それはユーゼリクスの側だけのことかもしれない。少なくとも、夕食時に弟の姿を見ることがないのは、誰かの配慮が働いている結果だろう。大体の場合において彼と同席している母――王妃マリエールが、生さぬ仲の王子をどう思っているかは、王城で知らぬ者のないことだからだ。
 その母が、今日はいない。王都の貴族の屋敷で開かれる宴に招かれて、王城にいない国王の名代として出かけているのだ。
 だからというわけでもなかろうが、食事に足を運んだユーゼリクスは、そこに普段は見かけない弟がいるのを知って多少驚いた。が、彼よりもむしろ周りの者たちが驚いていた様子からすると、何かの手違いなのだろう。
 もし母がいたならば、恐ろしく不興を買ったに違いない。だが、彼は母ではない。だから、急いで弟をどこかへ連れていこうとする召使を止めて、食事は一緒でいいと言いさえしたのだ。自分は母とは違う。存在するものから目を背けて、問題を追いやったつもりになっても、現実は変わりはしないのだから。
 ――だから、この弟の存在が基本的に鬱陶しいものだということは、また別の話なのだ。
 その鬱陶しい弟は、高さのある子供用の椅子に収まって、俯いて黙々と手を動かしている。騒々しいよりは静かな方がいいには違いないが、しかしユーゼリクスには、それが逆に目について仕方がなかった。いつもなら、彼の顔を見るなり嬉しそうに寄ってきて、頼みもしないのに何やかやと話しかけてくる弟が、今は彼と目も合わさずに黙りこくっているのだ。そういえば、と、ユーゼリクスは先刻のことを思い返した。一緒に食堂に来るように言ったとき、弟は変な顔をしなかったか。戸惑ったような……むしろ、当てが外れたような。
「…………」
 しかしそう思ってじっと眺めていると、アレクシードはふと顔を上げた。兄の視線に気づくと、どこか居心地の悪そうな様子になる。
「あ、兄上?」
 それまで格闘していた皿の上の料理を放り出し、ぴたりと手を止めて呼ぶ弟に、しかしユーゼリクスは応えなかった。思いきり顔を背けて無視しておく。別にどうだっていい、と彼は胸中で呟いた。こんな奴、気にかけたりはしないのだ。たとえ、どこか様子がおかしいとしても――今だって、怪訝そうというよりは、少しびくついたような表情で呼びかけられたりしたのだが、そんなことは自分には関係ない。
 そのまま黙っている兄に、やがてはアレクシードも返事を諦めたらしい。そのまま黙って食事を再開し、再び食卓には沈黙が落ちた。
 弟の注意が逸れた気配を確かめて、ユーゼリクスはもう一度、懸命に皿と向き合っているアレクシードの方を見やった。こいつのことなんて、別に関係ない。多少態度が不審だろうが、どうだっていいことだ。
 ――ただ……。
 弟の目の前の皿を見る。ついさっきまでそこにあったはずの料理が、いつの間にか消えている。籠に入っていたはずのパンも、気づけば跡形もない。
 彼が目を離したのは、ほんの少しの間だ。――全部を飲み込んでしまうには、どう考えても時間が足りないはずで。
「…………」
 しかし結局、ユーゼリクスは何も言わなかった。食事を終えた弟が、上着のポケットを膨らませたまま、一目散にどこかへ駆けていったのを、目を眇めて見送っただけだった。

     *   *   *

 手に持っている角灯の明かりが、足下をゆらゆらと照らす。夜半の風が梢を揺らし、ざわついている闇の中を、アレクシードは一人歩いていた。慣れた王城の庭園も、暗闇の中ではまるで違う場所のようだ。怖いとは思わないが、何だか少し不思議な感じだ。
 とはいえ、アレクシードは時間外れの散策を楽しんでいるわけではない。頼りない明かりと不確かな足下に、駆け出したいのを堪えながら、出来得る限り早足で歩く。急いで辿り着かなければならない。だいぶ遅くなってしまったから。
 庭園の端の物置小屋は、闇そのもののような漆黒の影だった。アレクシードは角灯を地面に置くと、小屋の扉に両手で取り付く。嵐の夜、一度外れそうになった扉は、その後誰かの手で直されたらしいが、随分と建てつけが悪くなって、渾身の力で押さなければ開かないのだ。
 ようやく開いた扉の隙間に、頭を突っ込む。しんと静まり返った闇に向かって、アレクシードは躊躇わずに呼んだ。
「いいよ! 出ておいで!」
 すると、不意に闇の奥で蠢く気配がした。ぱたぱたと軽い足音がして、白っぽい何かがぼんやりと動く。それが、機嫌良く左右に振られる尻尾だと解る頃には、仔犬は弾む足取りで扉の隙間から転がり出てきた。多分、ようやく外に出られて嬉しいのだ、とアレクシードは思い、次いでにっこり笑った。ちゃんと自分の言いつけを守って、昼間は小屋の隅で、人目に付かないよう大人しくしていたのだ。この犬は賢い犬だ。
「遅くなってごめん。お腹、空いただろ」
 言いながら、アレクシードは今夜の食糧を取り出す。パンに、肉の切り身が半分。スープは持ってこられそうになかったから、全部食べてしまったので、代わりに美味しいパイは丸々一個全部持ってきた。
 こうして、この仔犬と日々の食事を分け合うのが、ここ最近のアレクシードの習慣になっていた。食事のたびに、適当な食べ物を選んで、零れないように上手くパンに挟むのも慣れたものだ。幸い、これまで誰にも見咎められることはなかった。何か特別な行事でもない限り、いつも食事の席が彼だけなのは、この場合とても好都合だったのだ。
 ――今日は、違ったんだけど。
