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● 我が王への挽歌 ●

 押し迫る日没と競うように、大通りを騎馬が疾駆する。
 アーセルン王国の王都ベクトラ、大陸でも屈指の大都市として名を知られる華やかな街だが、しかし今はその輝きにも陰りが見える。いつもなら呼び売り商人が声を張り上げ、馬車や荷車が所狭しと走り回り、大勢の人々が窮屈に行き交う騒々しい通りに、普段の喧騒はない。道を遮られることもなく突き進む騎馬を見送る人々の顔には、一様に暗い影があった。この先に起こることを、皆が知っている――今日までの安寧の日々が、失われるかもしれない不安。
 遠くで、また鐘がなる。重苦しいその音は、しかし沈んだ空気を震わせる以外の何の役にも立たないだろう。空々しく響く音は、病平癒を祈る鐘の音だ。この国で最も尊貴な人物が、今まさに死の床にある。
 ――まだだ。
 だが、まだ鐘は鳴っている。まだ、彼は死んではいない。グアドは更に愛馬に拍車をくれた。これ以上は馬も速くは走れないと解っているが、しかし今はほんの数瞬でも惜しい。
 もう少し――目の前に見える、王宮の門をくぐるまでは。
 跳ね橋を渡り切り、内庭に馬ごと乗り入れる。普段なら決して許されない暴挙だが、誰もそれを咎めはしない。待ちかねたように走り出してきた王宮の使用人に、手綱を投げるように渡すと、グアドはそれきり振り返りもせず、大股で建物に向かった。愛馬を労う余裕も、使用人に言葉をかける暇もない。時間がない。
「閣下」
 廊下の向こうから、小走りに近付いてくる者がある。顔馴染みの侍従は、常の儀礼もそこそこに、慌てふためいた様子で告げる。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ――国王陛下がお待ちです」
「陛下の、ご容態は」
「……お急ぎください」
 潜められた声の端的な答えに、グアドは知らず歯を食いしばった。では、やはり時間がない。人の手には止めようもない神の計らいが、王の生命に終わりを告げようとしている。
 ――何故……。
 しかしその計らいは、あまりにも理不尽と言うべきだ。アーセルン国王セディエルは、まだ三十を過ぎたばかりである。グアドより十も年下で、当然、まだ神の御許に召されるような歳ではない。
 グアドが国王と近しくなったのは、彼が王宮警備隊の指揮官として勤めていた頃で、もう二十年近く前のことになる。当時は王太子だったセディエルは、窮屈な王宮が気詰まりだったのだろう。たびたび警備の目をくぐっては王宮を抜け出し、取り巻きと野放図な遊びに耽っていた。その首根っこを捕まえて、馬鹿な振舞いの尻拭いをするのが、グアドの重要な任務であったのだ。
 王太子に対して遠慮なく諫言、どころか怒鳴りつけさえしてくる警備隊長を、セディエルが疎ましがったのは言うまでもない。しかし、彼は根っからの放蕩児ではなかったらしい。グアドの言を容れたのかどうか、次第に品行は正され、父王の跡を継いで即位してからは、国王の務めを疎かにすることはなかった。
 グアドは一軍を預かる将軍となって王都を離れたから、近年は以前のように頻繁に顔を合わせることはなくなっていたが、それでもたまに王宮に伺候するたびに、その変化を嬉しく思っていたものだ。彼に対してはあの頃と同じに、生意気な少年のような口を利くセディエルは、しかし今は立派な国王なのだ。軍に身を置く者として、生命を懸けて仕えるに足る主となった。
 その国王が、突然の病に倒れたと急報がもたらされたのは三日前。更にその半日後には、グアドは任地を離れ、大急ぎで王都へと向かわなければならなくなった。自らの病が篤いことを悟った王は遺言を認め、その中で、彼はグアドを自分の息子の後見に指名したらしい。王の一人息子である王太子はまだ幼年だ。その後見をするということは、すなわち摂政となるということである――王の力を、王の代わりに振るう者。
 ――馬鹿な!
 どうして自分がそんなものに指名されるのか解らない。現在、彼が家督を継いでいるウォルブラッド公爵家は、確かに王国の名家の一つではあるのだが、政治的にそれほど有力なわけでもない。グアド自身、政治に経験も関心もない。そもそも公爵位を継いだのは、元来公爵であった兄が数年前に急死したせいで、彼自身は若い頃からずっと、自由な立場の次男坊であるのをいいことに軍務に邁進してきたのだ。一応は生家である公爵家すら扱いかねるのに、王国の摂政など務まるはずがない。
 何かの間違いに違いない。何としてでも、王の真意を質さなくては――臨終のときが来る前に。
 王宮の北翼に入ると、ざわめきが聞こえた。通路に大勢の人間が寄り集まって、岩の裏側に群れている小虫のようにうごめいている。高位の貴族たち、黒服の官吏、その合間を縫って動き回る侍従や王宮の使用人。
 彼らが何のために集まっているのかは解る。しかし、その中に幾つか知った顔を見つけて、グアドは一瞬足を止めかかった。大法官、財務総監をはじめとする宮廷の役職付き貴族、諮問会議の面々……国王の側近くにいるべきはずの連中が、何故こんな通路にたむろしているのか。
「陛下のご命令です」
 グアドを先導してきた侍従は、声を潜めてそう答えた。
「御寝所には、何人たりとも立ち入るなと仰せです。ただ、公爵閣下がお着きになり次第、直ちにご案内せよと」
 近付く足音に気付いたのか、何人かが彼らを振り向いた。グアドの姿を認めると、途端に口を閉ざす。ざわめきが次第に消え、まるで波が引くように、彼の前に道が開けられていく。
 人々のその反応を、薄気味悪く思わなかったわけではない。国王の遺言は、既に公に知られているのだ。しかし、今はそれを気にしている場合ではない。
「こちらです」
 侍従が大きな扉を指し示す。もちろん案内されるまでもなく、グアドもそこが目的地であることを知っていた。国王の寝所だ。人々の視線が集中しているのを感じはしたが、グアドは構わず扉に手をかける。
「陛下、失礼致します」
 しかし、押し開けようとした扉はびくともしなかった。グアドはもう一度、きつく持ち手を掴む。けれど何度回しても、扉が動く気配はない。押しても引いても駄目だ。
「…………!? 陛下! そちらにおいでか、ここを開け……」
「――だめ」
 突然、扉の向こうで応じる声がした。しかし明らかに国王のものではない。細く、甲高い――あどけない声。
「だれも、入ってきちゃだめ。だれも入れてはいけないって、父上がいった。う……ウォルブラッド公爵がくるまで」
『ウォルブラッド公爵』を、たどたどしく発音して、それは確かに子供の声だった。予想外の出来事に、グアドは一瞬目を見開くが、すぐに事情を察する。なるほど、この扉を『父上』の命令で守るとすれば、考えられるのは一人しかいない。
