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● 最後の贈り物 ●

夜、私の寝室の扉を叩いたのは、枕を抱えた小さな影だった。

「……そういうわけでな、今夜は、あの部屋では寝られぬのじゃ」
 予期せぬ来訪者はそう言って、様子を窺うように私を見上げる。大きな瞳、稚い仕草は、親の欲目だろうが本当に可愛らしくて、何を言われても思わず笑顔で頷いてしまいそうになる。実際、我が夫、この娘の父親なら、躊躇うことなくそうするに決まっている。話も聞かないうちから寝室に入れ、何でもこの子の言う通りにするだろう。
 しかし、私は夫ではない。だから、彼女の何か言いたげな気配には気付きもしないように、平然と言ってやる。
「そうか、それは災難であったな」
 何でも、ちょっとした事故で、部屋を掃除していた侍女が、寝台の上に水差しを落としてしまったのだそうだ。水浸しになった寝台では寝ることができないと、この子は言うのだが。
「仕方のないこと、どこか客間で休むが良い。ああ、せっかくであるから、どこでもそなたの好きな部屋を使うても良いぞ。何か言われたら、皇妃が許すと申し伝えよ。それではな、ユティ。母はもう眠い」
「ああ、母上!」
 背を向けると、背後で哀れっぽい声が上がる。ぱたぱたと足音を立てて、ユスティニアは部屋に入ると、慌てて私の前に回り込んだ。
「ほ、他の部屋は駄目なのじゃ母上。他の者には、わたしは母上のところへ参ると申してきたゆえに」
「さようか。では、私の側付きの者に案内させようかの」
「い、いやいいっ! そのようにお手を煩わせるに及ばぬっ。そ、そこの長椅子ででも構わぬから……!」
 寝室の端に置かれた長椅子を見やりながら、ユスティニアは必死の様子だった。放っておけば、本当にその言葉を実行しそうな勢いだ。もちろん、そんなことをさせるつもりはないので、私はこの辺で折れてやることにする。
「おや、その長椅子には、東方の絹が張っておるのでな。そなたに涎を垂らして眠られたりしては、まこと勿体ない。こちらへ参れ、ユティ。……今夜だけじゃぞ」
 念を押しながら寝台へ招くと、ユスティニアは途端にほっとした顔になった。私の寝台に上がり込むと、私の枕を勝手にずらして、空いた空間に自分の枕を設置したりしている。図々しいことこの上ないが、思わず頬が緩んでしまうのは、その仕草が記憶にあるものと少しも変わらなかったからだ。三年近く前、この子が皇宮を出ていったとき――私の手を離れて、私の見も知らぬ国へと旅立ったあのときから。
 しかし考えてみれば、それだけの月日が経っても、変わらないというのは妙な話だ。ここを後にしたとき、十になったばかりだった娘は、今では十二になる。今も子供には違いないが……この年頃には、決して少なくない時間が流れたはずなのだが。
「……それにしても、そなた、まだ一人で寝られぬのか」
 思わずそう呟くと、寝台に潜り込もうとしていたユスティニアはぴたりと動きを止めた。ぱっと起き上がると、不本意そうに反論する。
「そんなことない! いつも、ちゃんと自分の部屋で寝ておるではないか!」
「ああ、それは感心なことじゃ。なればこの母の許より、客間でも行ってのんびり休む方がよかろうと思うがの。なに、探せば、死人の出ておらぬ部屋の一つや二つ、見つかるであろうに」
 何故娘が、皇宮の他の部屋へ行きたがらないのかは知っている。最初に作られて数百年、この建物は幾多の政変や謀略の舞台となったが、その種の出来事を悪趣味に改変した与太話を耳にしてからというもの、気味が悪くて仕方がないらしい。自分の部屋や、生活する場所の辺りは我慢ができるようだが、普段は使われない来客用の部屋などは、家族のいるところから遠く離れているものだから、尚更嫌なのだろう。
「しっ、死人などはっ……」
 ユスティニアは平静を装うと努力しているようだったが、落ち着きなく辺りを見回す仕草が、それを裏切っている。私はついに堪え切れずに笑ってしまった。
「ああ、ああ、もう良い。では今宵は、母がそなたの夢守をして進ぜよう」
 我ながら、あまり良くないことだとは思うのだが、どうも私はこの娘を甘やかしてしまっているのではないかと思うことがある。他の子供たちと歳が離れて、遅くにできた子だからというのももちろんある。けれど最大の原因は、その遅くにできた子が、一番早く私の許を去ってしまうことになったからだろう。