 しかし、今夜の夕食のことを思い出して、アレクシードはふと残念な気持ちになった。今日は珍しく、一人ではなかったのだ。しかも、その珍しい同席者が、普段は顔を合わせることも少ない異母兄となれば、普段ならこれ以上なく嬉しいことだっただろうに。
 なのに、今日は話もしなかった。どころか、兄の目を避けるようにさえ振舞ったのは、この仔犬の食糧を確保するためだ。もし、食卓から食べ物を持ち出そうとしているなどということが誰かにばれたら、どんなに怒られるか想像はつく。見つからないようにと懸命で、他のことまで気が回らなかった。
 ――でも、兄上なら……。
 考えを巡らせかけたアレクシードだが、そこで急かすような仔犬の鳴き声にはたと我に返った。ああ、と応えて、食べ物を地面に置く。ついでに、途中で汲んできた水を、厨房の裏でくすねた小さな皿に満たしてやった。
「ほら、食べていいよ」
 許しが出たのが解るのか、仔犬はその言葉を聞いてようやく餌に齧りつく。アレクシードは側に座り込み、仔犬が顔を地面につけたまま嬉しそうに尻尾を振る姿を、多少の羨望とともに眺めた。ここ最近、食事の半分は自分の腹に入らないから、正直に言えば空腹なのだ。
 だが、仔犬から餌を取り上げるわけにもいかない。アレクシードは頭を振って食べ物を頭から追い出すと、別のことを考えることにした。仔犬に語りかけるように、口に出してみる。
「……お前のこと、兄上に話せばよかったかなあ?」
 この小屋で仔犬を見つけてからというもの、アレクシードはそれを誰かに話そうとは一瞬も考えなかった。王宮には犬などいない。ということは、新たに受け入れることもないだろう。ここがそういう場所であると、彼は既に悟っていた。泥玉や石つぶてや錆の浮いたガラクタ、彼の大好きなものは大概、王宮の人々には嫌われるのである。捨ててきなさいだとか、元あったところに置いてきなさいと放り出されるのが関の山だ。
 けれど、きっと兄は違う。一緒に泥遊びをしたこともないし、的当てをしたこともないから、兄がそういうことを好むかどうかは解らない。だが、もし好まなかったとしても、兄はそれだけを理由にアレクシードを怒ったりはしないだろう。
 怒られずに説明できさえすれば、とアレクシードは思う。この犬はいい犬だから、王宮にいても人の迷惑になるようなことはしないはずだ。ちゃんと面倒をみるから、とお願いすれば、昼間ももう少し居心地のいい場所に置いてあげられるかもしれない。
「ここで、ずっとじっとしてるのなんて、飽きちゃうよな」
 前足で肉を押さえている仔犬に話しかける。仔犬の方は応じるでもなく、夢中になって肉片を食い千切ろうとしていたが、やがて不意に頭を上げた。耳をぴくりと動かし、尻尾がぴたりと止まる。
「? どうしたんだ?」
 何か食べられないものでもあったのかと思ったが、そうではなかった。一瞬遅れて、アレクシードも異変に気付く。慌てて振り返ると、闇の向こうに明かりが見えた。誰もいないはずの夜の庭園を、誰かがこちらへ近づいてくる。
 まずい、と思ったが、既に遅い。向こうは、彼の持ってきた角灯の明かりを確認しているに違いないのだ。思わず立ち上がり、近づく光を息を詰めて見守ったアレクシードは、やがてその正体を知ると目を瞬いた。
「……なるほど。こういうことか」
 やがて、二つの明かりが重なる場所へ現れたその人は、低くそう呟いた。星月の光と似た銀の髪を柔らかな灯火に輝かせ、夜の只中に現れたのは、たった今まで思い浮かべていたはずの――そして、決してこんなところにいるはずのない相手。
「――兄上!」


 近づいてきた明かりが、目の前で止まった。到底信じられないが、そこにいるのは確かに兄だった。時刻は夜、場所は人気のない王宮の外れ、そこに、普段は滅多に外へ出ないはずの異母兄が唐突にやってきたのだ。一体、何事だろう。
 驚いたアレクシードだが、そこでふと、更にその後ろにいる人影に気付いた。明かりを持って兄に従ってきたのは、彼も良く知る近衛騎士だったからだ。思わず見つめると、相手は少し首を傾げて見せたようだったが、しかしそれ以上の反応は見えなかった。アレクシードが何か言うより先に、ユーゼリクスが口を開いたからだ。
「それは?」
「え?」
「何で、そんなものがここにいる」
 唐突に言われて、アレクシードは一瞬面食らった。そんなもの、とはつまり、この仔犬のことだろう。兄の示すものを理解すると、アレクシードは足下から仔犬を抱え上げ、急いで答える。
「兄上、こいつ、迷子なんだよ」
 何故兄が現れたのかは解らないが、ちょうどいい機会だ。アレクシードは先日の、あの嵐の後のことを話した。朝、ここへ来てみたら、この犬がどこからか迷い込んでいたこと、親犬の姿が見えないこと、それからずっと自分が世話をしていること……。
「世話?」
 けれどそう言うと、兄は冷たい声で問い返す。暗がりの中でも、その表情が機嫌のいいものでないことははっきりと解った。アレクシードは慌てて言葉を継ぐ。
「ちゃんとやってるよ! いつも、ここに来てるんだ。食べ物も毎日、半分こにしてあげてる」
 自分が正しく仔犬の面倒を見ていることを伝えようとしたのだが、しかし兄の表情は少しも和らがなかった。どころか、ますます苛立ったように弟を睨みつける。
「それでこそこそしてたのか。この馬鹿」
「こそこそなんてしてないよ!」
「してただろう。疚しいところがないなら、どうしてこんなところに隠してる?」
 ユーゼリクスは、アレクシードの腕の中の仔犬を示してそう言い、アレクシードは思わず言葉に詰まった。
「……それは……だって、他のところに連れていったら、きっとみんなにだめって言われる」