「……私が、ウォルブラッド公爵グアドです。そちらにおられるのは、ライオール王太子殿下でいらっしゃいますか」
 国王セディエルの一子、幼い世継ぎの王子の名を思い出し、グアドは話しかける。扉の向こうで、不審がるように沈黙する気配に、慌てて言葉を続ける。
「お父上の御意に従い、まかり越しました次第。どうか、この扉をお開けください」
 先刻の感触から察するに、おそらくは内側から鍵がかかっている。この子供の仕業だろうかと思いながら、グアドは丁重に頼んでみる。
 扉の向こうで、子供はまだ黙り込んでいた。一刻を争う事態なのが解っていないのかと、グアドは更に説得しかけたが、それより先に向こうが尋ねてくる。
「……あなたが、ウォルブラッド公爵?」
「はい、殿下」
「ほんとうに?」
「もちろんですとも」
「……ほんとうの、ほんとう?」
 一体何のつもりだ。焦燥感に身を焼かれ、グアドは扉を睨みつけた。こんなことをしている間にも、王の生命の刻限は迫ってきているのだ。わけの解らない子供の遊びに付き合っている暇などないのに。
「必要なら、我が血と名誉に誓っても構わない! 私が真実、名乗った通りの者だと、ここにいる大勢の人間が証明するでしょう。ですが、わたしの姿も見ずして、どうやって私が何者かを知るおつもりですか――とにかく、ここを開けてください」
 本当は怒鳴りつけてやりたかったが、そうもいかない。苛立ちの滲む、それでも抑えた声音で告げると、扉の向こうの気配はまた黙った。一瞬ごとにグアドの神経を削っていることにも頓着なく、子供は何事か考えているようだ。
「……ほかの人はだめ」
 やがて、気が遠くなるような間の後に、子供は言った。
「ウォルブラッド公爵だけだ。父上がそういってる。ほかの人は入れない」
「ですから、私を入れてくださいと申し上げている!」
「みんなあっちいって。ウォルブラッド公爵だけ、ここにいて。……ううん、あなたもあっちにいって。ええと、十歩くらい」
 他の皆は五十歩、などと要求されて、グアドはいよいよ呆気に取られる。本当に、この子供は何を考えているのか。これも国王の指示なのだろうか。
 だが、言われて従わないわけにもいかない。グアドは群臣に振り向くと、子供の言葉を伝えて扉の前から退かせる。何人かは気が進まない様子であったが、それも無理矢理追い立てた。
「ウォルブラッド公爵、陛下の御身が心配だ。もうずっと、あのように我らを遠ざけられたままなのだ。王太子殿下が扉を開けられたら、すぐにわしを中に入れてくれ」
「いいや、私だ。私こそ、陛下のお側に」
「貴公ら、己の分も弁えず何と図々しい。序列から行けば、当然私が優先……」
「――各々方、いい加減になされよ!」
 王太子相手には抑え込んだが、他の人間に遠慮する必要はない。戦場と練兵に鍛えられた大喝は、王宮の石壁に響き渡り、辺りは物音一つしなくなった。青ざめた貴族たちを遠巻きに追いやって、グアドは舌打ちした。まったく、新兵ほどの度胸もないくせに、余計な手をかけさせるな。
 と、突然背後でガチャリと音がした。振り返ると、閉ざされていたはずの扉が、わずかに開いている。
 巨大な一枚板の扉の向こうに立つのは、不釣り合いなほど小さな姿だった。いつでも閉じられるようにと思っているのか、扉の持ち手をきつく握り締めたままの少年は、しかし恐れ気もなく真っ直ぐにグアドを見つめてくる。何か、目には見えないものを見定めようとするかのような、澄んだ藍色の瞳。
「――きて」
 ようやく、少年が言った。しかし次の瞬間、その表情を強張らせたのは、周囲に蠢いた者の存在に気付いたからだ。グアドが足を踏み出すと同時に、扉に駆け寄ろうとする者がある。少年が息を呑んで、再び扉を閉ざそうとするのを見て、グアドは思わず手を出していた。やっとあの子供が説得に応じそうになったというのに、この上まだ時間を無駄にさせる気か!
「ふざけるな! 貴様、この馬鹿者が!」
 もはや、王宮の作法など頭になかった。相手の襟首を引っ掴み、上から怒鳴りつける。
「国王陛下の御下命を、何と心得るか! 這いつくばって拝聴せんか、この蛆虫め。勝手なことをしてみろ、蛆虫らしく、内臓散らして潰してやるぞ」
 どうやら相手は、軍隊仕込みの悪罵に、慣れていなかったらしい。ひっ、と短く悲鳴を上げて震える男を、グアドは乱暴に床に放り出した。その男の顔には見覚えがある、おそらく高位の貴族の誰かであろうことや、これまでとは違い、周囲の人々が自発的にグアドから距離を置こうと身を引いたことなどは、もはやどうでもよかった。
 ――やっと、会える。
 国王に会わなければならない。その真意を質して――この身には持て余す遺言を、考え直してもらわなければ。
 扉をくぐると、室内は黄昏色に染まっていた。沈みかける太陽が、窓から最後の輝きを投げかけている。
 背後で、再びきちんと鍵が掛け直される音にも構わず、グアドは急いで足を進めた。部屋の中央に、大きな寝台が置かれている。天蓋から流れ落ちる薄い紗に覆われて、中の様子は窺えない。グアドはその側に跪き、深く頭を垂れた。
「陛下。臣、ウォルブラッド公爵、御下命に従い、ただいま御前に参りました」
 だが、答えはない。病は篤いのだ、もう意識が不確かなのかもしれない。恐ろしい想像に、グアドは慄然とする。いや、そんなことはない。さっきまでは、幼い王子に人払いをさせていたのだ。辛抱強く呼びかければ、また目を覚まさせられるかもしれない……。
「陛下」
「――しんじゃったよ」
 不意に、すぐ側で声がする。ぎょっとして顔を上げたグアドは、少年がいつの間にか、彼の隣に立っていることに気がついた。
「父上は、しんじゃった。もう、おきないよ」
 グアドは息を止めて、少年を見返した。あまりにも淡々と父親の死を口にした彼は、子供らしからぬ無表情で彼を見ている。悲しみもなく、まして泣きもせず……しかし、嘘を言っている様子にも、また見えない。
 弾かれたように立ち上がる。王の前に、決して許されざる非礼……しかし、「ご無礼を」と口の中で呟くと、グアドは思い切って寝台を覆う布を取り払う。
 横たわっているのは、まだ若い男だ。記憶の中の顔よりは、幾分やつれて見えるだろうか。穏やかに眠っているだけのようだが、しかしそうでないことは一目で解った。無意識に、グアドは寝台の上に投げ出された腕に触れる。指先から伝わってくる、固く冷たい――死の感触。
「…………」
 間に合わなかった。間に合わなかったのだ。王は逝ってしまった。もう、その言葉を聞くことはできない――彼に残した、手に余る指名の理由も。
 最初の衝撃が行き過ぎるまで、どのくらい呆然としていたのかは解らない。やがて、グアドは深くため息をついた。内臓を吐き出すほどに深く、肩を落として、背を丸めて――そうでなければ、圧し掛かってくるものの重さで、背骨から折れてしまいそうだ。