 既にこの子は、私の娘というだけの存在ではない。異国へ――西に国境を接するアダルシャン王国の王族の許へ嫁いだ身なのだ。
 カストリア皇家の姫として生まれた以上、異国へ嫁ぐことくらいは、当然あり得る運命だ。他の娘が生まれたときと同様、この子が生まれたときから、もちろん私はそのつもりでいた。子供たちにはできる限り望む道を選ばせたいと夫は言うが、現実的には――女の子は特に――不可能に近い。もちろん、子煩悩な夫は白を黒と言い張ってでも無理を通してしまうことだろうが、その混乱を避けるためにも、せめて子供たちには、早いうちから道理を教えておかなければならない。
 けれど、そう考えていた私でも、このユスティニアの結婚については、些かの動揺もしなかったと言えば嘘になる。一つには、この子が花嫁としてあまりに幼年であったこと、そしてもう一つは……。
「……そうじゃ、母上」
 寝台に入ろうとすると、先に寝転がっていた娘が、上掛けから頭だけ出して私を呼ぶ。何事かと問い返すと、ちょっと言い澱むような気配を見せたが、それでも私を見上げて、意を決したようだった。
「あの……また、『お話』をして下さらぬか? 今度は、わたしが聞いたことのない話」
 娘の言う『お話』とは、昔から私が、子供が寝付くまでにしていた御伽噺やら他愛ない昔話やらの寝物語ことだ。自分の子供たちには、どの子にも同じようにそうしてきたが、この習慣を一番喜んだ子供はこのユスティニアだった。一番上の兄はまるで義務のように聞いていたし、続く姉たちは話しはじめるや否や眠ってしまって、最後まで聞いたことがなかったのに、末の妹のこの娘だけは、何度でも飽きもせずに同じ話をせがんだものだ。
 思い出せば微笑ましい記憶、しかし今はそれと同時に、少しばかり不安を感じずにはおれない。歳幼いとはいえ、この娘は嫁いだ女なのだ。一人前に扱われるはずはもちろんないけれど、それでも相応の振る舞いを求められることもあっただろうに。
「……まったく、そなたは」
 思わずため息をついてしまう。もしユスティニアが、ただの『私の娘』であったなら、如何様にでも甘やかせるだろう。しかしもはや、それが許される立場ではないのだ。大人のようには振る舞えなくとも、いつまでも甘えたがるような癖はやはり正さねばならないだろう。
「いつまで、そのようなことを申しておるつもりじゃ? もう小さな子供でもあるまいに」
「わたしは子供ではない!」
 どう見ても子供の娘は、むっとした顔で反論してくる。まあ、その気概があるのは、悪いことではない。
「そうか? ならばユティ、私の寝物語は、もうそなたには必要のないものであろう? 眠るくらい、一人で眠れねばの」
 ならばその言葉通り、少し大人になってもらわなければ。本当にこの子はこんなことで、これまでどうやって異国での生活を過ごしてきたのだろうと私は思ったが、その答えはすぐに知れた。ユスティニアは恥じ入る様子もなく、必要あるとも、と言い切ったのだ。
「したが、わたしのためではないぞ。アレクに話してやらねばならぬのじゃ」
 娘の口から飛び出した耳慣れぬ響きが、誰の名なのかはすぐに思い至った。アレク――おそらく、アレクシードの意であろう。隣国アダルシャンの王弟、幼いユスティニアの嫁した、まさにその相手だ。
 ――アダルシャンの、黒い悪魔。
 ユスティニアの結婚に、彼女自身の幼さよりもまだ大きな不安として影を落としたのが、夫となる人物の来歴と評判だった。そもそもその男が、軍を率いて帝国の国境を破ったりしたものだから、私たちはユスティニアを手放さなければならなくなってしまったのだ。この皇宮に聞こえるその男の噂は、まったく酷いものだった。辺境の蛮族、殺戮を好み、敵と見れば惨たらしいやり方で血を流す、非道の悪魔。
 もちろん、それは真実ではないだろう。敵の将軍が、この国の人々によく言われるはずがないのだから。しかしそうは思ってはいても、その悪評は、娘を嫁がせる親にはあまりにも残酷に聞こえたものだ。まともな男なら、妻に――それも、子供に――直接、乱暴な真似はしないだろう。しかしそんな荒っぽい男に、誰もが恭しい態度で接してくるこの皇宮しか知らない娘が、果たして耐えられるものだろうか。
「アレクはな、全然まともな『お話』を知らぬのじゃ。だから、夜寝るときは、わたしが『お話』をしてやるよりなかろ」
 そう思っていたものだから、ユスティニアがそう言うのを聞いたとき、私は一瞬、二の句が継げなくなった。娘はさも当然のような顔をしているが……一体何を言っているのか。