「ふん、解ってるじゃないか」
 恐る恐る答えたアレクシードに、しかしユーゼリクスの言葉は容赦ない。抱えられている仔犬を冷たく睨んで、情の欠片もない口調で言ったのだ。
「捨ててこい」
「! 兄上!」
「野良犬なんか、ここに置いてどうするつもりだ。王宮は動物なんか飼わない」
 その声はあまりにも冷然としていて、アレクシードは思わず仔犬を抱える腕に力を込めた。息を呑んで、まじまじと兄の顔を見つめてしまう。
 ――兄上まで。
 もし誰かに見つかれば、そう言われるとは思っていた。王宮に、彼の望みを真剣に聞いてくれる者は少ない。犬一匹の命運など、王宮の大体の大人にとってはどうでもいいこと、余計な問題に違いない。きっと一顧だにせず放り出されると解っていたから、だから誰にも言わなかった。
 唯一、話そうかと考えたのは兄にだけだ。けれど……。
「……こいつは、元々ここにいたんだもん。どこにも捨てられないよ」
 ひどく暗い気持ちで、それでもアレクシードは精一杯の反論をする。誰かが同じようなことを言うと、想像はしていた。だが、まさか兄がそんな冷たいことを言うとは思っていなかったのだ。
「元々いたわけないだろうが。どこかから入り込んだんだ、追い出せ」
「でも、もうおれが拾ったんだよ!」
「拾うな! 誰がそんなことをしていいと言った」
「お願い、兄上! こいつは何も悪いことしないよ! おれも、ちゃんと面倒みるから!」
「何がちゃんとだ。できるわけない。餌一つまともにやれないくせに」
「やってるもん! おれと半分こにしてるもん!」
「そんなこと、いつまで続けられると思うんだ。言っておくが、これからはもう、今まで通りにはさせないからな」
 食卓から、どころか王宮から食べ物を持ち出せなくすると聞いて、アレクシードは言葉を詰まらせる。兄がそうすると言ったなら、必ずするだろう。父と義母を除いて、この王城で兄のすることに従わない者などないのだから。
「…………」
 思わず視線を向けたのは、目の前に立つ兄の背後だ。だが、いつもは何かと庇ってくれる近衛騎士は、困ったように肩を竦めてみせただけだ。ユーゼリクスは振り返らなかったが、弟の表情から察しはついたのだろう、アレクシードを睨んだままきっぱりと言った。
「無駄だ。――さあ、捨ててこい」
「兄上……」
 腕の中の仔犬が、窮地を察しているのかいないのか、顔を上げてアレクシードを見る。アレクシードはその場から動けなかった。どうして動くことができるだろう。この犬には、他に行くところはないのに。
「……だめだよ」
「何だと」
「捨てたりなんか、できないよ! おれが拾ったんだ、おれが面倒みるもん!」
「解らない奴だな! 野良犬を野良に戻すだけだ」
「いやだ!」
 弟が頑として動かない様子を見ると、ユーゼリクスはいよいよ不機嫌になる。苛立ちも露わにアレクシードに近づくと、思いがけない行動に出た。忌々しい仔犬を見やると、無造作な動きで掴み上げたのだ。
「!」
 首根っこを掴まれた仔犬が、悲鳴のような甲高い声で鳴く。あっという間に腕の中から仔犬を奪われたアレクシードは、愕然と兄を見やったが、ユーゼリクスは冷たい眼差しをくれるだけだった。
「お前が捨てないなら、わたしが捨てる」
 仔犬は苦しげにバタバタともがいているが、ユーゼリクスは少しも気に掛ける素振りはない。アレクシードは、ほんの僅かな希望さえ断たれたことを認めざるを得なかった。兄にとって、仔犬の運命などは砂粒にも等しい些事なのだ。要らないものを、捨ててしまう、ただそれだけのこと。
「――そいつは要らなくなんかない!」
 こんなにあっさり放り出されて、いいはずがない。今や、仔犬は彼の友達だった。食べ物を分けて、洗ってやって、一緒に遊んだ。大切にしていたのだ。庇って、守ってやるべき、大事な――。
「うるさい!」
 しかし、次の瞬間、アレクシードは未来永劫、その先の言葉を失った。大事なものを取り返すというよりは、縋るように伸ばされた弟の手を振り払って、ユーゼリクスはきつい声で言ったのだ。
「ごちゃごちゃ言うな。これ以上言ったら、お前も捨てるぞ!」
「――――」
 アレクシードは黙り込んだ。兄の言葉に従ったわけではない、声が出なかったのだ。
 声だけではない、ほんの身動ぎも、息すらできない。目の前が真っ暗になって、寒くもないのに体が震えた。理由は解らない――ただ、頭の中で、兄の声が響いているだけだ。
 ――お前も、捨てる。
 この壁の外に、ほとんど知らない王城の外に、追い出される。『家』から、どこか別の場所へ。いや、『家』ではないからだ。彼はずっと、ここに相応しい場所ではなかった。だから、捨てられてしまうのだ。
 要らないものを、捨ててしまう、ただそれだけのこと。
「…………」
 一瞬前までは言い争いの響いていた夜の庭園が、不意に静寂を取り戻した。誰も、何も言わない。たった今まで、アレクシードを叱っていたはずの兄も、何故かそれ以上は言わず、つられたように黙っているだけだ。
 その息詰まるような沈黙を破ったのは、揉め事のそもそもの原因だった。首を掴まれ、宙にぶら下げられている仔犬が、抗議の鳴き声を上げたからだ。
 その声を聞いてはじめて思い出したかのように、ユーゼリクスは仔犬を見やる。どうしたものか一瞬考えたようだったが、結局、側に従う近衛騎士の方にぽいと放り投げた。
「うわ、ちょっと殿下」
「それ持ってついてこい。――お前も、もう帰れ」