 何故、こんなことになったのか。どうして自分がここにいるのか。――これから、どうするべきなのか。
 ふと、視界の隅で何かが動いて、グアドははたと我に返った。彼の腰くらいの高さで、小さな金色の頭が動いている。立ち尽くしている彼の横で、金髪の少年は寝台の横にある椅子にちょこんと座った。まるでそこが自分の定位置だというように。
 そうだ、まずはこの子供のことがあった。グアドは振り向くと、少年の前に恭しく一礼する。
「国王陛下のご薨去に……お父上のご逝去に、心からお悔やみ申し上げます。殿下」
 椅子に腰掛けた少年は、何とも答えなかった。子供には難しい言い回しには違いない、しかしこの態度には、何とも掴みきないところがある。自分から父親は死んだと告げた以上、父の死は理解しているのだろうが、唇を引き結んだ表情から、それをどう思っているのか伺い知ることはできない。
 グアドは改めて、目の前の子供を観察した。国王セディエル――もう、先王と言うべきだろうか――の長男、王太子ライオールは、確か今年で七歳になるはずだ。子供に縁のない生活を送っているグアドには、目の前の少年が年齢相応の大きさなのかどうかはよく解らなかったが、少なくとも彼にとっては随分と小さかった。金の髪は父親譲り、しかし昔の父の、向こう気の強そうな面差しはあまり受け継いでいないらしい。瞳の藍色は深く、聡明そうな光がある。腕白坊主というようではない、どちらかといえば落ち着いた、物静かな性質に見える。
 今も、少年はきちんと姿勢正しく椅子に座ったまま、じっと彼を見上げている。大柄な彼を見上げるのに、少年がだいぶ首を傾けなければならないことに気付いて、グアドは急いで膝をついた。
「王太子殿下。……お父上がお亡くなりになったことを、ご存じだったのですか」
 グアドの問いに、ライオールはこくんと頷いた。
「どうして、誰もお呼びにはならなかったのです」
「父上が、だれもよんではいけないっていった。とびらをしめて、かぎをかけて、だれも入ってこないようにしなさいって……あなたがくるまで」
 だが、目の前で父親が死にかけているのだ。いくら言いつけられても、そんなに平然と従えるものだろうか。グアドは眉を顰めて、更に問い質しかけたが、続くライオールの言葉に思わずあっと声を上げてしまう。
「父上がしんだら……いきをしなくなって、つめたくなって、なんにもおはなししてくれなくなったら、いちばんさいしょにあうのは、あなたじゃなきゃいけないって。あなたに、『せんせい』をもらわないといけないって」
 ――新王の宣誓か!
 今の今まで思い出さなかった、アーセルン王家のしきたりだ。先王の崩御を受けて新王が立つ際は、臣下の宣誓を受けなければならない。新王を正しい王統の後継者と認め、先王に対するのと同じように忠誠を誓うものだが、その順番には大きな意味があった。真っ先に宣誓を捧げる者は、新王の治世において、第一の、最も重きをなす臣下と看做される。
 グアドはようやく、先刻の扉前での一幕の意味を悟った。連中が我先にと寝所に潜り込もうとしたのは、病床の国王を案じてのことなどではなく、まさにこのためだったのだ。その発見は、亡くなった王への哀悼の念を燃料として、彼の中に凶暴な怒りをかき立てたが、同時に彼の中の冷静な部分は、正確に状況を読み解いていた。
 ――では、王は……本当に……。
 彼を、本気で摂政にするつもりだったのだ。息子を、王国を、彼に委ねると。そしてそのために、医者すら側に寄せ付けず、孤独な死を選んだ。
 いや、孤独よりなお悪い――幼い子供に、たった一人で、父親の死を看取らせたのだから。親の死というものは、多くの人間にとって避けられないものではあるが、これほど小さな子供に一人で耐えさせるのは、やはり惨い仕打ちではないか。
「お辛い思いを、されましたな……恐ろしくはありませんでしたか」
 とはいえ、相変わらず少年の表情に変化はない。まだ幼くて、死というものが理解できていないのかとも思ったが、すぐにそれは違うと悟った。ライオールは小さく首を振って答えたのだ。
「こわくない。……母上と、おんなじ」
 そうだった、この少年が死を理解していないはずがない。母親である王妃が亡くなったのは、三年ほど前のことだった。難産で、少年の弟か妹となるはずだった赤子と一緒に生命を落としたのだ。
 母と兄弟、そして今度は父……グアドは再びため息をついた。何という運命だろうか――自分にも、この子にも。
 しかし、少年は彼を見上げて言うのだ。
「父上が、なんでもあなたのいうとおりにしなさいっていった。わたしは、なにをしたらいい?」
 真剣な眼差しに、グアドは奇妙な笑いがこみ上げてくるのを感じる。何をしたらいいか――そんなことは、彼にだって解らないと言ったら、この子供はどんな顔をするだろうか。
 だが、それを口に出すことはできない。いかに本意ではなかろうと、王の命令には服さなければならない。何かの間違いではなく、確かに彼に対して下されたものであることが明らかであれば、尚更のこと。
 改めて、少年の前に片膝をつく。手を心臓の上に当てる、正式な臣下の礼。
「この私、ウォルブラッド公爵グアド・シルリエドは、我が血、我が名誉の全てを捧げ、御身の最も忠誠なる臣、第一の剣にして盾となることを誓うものです――我が君と新たなる御世に栄光あらんことを」
 誓いの言葉を素早く述べてしまうと、グアドは顔を上げた。身動ぎもせずに座っている少年に、手を差し出すように言う。
「指先で、私の額に触れて、今から言う通りに繰り返してください――『宣誓はなされた。我が剣、我が盾に神のご加護を』」
 ライオールは言われた通りにした。子供の小さな手が、おっかなびっくりグアドの額に触れ、幼い声が教えられた文言を繰り返す。
 全てが終わって、グアドはようやく立ち上がった。とにかくこれで、最初の義務は果たしたわけだ。亡き王が彼に託した途方もない仕事の、これはささやかな最初の一歩。
「いまの、どういういみ?」
 ふと、ライオールがそう尋ねてきた。子供ながらに難しい顔をしているところを見ると、わけの解らない呪文のように聞こえたらしい。
「ああ、これはですね……あなたが新しい王様になったので、私はあなたに忠誠を誓うと申し上げたのです」
「ちゅうせいってなに?」
 これには困った。とっさに上手い説明が出てこなくて、グアドは言葉に詰まる。子供と話すのは慣れていない、どう言ったらいいものやら……。
「――あなたを、お守りするということです。いつでも、何があっても、必ず」
 ライオールは、目を丸くして彼を見上げた。不思議そうな眼差し。やがて、これまでずっと感情の窺い知れなかった頑なな表情がわずかに崩れる。ほっとしたようにも……逆に泣き出す寸前のようにも見える、奇妙な微笑み。
「では、殿下――陛下。私と一緒にいらしていただけますか」