「……『お話』を? 寝るときに?」
「そうじゃ、母上がして下さる通りに」
「ユティ、そなたが?」
「うむ。わたしは上手にできるぞ。アレクは面白いと言うし」
「……さようか」
「でも、そんなの当たり前なのじゃ。だって、アレクの知っておる話なんて、どれも不気味なものばかりなのじゃからな! 母上の『お話』の方が、断然面白いに決まっておる。それもこれも、フラッドがアレクにつまらぬことばかり教えるから……あ、フラッドというのは、アレクの近衛騎士で」
 説明する娘の声を聞いているうちに、私はようやく事情が飲み込めてきた。この声を聞いていて――その表情を見ていて、この子が辛く苦しい生活を強いられてきたなどと、一体誰が思うだろう。
 つまり、これが原因なのだ。親許を離れて異国へ嫁いだ娘が、まだまだ子供のような顔をしていられるのは、そういられるようにしている者がいるからだ。この子の話を聞いてやって、他愛無いお伽噺に付き合って――まるで私たち両親のように、あるいはそれ以上に、この子を守って、甘えさせている者が。
 ……それにしても、それはそれで問題だと思う。『黒い悪魔』は、私の想像とは多少異なる方法ではあるが、やはり娘を不幸にする存在かもしれない。私は密かに危ぶんだが、やがてその心配も消えた。明るく喋っていたユスティニアが、一瞬言葉を切った後に、こう言ったからだ。
「――だから、新しい『お話』を覚えておかねばならぬ。わたしが帰るまでに」
 明るい声音はそのままに、何気ない調子で娘は言ったが、私はそれが努力の成果であることに気付いていた。できるだけ、何気ない調子で言おうと努力したのに違いない。それが当たり前のことであるように、私に聞かせるために。
 自分が『帰る』ことが当たり前だと、私に信じさせるように。
 今現在、ユスティニアは微妙な立場で皇宮にいる。帝国は、再び彼女の『帰る』国と剣を交えることになるかもしれないのだ。もしそうなれば、ユスティニアは永遠に、あの国から解放される――繋がりは全て消え失せて、最初から何もなかったことになるだろう。
 そのことについて、私は何も言うつもりはなかった。昔から一貫して、男たちの仕事は何も解らない顔をしてきたし、ユスティニアもそれは良く知っている。だから直接言わないで、遠回しにそんな言い方をするのだ――自分は、『帰りたい』のだと。
「……やれ、小賢しいこと」
 昔なら、そんな言い方はしなかった。皇宮の末姫として、誰からも構いつけられて育ったユスティニアは、どんなものでも欲しいものは欲しいと正面から言い募ったものだ。
 思いがけない娘の変化は、しかし私にとって決して嫌なものではなかった。大人になるということは、そういうことだ。嘘をつき、他人の目を欺き、気を引いて思い通りにしようとする。自分自身を裏切って、どんな手を使ってでも……それでも、何かを叶えようとするものだ。
 私の心配は、つまり、全く愚かなことだった。子供は子供のままではない。誰に教えられなくても、ちゃんと大人になる。誰にも、何にも、それを妨げられるはずがない。
 特に女の子なら、尚更だ――同じ男の名前を、何度も口にするようになったなら。
「仕方がない。では今宵は、とっておきの話をして進ぜようかの」
 ぱっと顔を輝かせる娘が、不意にたまらなく愛しくなる。彼女は永遠に『私の娘』ではあるけれど、もう『私の子供』ではなくなるのだ。遠い先の話ではない。やがて、まもなく……おそらくは、この瞬間でさえ。

 ならば今夜は、私にできる、最後の贈り物になるだろう。

「どんなお話じゃ、母上?」
「そうじゃな……愛する妻に尽くし過ぎて捨てられてしまう、哀れな男の話じゃ」
「えっ!? は、母上! そのようなことをしてはならぬ! そんなの、父上が可哀想じゃ!」
「……何故、聞かぬうちから父の話と決めておるのじゃ」
 違う違う、と娘に言って、私も寝台に潜り込む。久しぶりの感触に、くすぐったそうに笑うユスティニアの髪を撫でながら、私は彼女に念を押した。私の最後の贈り物の、最も正しい使い方を。
「よいかユティ、ちゃんと覚えるのじゃぞ。――帰って、そなたの従順な夫に、よくよく言って聞かせられるようにな」
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■やっぱり、あんまり甘やかしてるのも良くないという話……。