 後半は、立ち尽くす弟に向かって言うと、ユーゼリクスは踵を返す。冷たい声を残したまま、再びこちらを見もせず立ち去る兄の後ろ姿を、アレクシードは凍りついたように見送るしかなかった。
 仔犬を抱えた近衛騎士が、少し気遣わしげにちらりと振り返ったことにも、気付かないままだった。

     *   *   *

「あれは、しくじりましたねー」
 水で濡らした布を手に、仔犬の前足を拭いながら、フラッドはそう呟いた。泥まみれの足では、王宮の中を、それも王太子の居室の絨毯を歩かせるなどということができるわけがない。
 仔犬は、彼の手元に放り投げられた当初こそばたばたと暴れていたが、しばらく抱えたまま撫でてやったりしているうちに大人しくなった。今も、足を拭かれながら、落ち着かない様子ではあるがそれでも我慢強く待っている。
「……つーか、ほんとよく馴れてんなーこいつ。こりゃ、元々どっかで飼われてたんだな」
「しくじった?」
 独り言にかぶせる声は、この部屋の主のものだ。少し離れた場所に立つユーゼリクスは、仔犬に構う近衛騎士をじっと睨んだ。
「わたしが何をしくじったと言うんだ。王宮で犬なんか飼えるわけがないだろう。そのうち、誰かが気付くに決まってる」
 アレクシードの様子が不審であることは、フラッドも何となく気付いていた。いつも入り浸っているはずの剣術場にも姿が見えないし、何かというと立ち寄っていた彼のもとにも来なくなった。剣術場に行かないのは、大好きな剣術の師が王城を空けていていないせいもあるだろうが、それにしてもあの食い意地の張った子供のこと、菓子をせびりに来るくらいはありそうなものなのに。
 その異変の真相を突き止めたのは、アレクシードの兄であり、フラッドの仕えるべき主である目の前の王太子殿下である。夕食の後、随伴するべき他の近衛騎士たちを差し置いて、ユーゼリクスは本来非番であるはずのフラッドに随行を命じたのだ。こういうことは、ごく稀ではあるがはじめてではなく、悪気のない同僚は何が主の気を引いたのかと興味津々に尋ね、思うところのある連中は「さすがに大伯家の後ろ盾は違う」とよく解らない嫌味めいたことを言ってきたりしたが、フラッド本人には王太子の意図は明白だった。主が彼を伴うときは、必ずアレクシード絡みだ。
 そして今夜も例に漏れず、人遣いの荒い主はフラッドを否応なく呼び出すと、弟がどこへ行ったか捜せと顎で命令してきた。正しくは「飯も食わずにどこかほっつき歩いている馬鹿」を捜せという命令である。……いつからこの王子様は、こんなに口が悪くなってしまったのだろう、とフラッドは密かに思ったものだ。よもや、勢いでつい丁寧とは言い難い口を利いてしまう自分のせいではあるまい。まあ、天使のような見た目に反して元々の性格は乱暴だから、今更どうということもないだろうが。
「いや、まあ、犬のことはそれでいーんですけど。オレが言ってるのは別のことで」
 ねえ、と悪気ない顔で話を振れば、ユーゼリクスは心底忌々しそうな様子で顔を背けた。もちろん彼も、フラッドの言わんとしていることなど、当然に解っているのだ。
 ――お前も捨てるぞ。
「……馬鹿だ」
 やがて唸るような声で、ユーゼリクスは呟いた。
「何であそこで止まるんだ。犬や猫じゃあるまいし、そう簡単に捨てられるわけないだろう!」
「でもあれ、どー見ても本気にしてますよ」
 フラッドは、夜の庭園の隅に佇んでいた子供の姿を思い出す。こっそり飼っていた仔犬を奪われ、それでも必死で取り返そうとしていたアレクシードは、けれど兄の一言の前に、怯えたように固まって沈黙したのだった。ありふれた、他愛無い叱声。世の子供なら言われ慣れているはずの、けれど決して現実にはならないと心得ている一言。
「あんなの、本気にする奴があるか! 普通、そのくらい解るだろう! 何であいつはあんなに馬鹿なんだ」
「ま、普通はそーでしょーね……ところでそう仰いますけど、殿下は言われたことあるんですか」
「あるものか!」
「……ですよねー」
 ごもっともな答えを堂々と返されて、フラッドはため息をつく。母親である王妃に溺愛されていることを除いても、この国の世継ぎの王子に、「言うこときかないなら追い出すよ!」だの「わがまま言うなら、他所の子になっちゃいなさい!」だのと言える人間はいない。
 そんな定型の脅し文句を本気にする方もする方だが、おそらく、本気にされて一番驚いたのは、発言した当人だろうとフラッドは思った。他に代え難い存在である王太子殿下には、この種の言葉に差し迫った真実味を感じることなど決してないのだから。
「しかし、どうしたもんですかね。このまま放っとくのもアレだし……」
「放っとけ」
 ようやく仔犬の足を吹き終わって、立ち上がって言うフラッドに、ユーゼリクスの答えは簡潔かつ冷たいものだった。
「これでもう、つまらないことをしなくなるなら、いい薬だ」
「この世の終わりみたいな顔してましたけど。いーんですか?」
「いいも悪いもない。大体、こっちは叱ってるんだぞ」
 叱り文句というのは、勢いで信じさせてこそ効果を発揮するというものだ。あんまり相手が真に受けたからといって、いちいち掌を返していては意味がない、というユーゼリクスの主張はある意味もっともなので、フラッドもそれ以上敢えて主張はしなかった。本当のところは、ユーゼリクスが「あれは嘘だ」とか「悪かった」とか言うのが死ぬほど嫌なだけなのではと思うが、そこはまあ、言わぬが花だ。
「……だから、お前、それを見てろ」
 しかし、ユーゼリクスが続けてそう言ったので、フラッドは一瞬、きょとんとして主を見返した。