 泣かれてはまずい、子供の扱い方などまるで解らないのだ。予想が現実化する前に、グアドは慌てて少年に言った。まずはここから出なければならない。外の人々に王の死を告げて、葬儀の準備をしなければ。
 彼の言葉に従って、ライオールは椅子から下りた。しかし歩き出そうとした途端に、ふらりとよろける。転ぶというよりは、崩れ落ちるような動きで、ぺたんと床に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「……つかれた」
 どこかぼんやりとした口調で、子供は呟く。だからと言って座り込まれても、とグアドは思いかけたが、すぐにその様子がおかしいことに気がついた。床に手をつき、肩を落として息をついている。糸の切れた操り人形のように力なく、確かに疲れ切っているようだ。
 まあ、それも無理はない。父親に死なれ、その遺言を守って、ずっと一人でここで彼の到着を待ち続けていたのだから……と、そこまで考えて、グアドははたと気がついた。この子供は、ずっと彼を待っていた――一体、いつからだ。
「殿……陛下。あなたは、いつからここにいるのですか?」
「よる」
「……昨日の、夜ですか? 誰かあなたに、食事をさせたのですか」
「だれも入れなかったよ。父上がそういったもん」
 ライオールは、ちょっとむっとしたように答えた。父の言いつけを守らなかったと疑われているように感じたのだろうが、グアドは唖然としてしまう。では、この子供は一日中ここにいたのか――扉を固く閉ざしたまま、飲まず食わずで、物言わぬ父親の遺体の側で、いつ来るとも知れない彼を待って。
「…………」
 瞬間、胸中に湧き上がった感情は、彼自身にもよく解らないものだった。憤りとも、憐憫とも、罪悪感ともつかない。そのどれでもあるようで、どれとも違うようにも思う。もし彼が王宮へ来なかったら、王に会おうとも思わず、摂政の指名を頭から拒否していたら、この子はどうするつもりだったのだろう。ずっと立て籠って、餓死でもするつもりだったのか。あれほど大勢詰めかけていた王宮の人間は、何をしていたのか。大体、王も王だ、いくら王位継承に重要な問題だからといって、幼い息子にこんなことを強いるとは……。
 だが、一つだけ――真っ先に何をするべきかは、これではっきりした。
「……わ!」
 突然、床から拾い上げられて、ライオールが小さく声を上げる。身体を固くしている少年を、有無を言わさず抱き抱えると、グアドはきっぱりと言った。
「何か、あなたが食べるものを見つけましょう。外の連中には構わないでよろしい。いいですか、ちゃんと腹いっぱいになるまで食べるんですよ――あなたのような子供が、ふらふらになるまで腹を空かすなんて、決してあってはならないことだ。まったく!」
「…………」
「ですが、まあ、それはそれとして……お一人で、よくぞ耐えられましたな」
 半ば無意識に、少年の背中を軽く叩く。他にどうしてやればいいのか解らなかった――大人の思惑はともかく、この子供の懸命の努力には、何か報いてやるべきなのに。
 ライオールは何も答えなかった。しかしグアドの腕の中で、身構えていた身体から力が抜ける。小さな頭を彼の肩に乗せ、子供はくったりと彼に寄り掛かかった。

     *     *     *

 亡くなったセディエル王の葬儀は、つつがなく執り行われた。早すぎる国王の死を誰もが悼み、その点、人々の心は一つだった。全ての儀式は何ら滞りなく、尊厳をもって進められた。
 新王の戴冠式は、しかし少し事情が違った。葬儀は誰にとっても平等に終わったことだが、新王は不平等な未来に関わることだ。人々の数だけ利害があり、反応も様々に分かれる。新王ライオールは七歳の子供である。人々の目が向くのは、その後見であり、実際に王国を統治する立場にある摂政だ。
 本来、王位を継ぐ王太子がその任に耐えられないとき、摂政には王家の一族から選ばれるのが普通である。しかし先王はその遺詔により、ウォルブラッド公爵を指名した。ウォルブラッド公爵家は王国の伝統ある名家ではあるが、長く権力の中枢から遠ざかった、そういう意味では斜陽の一族である。現在の当主であるグアドにしても、長く軍人として王国に仕え、その方面では声望があるが、政治の舞台では未知数の人物である。
 我こそは新王の摂政にと目論んでいた人々は、当然面白く思わない。不満を持つ者はそれぞれ取り巻きを囲い、不穏な動きを示しはじめる。となると、逆にそれらに与さず、政治のことなど何一つ解らない新摂政に取り入ろうとする者も現れる。新たな時代のはじまりを告げる戴冠式は、実のところ、嵐の幕開けでもあったのだ。
「――ダーリッシュ」
 執務室で報告を聞きながら、グアドは眉を顰めた。王宮の南翼にある執務室が摂政である彼のものとなってから、そろそろ三ヶ月が経とうとしているが、未だに違和感がないとは言えない。
 だが、そんなことを表情に出すわけにはいかない。軍隊で鍛えられた強面の無表情を保つ彼に、秘書官がわずかに気圧された様子で言葉を続ける。
「は、はい……ダーリッシュ公爵には、確かに不穏な動きが見られます」
 ダーリッシュ公爵家は王家を祖とする親王家であり、当代の公爵は国王を曽祖父に持つ。当然、幼王の即位に際して、王家の傍系ではないウォルブラッド公爵グアドが摂政になったことを快く思ってはいない。同じように王家の血を引き、グアドを厭わしく思う者は他にもいるが、ダーリッシュ公爵の反応はその中でも特にはっきりしたものだった。戴冠式には一応出席したものの、おざなりな忠誠宣誓をした後は、体調不良を理由にさっさと領地へ引き上げてしまった。
「臣従する貴族たちはもとより、近隣の小領主にまで頻繁に使者を派遣しているようです。領地の穀物庫を開けて、金に換えているという話もあります。まだはっきりと思惑を明らかにしたわけではありませんが……」
「時間の問題、ということだな」
 ダーリッシュ公爵の思惑は、既にこれ以上なく明らかである。グアドは、全く知らないでもない男の顔を思い出した。ひょろりとした身体に、高位貴族らしい優雅な衣装の服を身につけ、本人は洒落ているつもりなのだろうが、どうにもたるんだ印象を受ける男。戦場に出るどころか、運動さえすることはないのだろう。歳は彼より少し上のはずだが、若い頃から少しも変わっていない――高慢で、軽薄で、自尊心を傷つけられることを何よりも許せないと思う類の男だ。
 正直、あの男に何ができるとも思わない。三ヶ月もの時間があって、未だ動きを決められず、ろくな味方を引き入れてもいないのだ。
 とはいえ、このまま放置しておくこともできない。ダーリッシュ公爵は、良くも悪くも王家の縁者である。広大な所領を有し、影響力もある。本人が取るに足らない者でも、少し知恵の回る人間が脇につけば、決して軽視できない勢力となるだろう。
「釘を刺しておく必要があるか」
 ダーリッシュ公爵にではない、その周辺の領主たちにだ。ダーリッシュ公爵領は、王都ベクトラからそれほど離れていない。万一、武装を固めて蜂起されるようなことにでもなれば、王宮に危険が迫らないとも限らない。
「大事に至らないうちに、早急に対処なさるのがよろしいと存じます。ただ、ダーリッシュ公爵を追及するには、まだ確たる証拠に欠けるかと。王都へ召喚なさるにしても、果たして応じるかどうか……」
「ならば、私の方から出向くとしよう」
「徒に先方を刺激することになりはしないでしょうか。こちらに疑いを抱かれていると知られれば、余計に態度を強硬にするかもしれません」
「何も、いきなり叛逆を問いに行くわけではない。……そうだな、ちょうどあの辺りに、古い友人が住んでいるのだ。大怪我をして、軍を退役した男でな。ずっと見舞いに行こうと思っていた。まあ、途中で土地の領主たちに挨拶をしても、別段問題はあるまい」
 ダーリッシュ公爵自身はともかく、その周辺の貴族たちは、新摂政の目が自分たちに注がれていると知れば、軽率な振舞いはできなくなるだろう。意図を察して頷く秘書官に、グアドはこの先十日の王宮での儀式を確認した。
「外国使節の表敬訪問が三件、定例の諮問会議、表彰兵の叙勲があります」
 動くなら、早ければ早いほどいい。幸いにも、予定されている式典はどれも、必ずしも摂政の存在を必要とするものではなかった。必要なのは、玉座の主だ――大きすぎる椅子にちょこんと座らされている、人形のような子供。
 その姿がぱっと脳裏をよぎって、グアドは彼のことを思い出した。そうだ、あの子供に会いに行かなければならない。これから、少しの間とはいえ王都を離れなければならなくなるのなら、それをよく説明しておかなければ。
「解った。では、誰か私の代理を手配してくれ。式を滞りなく進められるように」
「かしこまりました、閣下」
「私の部屋へ行って、使用人に荷造りをするよう伝えてほしい。準備ができ次第、発つことにしよう。――その間に、私は北翼にいる」
 政務の行われる南翼とは対照的に、王宮の北翼は、国王一家の私的な住居である。代々の国王が暮らした建物であり、時代によっては大勢の家族と、それにも増して大勢の側付きでごった返すほどに人が溢れていたこともあるが、しかし今、ここで暮らしているのは一人しかいない。
 その一室の扉の前で、来意を告げる。摂政の来訪に、扉を守る衛兵は素早く敬礼を返し、彼を中に招き入れる。
「陛下、申し上げます。ウォルブラッド公爵閣下がお見えです」
 グアドが足を踏み入れたのは、光に満ちた暖かい部屋だった。大きな窓からは、中庭の明るい緑が見渡せる。幾何学的に配された植え込みには少しの乱れもなく、花壇の花々がそよ風に揺れる様は、何とも穏やかで美しい。
 その光の当たる窓辺の床に座り込んで、子供は玩具の兵隊を整列させていた。側には木で作られた馬も並べられている。轡に当たる部分に紐を付けられた馬は、関節が動くようになっていて、引くとカポカポと蹄の音を立てて歩くものだ。グアドが幼い頃にもあった、伝統的な子供の玩具である。
 この子供も世の多くの男児と同じく、こういったもので遊ぶらしい。大人しい――彼の目から見れば、些か大人しすぎる――新王も、これでちゃんと年相応の少年らしいところもあるのだ。グアドはほっとするような、微笑ましいような気持ちで目を細めたが、子供の方は彼の存在に気付くと、はっと息を呑んだ。
「……ウォルブラッド公爵」
「突然、お伺いして申し訳ない。おお、それはまた、立派な閲兵式ですな」
 せいぜい愛想よく褒めたのだが、しかしライオールはにこりともしなかった。急いで人形の兵隊を取り上げると、近くにある玩具箱にしまっていく。
「よろしいのですか? そのままにしておかれて構いませんよ」
「いい」
 きっぱりと言い切って、少年は馬も仕舞ってしまった。そそくさとふたを閉めると、真顔で彼に向き直る。その子供らしい丸い顔に、真面目くさった表情を浮かべて、じっと次の言葉を待っている。
 グアドは内心でため息を押し殺した。決して態度が悪いとか、礼儀知らずというわけではない。むしろこの年頃にしては、礼儀は正しすぎるほど正しいと思うのだが、しかしグアドはこれまで、この少年が笑うところを見たことがない。
 この三ヶ月近く、グアドはできる限り、この新たな被後見人と接するべく試みてきたつもりだ。しかし、少年の方がそれを喜んでいるようには見えなかった。彼と顔を合わせるときには、決まって神妙な態度で押し黙っている。何か尋ねればちゃんと答えはするのだが、少年の方から何かを言い出すことはほとんどない。グアドもグアドで、こんな年頃の子供に、必要なこと以外に何を話しかければいいのかはわからなかった。好きな食べ物は何かとか、何か欲しいものはあるかとか、今日の勉強はどんなことをしたのかとか、そんなことを訊いてしまえば、もう話の接ぎ穂はない。
 若い頃から軍務一辺倒でやってきた彼にとって、子供は未知の領域だ。結婚して家庭を持とうと思ったことや、したいと思った相手がなかったわけではないが、それが自分の人生にどうしても必要だと心から感じたことはなかった。元来が自分勝手な性質であることは自覚している。家庭を築くことよりも、自分の良しとすることを好きなようにやる方が、ずっと満足いくように思えた。少なくとも、彼向きの幸せだ。
 ――まったく。三ヶ月ともなれば、どんな臆病な新兵でも、そろそろ図に乗りはじめる頃だというのに。
 それをこの子供は、まだ彼を警戒しているのか。まあ、彼の方も大柄な強面で、決して子供に懐かれるような見た目ではないが、ちょっとお喋りをするくらいは無害な相手だと、そろそろ認識してくれないものか。
 ――何もこっちだって、好きでこんなことを……。
 だが、脳裏で閃きかけた繰り言は、即座に打ち消す。実のところ、それはこの三ヶ月近く、この厄介な務めをあてがわれてからずっとグアドの心中に巣くって離れないものではあったが、それを認めるわけにはいかなかった。セディエルは彼の王だった。若い頃に培った親密さも含めて、我が身の全てを捧げると誓うに足る主だった。その王が彼に託したものを、どうして無下にできるものか。
 再び目の前の子供に注意を戻し、グアドは単刀直入に用件を切り出すことにした。話が弾まないのなら、ぐずぐずする理由はない。
「陛下。実は少しの間、私はここを離れることになりましてな。そのことをお伝えしに参ったのです」
「…………」
 ライオールは何も言わなかった。だが、その丸い瞳が、見開かれて更に丸くなる。何故か、少年が突然泣き出すのではないかという恐怖に襲われ、グアドは慌てて付け足した。
「いや、ほんの少しの間だけです。王都の外に、ちょっとした仕事ができましてな。それさえ終われば、すぐに戻ってきます」
「…………」