「それ?」
「それと言ったら、それだ。その、小汚い獣」
 ユーゼリクスの示す先にいるのは、泥を落とされた例の仔犬だ。絨毯の感触が珍しいのか、歩いたり駆けたりしているが、慣れない場所で警戒しているのか、フラッドからあまり離れない位置でちょろちょろしている。ユーゼリクスは『獣』と言ったが、稚い動きを見せる様は、どうにもその言葉には似つかわしくなかった。
「それがうろつかないように見張ってろ」
「見張ってろって……殿下は?」
「……それを追い払う、場所を探す」
 ユーゼリクスは低い声でそう答え、不本意そうに視線を背ける。いつまでもここに置いとく気はないんだからな、というのを聞いて、フラッドはようやく主の意図を理解した。
 ――捨てると言いきった野良の仔犬を、結局ここまで連れてきた、その理由は。
「あーあ! なるほどー。そりゃいいですね」
「言っておくが、王宮には絶対入れるつもりはないんだからな」
「いやね、犬猫と言っても、道端に捨てるのはどーかと思ってたんですよねー。良かったなーワン公」
「他に当てがなければ、道端だ。それに、そんなのを拾った覚えはない!」
 主の言を適当に聞き流しつつ、フラッドは足下に寄ってきた仔犬を抱き上げた。仔犬は特に暴れもせず、遊んでくれるのだろうかという顔で彼を見上げている。
「ま、そー言わず。こいつ、結構可愛いですよ。愛嬌あるっつーか」
「……獣なんか、興味ない」
 ユーゼリクスは不愛想に言ったが、抱き上げられた仔犬に無関心というわけでもないようだ。仔犬を見やる眼差しが、嫌悪というより、もっと別のものだとフラッドは気付いた。思えば先刻、弟から犬を取り上げたときも、結局すぐにフラッドの方に放り投げてしまったのは、別に乱暴な扱いをするつもりだったのではなく、多分、単に扱い方を知らなかっただけなのだろう。温室育ちの王子様、病がちで、王宮を出ることも少ない王太子には、仔犬と間近で接する機会などなかったはずだから。
「ちょっと、抱いてみますか?」
「何でそんなことしなきゃならないんだ。お前が見てろって言っただろう」
「じゃ、撫でてみてください。人懐こいし、大人しいもんですよー」
「…………」
 ユーゼリクスは反論しなかった。フラッドが差し出した仔犬を、じっと見つめる。年下のくせに、いつも呆れるほどに可愛げのない王太子は、珍しく躊躇う様子で突っ立っていたが、やがて意を決したように手を伸ばした。
 しかし、次の瞬間、その手はぴたりと止まった。それまで大人しかった仔犬がぴくりと耳を動かすと、急に威嚇の唸りを上げたのだ。
「あ、こら」
 小さいながら、今にも吠えかからんとする仔犬を、フラッドは急いで引き戻した。同時に、伸ばされかけた手も引っ込む。ユーゼリクスはそっぽを向くと、刺々しく言い捨てた。
「わたしが戻るまで、その馬鹿犬を勝手にさせるなよ! ちょっとでも余計なことしてみろ、行き先は道端だからな」
「あー……りょーかい」
 そのまま部屋を出ていく後ろ姿に、フラッドとしてはそう答えるよりない。
 主のいない部屋に残された近衛騎士は、手の中の仔犬を見やった。一瞬前の警戒ぶりはどこへやら、再び大人しくなった仔犬に思わず苦笑する。
「あーあ……お前、ほんと賢いなー」
 どうやら首根っこを掴まれたり、放り投げられたりしたことを、仔犬は忘れていなかったらしい。敵を追い払ったとでも思っているのか、機嫌良くぱたぱたと尻尾さえ振っている様子を見ながら、フラッドは言い聞かせるように呟いた。
「でも、あの人に襲いかかったりしたら駄目だぜ。あの人は、お前の恩人になるんだからな」

     *   *   *

 その夜は、これまでアレクシードの記憶にある中で、最も長い夜だった。だから、目を開けて辺りが明るかったときは、変な気分がしたものだ。眠ってしまったつもりはないのに、いつの間に時間が経ってしまったのだろう。
 ――助けなきゃ、いけなかったのに。
 兄は、あの仔犬を捨てると言った。アレクシードから取り上げて、どこかへ連れて行ってしまった。
 探さなければならない。もう一度兄の前へ行って、返してくれとお願いしなければならない。昨日の夜中、兄が仔犬を連れて行ってしまってからずっとそればかり考えているのに、しかしアレクシードはどうしてもそれを実行に移すことができないでいる。
だって、怖くて仕方がないのだ。兄が怒っていること――捨てられてしまうこと。
 そんなの、駄目なことだ、と思う。自分が怖いからと言って、他人を見捨ててはいけない。そのために強くならなければいけないのだと剣の師であるサーマイルは言うし、だからアレクシードもそうなりたいと思うのだけれど、あのときはどうしても身体が動かなかった。
 ――やっぱり、行かなきゃ。
 けれどそう決意しても、重苦しい気分は少しも晴れない。後ろ向きな気分そのままに、寝台を降りてぐずぐずと着替えていたアレクシードだが、そこで常ならぬことが起こった。部屋の扉を叩いたのは、彼に朝の支度をさせる顔馴染みの侍女の誰でもなかったのだ。
「あ、なーんだ、もう起きてんのか。せっかく脅かし方考えてきたのに」
 アレクシードの返事も聞かないうちから勝手に扉を開けて入ってきたのは、兄の近衛騎士だった。いつもなら、彼がここに現れることなどない。驚くアレクシードだったが、しかしフラッドが告げた来意を聞くと、頭が真っ白になった。
「朝飯を食ったら、一緒に来いよ。お前を連れてこいって言われてんだよ、王太子殿下に」