 ライオールはやはり黙ったままだった。しかし一瞬前の驚愕の表情は消え、いつもの生真面目な顔に戻っている。子供ながら内心の見えないその顔つきに、グアドはまたしてもため息をつきたい気分になった。どうして一瞬でも、この子供が泣くかもしれないなどと思ったのだろう。この少年が、泣いたり喚いたりといった、いかにも子供らしい感情的な反応とはほぼ無縁だと、とうに知っているのに。父親の死にさえ、あれほど冷静でいたのだ。グアドの姿が見えなくなるくらいは、たいして関心もないだろう。
 と思ったが、意外にも、ライオールはまるで無関心でもないらしかった。少しの間、気まずい沈黙が続いた後で、珍しく口を開いたのだ。
「いつ」
「何ですと?」
「いつから、いつまで、いないの?」
「明日から……そうですな、十日ほどで戻ってくる予定です。うまくいけば、それより早くなるかもしれません。手間取れば、遅くなることもあるやもしれませんが、まあ、そうはならないように努める所存です」
 実際、そう長く王都を空けてはいられない。そしてそれ以上に、あんな有象無象どもに、手間を掛けさせられること自体が腹立たしい。必ずや目にもの見せてくれる、と内心で息巻く彼に、ライオールは突然背を向けた。少し離れた文机に向かうと、何やら引き出しの中を探りはじめる。子供の行動に当惑したグアドが逡巡し、躊躇いながらも後を追って近づいてみると、少年は引っ張り出した紙片を屈みこむようにして見つめていた。
「ああ……暦ですか。もう、おわかりになるのですか?」
「わかる。きょうは、ここ」
 小さな指が置かれたのは、確かに今日の日付である。そこから慎重に指をずらして、いち、にい、と、幼い声が真剣に数えていく。そのたどたどしい言い方が心許なくて、グアドはつい自分の指を置いてしまった。
「十日後。そう、ここです」
 だが次の瞬間、ぱっと顔を上げた子供と目が合って、グアドは失言を悟った。しまった、余計な口を挟むのではなかった。普段は、この少年が何を考えているのかほぼわからないグアドだが、それでも今、彼を見上げる深い藍の双眸に過ぎった影に気付かないほど鈍くもない。
「ああ、申し訳ない。本当に――せっかちは、私の度し難い欠点の一つなのです。どうにかして治したいと思ってはいるのだが、生まれついての悪癖は、どうにも厄介なものでして。どうか、お許しください」
 急いで謝ったが、ライオールはうんともすんとも答えなかった。机の上のペンを取り上げると、十日後の位置に、インクたっぷりの黒丸を書き入れる。グアドは眉をひそめた。。一体、どういう意味なのか――もちろん、彼の帰還日に印をつけたのだということはわかっているが、この少年はどういうつもりでいるのか。何も帰還を楽しみにしていてほしいなどと高望みはしないが、それにしてももう少し反応がほしい。
 その作業も終わってしまうと、二人の間には再び沈黙が戻ってきた。ライオールは机を離れ、所在なさそうに立っている。視線を合わせない少年の様子に、グアドの方も話を切り上げて退出したくなったが、そこでようやく、まだ本来の用件を話していないことを思い出した。
「そう、それでですな。実は、陛下にお願いがあるのです」
 そう切り出すと、少年は途端に顔を上げた。沈んだ色合いの瞳に、ちらりと光が輝く。
「おねがい?」
「私がここを離れている間に、いくつか陛下にご臨席を賜りたい式があるのです」
「ごりんせき」
「ああ、その、いらしていただきたいということです。陛下にお会いしたい者たちが、順番に御前に参りますから、静かにお座りになって、彼らの話をお聞きになっていてほしいのです」
 ライオールはすでに、それがどういうものなのかよくわかっているはずだ。戴冠式からして、駆け付けた王国中の貴族たちが、序列に従い延々と臣従の誓いを立てるのを、何時間も見ていなければならなかったのだから。そしてグアドが驚いたことに、ライオールは何の不満もこぼさず、淡々とそうした儀式をやり過ごしていったのだった。もちろん、じっとしているのに耐えかねて足をぶらぶらさせたり、疲れと退屈さを隠せず欠伸を漏らしたりしていたが、癇癪を起こして泣き喚いたり、走り回ったり駄々をこねたり、グアドが七歳児に対して当然あり得ると恐れていたようなことは一つもしなかったのだ。
 子供には詳しくない、はっきり言って何もわからないグアドでも、これが尋常のことではないというくらいの察しはつく。感情の薄い、捉えどころのない少年だが、辛抱強さという点では際立ったものがある。
「本来なら、私がお側にいて取り仕切るべきなのですが、このように急に出かけなくてはならなくなってしまったもので。もちろん、担当の者にはよく申し伝えておきますから、ご不自由をおかけすることはないと思いますが……私がおらぬ間にも、お務めをお願いしてもよろしいでしょうかな」
 しかし、グアドが多少ためらいながらそう告げた途端、ライオールはぱっと視線を上げた。まっすぐに彼を見返す瞳がきらりと光る。この少年の顔には、ついぞ見たことがない輝きを見て取って、グアドは密かにたじろいだ。それは期待、喜びの光だ――彼が離れてしまうから。
「やる」
 やがてライオールは、きっぱりとした口調で言った。
「一人でも、ちゃんとできる。だいじょうぶだよ」
「何か困ったことがあったら、お側の者にお伝えください。私も移動の都度、王宮には知らせるつもりですから、すぐに連絡がつきます」
「いい。だいじょうぶ」
 少年の頑なな表情は、明らかにそれ以上の念押しを望まないものだったので、グアドは開きかけた口を閉ざすよりなかった。まあいい、と、内心で呟く。肝心なのは、王の側付きの連中によく言い含めておくことだ。七歳の子供に何をどうにかできるわけもないのだから、この子が何を言おうと、どんな心づもりでいようと、どうだっていいことだ。
 どうだっていい、には違いない。だが……。
「……では、そのように。よろしくお願い致します」
 他の言葉は見つけられず、結局グアドはそう言って、幼い王の御前を辞した。この少年と顔を合わせるときにはつきものの空しい徒労感を、今日も覚えながら。

     *     *     *

 新摂政の『ちょっとした』遠出は、瞬く間に王都とその周辺に知れ渡った。もちろん、グアドの方で殊更に喧伝したわけではない。新摂政の一挙手一投足が気になって仕方のない連中は、ちゃんと独自の情報網を持っているものだ。わざわざ知らせてやるまでもない。
 しかし、そうまで彼の動きを窺っている割に、この行動は人々の予想外であるらしかった。王都を出た摂政の一行に立ちふさがる者もなく、それまであった好ましからざる動きもぴたりと止んで、グアドは多少拍子抜けの気分であった。もし彼が新摂政の政権の転覆を望んでいたならば、この機に王宮を狙い、幼い国王の身柄を手中にする方策でも考えそうなものだ。そういうこともあり得る、むしろそうなれば、はっきりと敵を名指しして捕らえられる好機とさえ思い、王都ではそのための策も講じておいたのだが、どうもこの様子では、幸か不幸か策の出番はないらしい。