 フラッドはごくあっけらかんとした口調で、何気なくそう言ったが、聞いた方はそれどころではない。手に付かない朝食もそこそこに、フラッドの後について王宮の廊下を歩きながら、アレクシードは懸命に不安を押し殺そうと努めた。もちろん、兄に会いに行こうと思ってはいたのだ。あの仔犬を無事返してもらわなければならない。だが、兄の方から呼びつけられるような用事は、何も思い当たらない。
 ――いや、一つしか、思い当たらない。
 だが、その努力も長くは続かない。廊下を抜けて王宮を出た先にあるものを見て、アレクシードは思わず息を飲む。
 ――まさか。
「……馬車……」
「あれ、まだ来てねーし」
 立ち竦むアレクシードの隣で、フラッドは軽く不満めいた様子で呟く。しかしすぐに諦めたらしく肩を竦めると、アレクシードを振り向いて言った。
「ま、いっか。アレク、お前これ乗って待ってて」
「え!」
 瞬間、鼓動が大きく胸を打つ。今まで抑えてきた恐ろしい考えが、堰を切ったように脳裏に広がって、アレクシードは泣きたくなった。ああ、そうだ、やっぱりそうなんだ。
 ――捨てられる。
 昨日の今日で、兄が自分を呼ぶならば、理由はそれしかない。思えばこれまで、アレクシードが兄を見つけてついて回ることはあっても、兄が彼を呼ぶことなどなかった。まして自分の近衛騎士まで差し向けて、彼を連れ出すことなど考えられない。
 きっと、昨日のことがあったからだ。言うことを大人しく聞かなかったから、兄はもう、彼のことが要らないのだ。
 思わず、目の前の馬車から身を引く。怪訝な顔をするフラッドに、アレクシードは小さな声で何とか言った。
「……い、いやだ」
「へ?」
「いやだ。乗りたくない」
「あー、そりゃお前が、馬の方がいいのは知ってるけどさ。でもほら、あの人が来るっつーから……」
 そこまで言いかけて、フラッドはふと言葉を切る。アレクシードから視線を逸らすと、王宮の方を見やった。ついさっき、彼ら二人が出てきた場所から、よく知った少年の姿が現れたのだ。馬車の前に佇む二人に気付いていないはずはないのに、少しも急ぐ素振りを見せずに悠然と歩いてきた相手は、やがて馬車の前に辿り着くと、いかにも不満そうに言った。
「お前たち、何をぼんやり突っ立っているんだ。さっさと乗れ」
「うっわそれ、一番遅れてきた人がいきなり言う台詞ですか」
「お前たちが早すぎるだけだ。母上と他の連中を追い払うのは暇がかかる。それに時間がない、急げ」
「あーはいはい。了解了解……」
 態度の大きい遅刻者に、しかしそれ以上何を言う気にもならなかったらしく、フラッドはあっさり踵を返すと、御者台へ姿を消してしまう。残されたアレクシードに、ユーゼリクスは愛想の欠片もない声で命じた。
「お前もだ。乗れ」
「兄上……あの」
「時間がないって言っただろう。聞こえなかったのか」
 言うなり、兄はぐいとアレクシードの腕を掴んだ。案山子のように立っていたアレクシードに、抗う力はない。兄の冷たい眼差しに気押され、半ば引きずるように馬車に乗せられ――。
 そしてアレクシードの目の前に、ついに扉は閉ざされた。


 馬車の小さな窓から見える景色が、緩やかに流れていく。それは決して速くはなかったが、アレクシードにとっては絶望的な眺めだった。視界から消えるものの分だけ、王城が遠ざかるのだ。
 ――どこに行くんだろう。
 だが、それを知っているはずの同乗者は、馬車が動き出してからただの一言も口を開かない。隣に座るユーゼリクスは、少しも弟の方を見ることなく、黙って窓の外を眺めているだけだ。侵し難い沈黙の壁の前に、アレクシードもまた口を閉ざしているよりない。
 兄は怒っているのだろうか。それはそうだろう。言うことを聞かない弟を、どこかに捨ててしまうほど嫌いなのだ。
 胸の痛みが、次第に身体の不快感に変わる。アレクシードは、音を立てないように深い息をついた。窓の外を王城の城壁が流れていくのを見たらますます苦しくなって、アレクシードはついに目を閉じてしまう。馬車は王城を出てしまった、帰る道も解らない――気分が悪い、吐きそうだ……。
「おい」
 しかしそう思って身体を固くしていると、不意に声をかけられる。気付けば、さっきまではちらと振り向きもしなかった兄が、いつの間にか薄蒼の瞳をじっと彼の上に定めている。
「どうしたんだ。――気分、悪いのか?」
 その声は淡々としていたが、特に怒りの気配は感じられない。アレクシードが小さく頷くと、兄は少し意外そうな様子で言った。
「何だ、酔ったのか。……ふうん、お前でも、馬車に酔ったりするんだな」
「よう……?」
「馬車とか、揺れるものに乗ると、気分が悪くなったりするんだ。窓の外見てろ。揺れてるって、考えたら駄目だ」
 やけに自信たっぷりに兄は言うが、アレクシードの方はそうもいかない。こんな経験ははじめてだ。兄の言葉で馬車の揺れに気付いてしまうと、何故だかますます気分が悪くなって、結局アレクシードは俯いて口を閉ざした。苦しさに目を瞑って、拳をきつく握りしめたとき。
「……もう、仕方のないやつだな」
 ふと、背中に手が触れる。撫で擦られる感触に被さって、ため息混じりの声が聞こえた。
「もうすぐ着くんだから、我慢しろ。馬車を降りたら、そんなのすぐに治るんだ」
 うんざりした口調、けれど背に感じる手は心地良くて、アレクシードはすっかりわけが解らなくなってしまった。兄は怒っているだろう。けれど、何だか、優しくされているような気もするのだ……。
 だが結局、どちらなのか結論は出なかった。それから程なくして、馬車が止まったのだ。
 見れば、窓の外には見慣れたものは一つもなかった。見えるのは、小道を挟んで両側に続く並木の列。木々の向こうに見えるのは、明るい緑の草地ばかり。家も、街も……人影も、ない。
「……あれ、どーかしましたか?」
 馬車の扉を開けたフラッドは、さっさと馬車から下りてくる兄王子と、元気のない様子でようやく地面に足をつけた弟王子を見比べて怪訝な顔をする。どうもしない、と、ユーゼリクスが即座に答えた。
「そいつが、馬車に酔っただけだ」
「え!? アレクが、ですか? 殿下じゃなくて?」
「……余計な世話だ」
 フラッドの問いに、怒りの気配を滲ませた言葉を返すと、ユーゼリクスはそのままどこかへ歩き出す。聞いていたアレクシードの方が身を竦ませてしまう一方で、機嫌を損ねた本人は一向に気にする様子はなかった。アレクシードに向き直ると、ひょいと顔を覗き込む。
「馬車に酔ったって? どっか具合でも悪ぃの?」
 額に手を当てられて訊かれたが、アレクシードは聞いていなかった。辺りを見回すが、やっぱり知らない場所だ。王城の影も見えない――どのくらい離れているのかも、解らない。
「……ここに、捨てるの?」
 もしここで放り出されたら、どうしていいか解らない。泣きそうになって思わずそう尋ねると、フラッドはきょとんと彼を見た。
「フラッドも、行っちゃうの? もう、帰っちゃだめなの?」
「? 待て、お前の言うことはわけ解んねーんだよ。オレがどこに行くって?」
「兄上と、一緒に行っちゃう」
「そりゃー行くけど、お前も行くんだよ。ほら」
「あ、兄上は、おれのこと、捨てちゃうんだよ。兄上の言うこと、聞かなかったから……」
 だから、こんな見知らぬ場所へ彼を連れてきたに違いない。どこにも行きたくない、もう帰りたいと訴えるアレクシードに、フラッドは唖然とした様子で声を上げた。
「……ちょっと待て。お前、その話、まだ続いてたのかよ!」
「だって、昨日、兄上が」
「あーあーあー、そーだよな。お前的にはもちろんそーだよな! ああ解った全部解った」
 言うなり、その場にがっくりとしゃがみ込んでしまったフラッドを見て、今度はアレクシードがきょとんとする番だ。フラッドは少しの間黙ってため息をついていたが、やがて顔を上げると、諭すような口調で言った。
「……あのな、そのことはもー忘れろ。ありゃ事故だ。何でもないんだ。お前もいちいち真に受けんな。キリがねーから」
「でも、兄上が」
「だから、何でもねーんだって。あの人だって、本気でそんなこと言うわけねー……て、説得力ねーか。とにかく、心配すんな、ちゃんと後で城には帰るって。ここに来たのは……」
「――何ぐずぐずしてるんだ。さっさと来い」
 フラッドの言葉に割り込むように、遠くから声がする。馬車の前から動かない二人の様子に構いもせず、ユーゼリクスはそれだけ言うと、再び踵を返して一人でさっさと歩き出した。彼らがついてこないなどということは、考えもしていないらしい。
「あーもー、ほんと、あの人は……」
 その後ろ姿に、フラッドは何やら呆れ果てたようにぼやいたが、すぐに諦めたらしい。アレクシードに向かって、行こうと促した。
「突っ立ってても、しょーがねーし。大丈夫だって、お前を置いて帰ったりしねーよ。あ、そーだ、オレが背負って行ってやるから」
 まだ気分が悪いんだろ、と言われて、アレクシードは返事に詰まった。本当は、もうあまり気分は悪くない。兄の言ったとおり、馬車を降りて外の空気を吸ったら良くなった。少なくとも、一人で歩けないほどではない。だから、ちゃんとそう言うべきだったのだが。
「……うん」
 けれど、口をついて出たのは思いがけない嘘だ。瞬間、疚しい気持ちでいっぱいになり、アレクシードは顔が火照るのを感じた。一体、何だって自分はこんなことを言っているのだろう?
 だが、フラッドは彼の言葉を疑ってなどいないようだ。そっか、と応じると、当たり前のように手を差し出す。誘われるままにアレクシードがその手を取ると、ぐっと身体が引き上げられた。いつもより、少し目線が高くなる。
 歩き出すフラッドの背中にしがみついて、アレクシードはほっとため息をついた。草原を行く風が、そっと頬を撫でていく。穏やかな光、微かに香る草の匂いに、アレクシードははじめてここが随分と気持ちのいい場所であることを知った。ついさっきまでは、辺りを眺めることさえ嫌だったのに。
 やがて、前を歩いていた兄に追いついた。ユーゼリクスは、弟が近衛騎士に背負われているのを見て少し歩調を落としたが、やがて妙に明るい声で言った。
「何だ、まだ酔ってるのか。お前は馬に乗れるのに、馬車になるとてんで駄目なんだな」
「ご、ごめんなさい……」
「や、それ誤解ですから。こいつがてんで弱いのは、馬車じゃないですから」
「? どういうことだ」
「あとでじっくり説明しますとも! つかその口の悪いの、止めろとは言いませんが手加減してください」
「何だと」
「あ、見えてきた。あれですかねー」
 ユーゼリクスが不機嫌に顔をしかめるのを無視して、フラッドが前方を指し示す。アレクシードもつられてそちらを見ると、何やら柵のようなものがあった。さっきまで、自分の足で地面に立っていたときには見えなかったものだ。柵の遥か向こうには、小屋らしきものも見える。
 その柵の側まで来て、一行は足を止めた。フラッドの背中から下ろされて、アレクシードは目を瞬く。こんなところに何の用があるのか、想像もつかなかった。そもそもここは、一体何をするところなのだろう?