 そもそも、この不穏な動きの中心と思われたダーリッシュ公爵が、てんで意気地のない有様であった。王都を進発したグアドが、他へは目もくれずまっすぐ公爵領を目指したことによほど動揺したらしい。あの高慢で鼻持ちならない男が、彼の訪いを慌てて迎え入れ、新摂政公が自らおいでとは甚だ光栄だとか、実は体調が優れないのだ、新王陛下の戴冠式を最後まで見届けられなかったことは一生の悔いであろうとか、聞いてもいないことをペラペラと並べ立てるのには、グアドの方が鼻白むくらいだった。こんなわざとらしい遜り方をすれば、洒落にならないほど疚しいことがあるのだと、自分から白状するようなものではないか。
 とはいえこの様子では、それがどのような企みであろうと、準備万端とは程遠いことは確かだ。当たり障りのない会話の中にも、グアドはいくらかの言質を取り、配下に命じて、それを密かに広く触れ回った。ダーリッシュ公爵は目下、新摂政の権威に対する、最も目に付く旗印だった。彼を担ごうとしている者が誰か、どれくらいいるのか確かにはわからないが、この旗は使えないとなれば、しばらくは動きが取れないだろう。
 公爵領を出て、周辺のいくつかの有力諸侯の地所へも足を運んでみたが、どこも同じようなものだった。誰もが表面上は快く、恭しく一行を迎え入れ、新たな権力の前に頭を垂れた。誰もが、彼の視界の範囲では、決して目立つまいと心に決めているようだった。
 そうした人々の喜ぶべき――あるいは、当てが外れたとも言うべき――従順な振る舞いのおかげで、旅程は想定よりもはるかに難なく進んだ。王都を出て八日目には、予定していたほとんどの場所への訪問が終了した。急げばその日中には王都へ帰還できると、一行の行程を取り仕切る護衛隊長に告げられたグアドは、しかし少し考えて首を振った。
「いや。もし時間に余裕があるなら、もう一つ、訪ねておきたいところがあるのだ。諸君には面倒をかけるが、まあ、当初の予定よりはずっと楽にきたのだ、文句もあるまい。……口実に使わせてもらったからには、それなりに礼を尽くさねばな」
 王都へ至る街道を北へ逸れ、森の中の小道を進む。普段は、農作業用の荷車か、行商人の馬車くらいしか行き来はないであろう鄙びた道の先には、小さな村があった。ウルヴァというその名前を知る者は、おそらく王都にはほとんどいまい。王国中どこにでもある、何の変哲もない村の一つだ。
 王宮ではごく普通の、しかしこの辺りではまずお目にかからないような豪奢な馬車、それを物々しく武装した兵士の一団が前触れもなく村の広場に乗り入れたので、村人たちは肝を潰したようだった。遊んでいた子供たちは目を丸くしてその場に立ち尽くし、慌てふためいた大人たちが、その腕を引きずって家の中へ追い立てる。平穏な村の日常を大いにかき乱したことに多少の罪悪感を覚えながら、グアドは馬車を降りた。村人に何の危険もないことを説明するよう側付きの一人に命じ、彼自身は少数の護衛を伴って、馬に乗り換え更に奥へ向かう。村の中心から離れた丘の上に建つ、こぢんまりとした荘園屋敷が、彼の目的地だ。
 丘陵のなだらかな斜面に広がる、よく手入れされた牧草地を上っていくと、木造りの門が見えてきた。門自体は、素朴な田舎の風情に相応しい簡素なものだが、屋敷を取り囲む柵には要所要所に鋭い鉄棒の補強がされており、招かれざる者はおいそれと侵入できない作りになっている。いかにも家主を彷彿とさせるその様に、ついにやりとしたグアドだが、近づくにつれ、門の向こうで何か起きているらしいことに気が付いた。甲高い声を上げて、何やら言い争っている――子供たち。
「……から! あっち行ってろよ! おれ一人でだいじょうぶなんだから!」
「やだ! あたしもたたかうんだもん! ハルばっかりずるい!」
「ずういー」
「うるさい! レーシャ、いいからリオンを連れて家帰れよ! 父上はおれに……」
 だがそこで、ようやく向こうも、こちらの接近に気がついたらしい。口論の声はぴたりと止み、続いて、門の格子扉が勢いよく開いた。真っ先に飛び出してきたのは、少年だ。歳はまだ十にもなっていないだろうが、訓練用の木剣を握り締め、口を引き結んで、近づいてくる一行を睨む。次いで出てきたのは少し幼い少女で、こちらは具合の良さそうな木の枝を手にしていたが、見知らぬ騎馬の一行を目にすると、目と口をまんまるにしてその場に立ち尽くした。その背中に隠れるようにして、更に小さな子供が、恐々と様子を窺っている。
 おそらくこの子供たちも、村人同様、こうした物々しい集団を目にしたことはほとんどないに違いない。武装した護衛など、かつての彼らの父親に比べれば、羊のように穏やかなものだが。微かな寂寥を振り払うように、グアドは小さく笑いをこぼして、よどみない動きで馬を降りた。まず、最も年長の少年に話しかける。
「ジェイス・オーレン殿はおられるかな。急な来訪で申し訳ないが、先触れをする時間がなかったものでな」
「あ、あんただれ……ですか」
「おお、これは失礼した。グアド・ウォルブラッドと申す。お父上の古い知り合いだ。君は、ハルバートかね」
「おれのこと、知ってるの?」
「昔、会ったことがある。君はまだ小さかったから、覚えてはいないだろうが。そっちのお嬢さんは……エレーシャ、だったか? 君とは、直に会うのははじめてだ。最後に私がここに来たとき、君はまだ母上のお腹の中にいた」
 続けて、少女に向かってそう言うと、彼女は丸いはしばみ色の目を瞬かせた。この娘の瞳の色が、父親に一番よく似ている。
 その少女の背後から、突然、隠れていた小さい頭がぴょこんと突き出してきたので、グアドは思わず笑ってしまった。どうやら、次は自分が声を掛けられる番だと思ったらしい。
「君とは正真正銘、まったくのはじめてだな、坊や。元気そうないい子だ。名前は?」
「リオンだよ」
 答えたのは姉のエレーシャで、本人は再び姉のスカートの陰でもじもじしている。しかし何も主張したくないわけではないようで、丸い指を器用に三本立てて、ぐっと前へ突き出した。意味が解らず、首を傾げるグアドに、しっかり者の姉が言い添える。
「さんさいだよ。あたしはろくさい」
「おお、なんと。もうそんなになるのか」
「ハルはね、もうじきおたんじょうびがきたら、きゅうさいになるよ。いやだな、ハルはいばりんぼなのに、きゅうさいになったら、きっともっといばりんぼになるよ」
「ばかレーシャ!」
 すかさず兄が怒鳴るのに、しかし妹も負けじと舌を突き出す。俄かにはじまりそうな兄妹喧嘩の気配に、グアドは慌てて間に割って入った。