「もうすぐだ」
 恐る恐る問うたアレクシードに、ユーゼリクスはそう答えた。
「見てろ、直に出てくる。――お前の、一番見たがるものが」
 ますます、何のことだか解らない。アレクシードは首を傾げたが、しかしそれ以上問う必要はなかった。
 遠く、小屋の方から、何か聞こえてくる。と、小屋の扉が開けられて、動くものが飛び出してきた。俊敏に、けれど秩序だった動きで、一斉に餌箱へ向かう――犬だ。
「ここは、猟場の端っこだ」
 その光景をじっと見ているアレクシードに、フラッドが小声で耳打ちした。
「あれは全部、陛下の猟犬だ。見たことあんだろ? 猟に使えるように、ここで飼って、訓練してるってわけだ」
 アレクシードは頷いた。狩猟好きの父王に、以前、狩場に連れて行ってもらったことがあるのだ。獲物を見つけ、追い詰めるのは猟犬の仕事で、どの犬も皆強く賢そうに見えたものだ。もっとも、アレクシードは幼すぎて、獲物を仕留める際に大人たちの仲間に入れてもらうことはできなかったから、その活躍を良く知っているとは言えないのだが。
 ともあれ、犬たちは颯爽と持ち場につく。おそらく、指示を与える人間がどこかにいるのだろうが、餌箱の前に従順に並ぶ様はまさにそういう表現がぴったりだ。アレクシードは感嘆して眺めていたが、そのときふと、あるものに気がついた。小屋から出てくる犬たちの中でも、最後の方に出てきた群れの中に、一匹だけ目立つ犬がいる。他の犬のように機敏には動けず、周りの様子を見て何とか行動しているらしい、真っ白くて小さな――。
「あいつ……!」
 それは、確かにあの犬だ。王宮の外れで彼が面倒を見ていた――そして昨夜、捨てられてしまったはずの仔犬。
 アレクシードは思わず隣の兄を見上げる。あの犬がここにいるなら、それは仔犬を連れ去った兄のしたことに違いないのだ。
「……あれは、猟犬になるんだ」
 弟の視線に気付いているのかいないのか、ユーゼリクスは猟犬の訓練を遠く眺めやりながら、独り言のように言った。
「野良犬だから血統は知れないが、仔犬だから、今から教え込めばものになるかもしれないそうだ。もしそうなれば、きっと父上がお喜びになるだろう。……役に立つなら、別に捨てなくたっていいんだ」
 ユーゼリクスの口調からは、それを喜んでいるような気配はどこにも窺えなかったが、アレクシードははっきりと理解していた。兄は、あの犬を捨てなかった。どころか、相応しい居場所を見つけてくれたのだ。必要とされる場所、役に立つことができる場所――ここにいてもいいと許される場所を。
「……もう帰るぞ」
 だが、その兄は、これでもう用は済んだとばかりに踵を返しかける。アレクシードは慌てて呼び止めた。
「兄上! あの、もっと側に行ってみてもいい?」
「駄目だ。猟犬にするって言っただろう。ちゃんと躾けなきゃならないんだ。お前が行って甘やかしたら、ろくなことにならない」
「…………」
「……もうしばらく経ってから、行ってみろ」
 言うだけ言うと、ユーゼリクスは今度こそ背を向けて歩き出した。アレクシードは急いでその後を追う。追いついた兄の隣を歩きながら、勢い良く礼を言った。
「ありがとう、兄上! あいつのこと、捨てないでくれて」
「役に立つかもしれないから、取っておいただけだ。もしあの馬鹿犬が、使えないと解ったら、そのときは本当に捨てるからな」
「あいつは馬鹿なんかじゃないよ、とっても賢いんだ。きっと、ちゃんとやれるよ」
 アレクシードの言葉を信じているのかいないのか、ユーゼリクスはふんと鼻を鳴らしただけだ。愛想のない兄の態度も、しかしアレクシードは気にならなかった。信じているからだ。あの仔犬が上手くやることも、兄があの犬を捨てないことも、そして――。
「兄上、あのね」
 思わず、手を伸ばす。振り向きもしない兄の手を掴んで、アレクシードは続けた。
「おれも、頑張るよ。あいつが頑張ってるみたいに、いい子になるようにするんだ。……兄上が、あいつを助けてくれたから」
 ――きっと、兄は彼のことも捨てないだろう。役に立つと解れば。価値さえ、認めてもらえれば。
「今度は、おれが兄上を助けるから」
 胸のつかえが、するりと落ちた気がする。これでいいのだと解って、アレクシードは心から安堵した。ここが、自分の場所なのだ。
 ――ここにいてもいいと、許される場所。
「百年早い」
 弟の決意表明に、ユーゼリクスの反応はにべもない。しかし、そんな風に一蹴されても、アレクシードは全然気にならなかった。
 つないだ手が、握り返される。――まるで、彼の立つ場所を、固く繋ぎ止めるかのように。


 先刻までの様子とは打って変わって、何やら言葉を交わしながら歩く幼い兄弟の後ろを歩きながら、フラッドはあきれたものやら感心したものやら判断をつけかねていた。ついさっきまでの、気まずそうな雰囲気はどこへ行ったのか。特にアレクシードの方は、あれほど散々脅かされていた割に、そんなことはもうすっかり忘れてしまっているらしい。あんまり物覚えの良くない子なのだとしても、本当にそれでいいのだろうか。
 それとも、兄弟とは元々こんなものなのだろうか。一人っ子に生まれたフラッドには、良く解らない。実際は従兄であるところの義兄たちとも、そんなに親しく付き合ったわけではなかったし。
 しかしそれを言ったら、目の前の二人だって、血のつながりは半分だけだ。しかも、世の一般的な見地から正しく兄弟扱いされているとも言い難い。血縁でも、環境でもないとしたら、この光景は何故なのだ?
「……わっかんねえなあ」
 思わず小声で呟きながら、しかしフラッドはそれ以上考えるのを止めた。何故なんて、きっと考えても無駄だ。多分、こいつらは最初からこうで――そしてこの先も、こうなんだろう。
 だから、考える代わりに小さく苦笑を浮かべるに留めておく。――手をつないで、同じ速さで並んで歩く二人のどちらも、彼は決して、嫌いではなかったから。
BACK
■すみません。だらだら書きすぎました。そして区切るポイントが見出せなかったので思い切って一括全掲。