「ああ、ああ、喧嘩は感心せんが、どうしてもやるなら後にしてくれ。それより、父上に取り次いでくれないか。私を入れていいかどうか、父上に訊いてきてくれてもいい。その間、ここで待っておるから」
 子供たちは、はたと目下の問題を思い出したようだ。先ほどよりは多少警戒を減じた眼差しで、それでもまじまじとグアドと一行を見つめていたが、やがてハルバートが、しかつめらしく頷いた。
「……わかった、きいてくる。でも、いいって言うまで、入っちゃだめだからな」
「もちろんだとも」
 少年は、グアドの背後の護衛兵たちにもう一度落ち着かない視線を投げると、意を決したように踵を返して走り出した。下の二人も、兄に続いて、ぱたぱたと転がるように駆け去る。グアドは兵たちに軽く頷いてみせた。どうせ、いくらも待つことはあるまい。
 果たしてその予想通り、少年はすぐに戻ってきた。今度は弟妹はおらず、代わりに下男と思しき年配の男を伴っている。グアドの前までやってくると、男は慄くように深々と頭を下げ、少年は、今度はうって変わった神妙な態度で彼に告げた。
「どうぞ、お入りください、ウォルブラッドこうしゃくかっか。その……さっきは、大変失礼しました。おゆるしください」
「構わんよ。君は自分の役目を果たしたのだろう。家族とこの屋敷を守るために」
 少年の頬がぱっと紅潮する。彼を見上げた瞳には、驚きとともに、確かに誇らしげな自負が見える。わずかな間を措いて、ハルバートは更に続けた。
「……父上が、ここまで出ておむかえできずにもうしわけありませんと言っていました。父上は、足が良くないから」
「そんなことは、少しも気にすることはない。古い友だと言っただろう、よく知っておるよ。最近は、父上はどのような具合かね。古い傷以外に、体を壊すようなことがなければいいが」
「元気です。きずがひどくいたまない日は」
 下男がグアドの乗ってきた馬の手綱を取り、他の護衛たちを厩と休憩所に案内するという。歓待をありがたく受けるようにと命じ、グアドはハルバートとともに、屋敷の正面入口へと向かった。少年が先に立ち、やはり素朴な、古めかしい一枚板の扉を開ける。
「何と、これはこれは……まさか本当に、新摂政公おん自ら、このような鄙の我が家に足をお運びくださるとは。実に恐悦至極に存じますよ」
 慇懃な言葉には、しかし微かな笑いの気配が混じっている。扉に足を踏み入れたグアドは、奥から歩いてくる目的の人物を見つけた。左手に杖を手にした、温和な顔立ちの男。グアドとは三つか四つほどしか変わらなかったはずだから、もう若者と言える歳ではないが、それでもその雰囲気は記憶にあるものと変わらない。グアドは思わず歩み寄ると、親しみを込めて抱擁した。
「ジェイス! 久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「私が足を引きずって歩く姿を見て、本当に元気か尋ねもせずそう言う人は、あなたくらいのものですよ、グアド」
「はっ、何を尋ねる必要があるのだ。さっきそこで、生きた証拠にお目にかかったばかりだぞ。三人目とはな! まったく、元気でよろしくやっているようじゃないか、ええ」
「ああ、そう、リオンのことは、お知らせしたいと思っていたんです。でもあなたときたら、西のソディヤークを離れたら、今度は中部ハンゲルの駐屯地だとかで、ちっともじっとしておられないでしょう。その上、やっと王都にお戻りになったと思ったら……いよいよ我が家の些事など、お伝えするどころではありませんよ」
「おまえの不義理を私のせいにするな」
 とっさに返した言葉は、自分でも意図しなかったほど尖った響きで、グアドは急いで口を閉ざした。はるばるここまでやってきて、いきなり旧友に気まずい思いをさせたいわけではない。それも、相手に責めるべき点は何一つないと、彼自身でさえわかっていることで。
 グアドの声音ににじんだものに気付いたかどうか――この男のことだから、ほぼ確実に気付いたに違いないが――ジェイスは気分を害するようではなかった。どころか、穏やかな笑みをますます深くして、それはすみません、と朗らかに詫びた。
「ですが、こうして直にお目にかかれたのは望外の喜びです。私もですが、ナタリアも――妻も、いつか再びお目にかかってご挨拶できる日を、心待ちにしていましたから」
 言われてようやく、グアドは彼女の存在に気付いた。ジェイスより少し離れて、たおやかな婦人が立っている。栗色の髪を楚々と結い上げたその女性の顔には、確かに見覚えがあって、グアドは内心の動揺を悟られぬよう、平静な表情を保つよう努めなければならなかった。最後に彼女に会ったとき、状況は必ずしも好ましいとは言えなかった。
 長く彼の副官を務めていたジェイス・オーレンが、戦場で瀕死の重傷を負ったのは六年前だ。王国の辺境地域を荒らし回る賊どもが、実は長く大陸の覇権を争ってきたバラン王国と通じているという情報があり、その連絡を絶つため、あるいは証拠を握るため、グアドは最も信頼のおける部下たちに兵を預けて敵に追い落としをかけ、そしてジェイスの隊が最もその危険を被ることになった。多くが死んだ中、ジェイスは何とか一命を取り留めたのだが、それも代償あってのことだった。左足を失い、剣を持つ右腕も満足には動かなくなった。腹部に受けた傷のせいで、歩くことにも難儀する。
 何とか傷口は癒え、命の危険は脱した後、グアドは彼をこの屋敷まで連れて帰った。迎えに出たのは彼の妻のナタリアで、当時は身重の身体だったが、彼女の様子もまた、夫に劣らず悲愴なものだった。子を宿す腹とは不釣り合いなほどに痩せ、青白い細面には血の気というものが見えない。すでに、夫の身に起きたことについての知らせは届いており、彼女は憔悴の極みにあるようだった。互いに支えなしでは立ってさえいられないような二人が、涙にくれて抱き合う様は、グアドにとっても胸を締め付けられる光景だった。
 しかし、グアドにできることはもう何もなかった。失ったものは戻らず、償うこともできない。それでも、何かできることがあればと言いかけた彼を、ナタリアはきっぱりと遮った。決して無礼な態度ではない、抑制の効いた、控えめな物言いではあったが、それでもその目に宿る輝きには、何人も寄せ付けぬ激情が現れていた。悲嘆、苦悩、絶望――すべてを焼き尽くすほどの怒り。
 だが今、小さな子供たちを左右に彼の前に立っている女性は、もうあのときの目をしてはいなかった。その青い瞳の奥には今も、癒えることのない悲しみが宿っているが、しかしそれはもう、むき出しの傷ではなかった。あの頃よりも丸みを帯びた顔に微かに笑みを浮かべ、ナタリアは優雅に一礼した。
「ようこそおいでくださいました、公爵閣下。こうしてご壮健なお姿を拝見できて、大変嬉しく思っております」
「ナタリア夫人。あなたも、息災であられたか」
「はい、おかげさまで」
 型通りのやりとり、しかしそこでナタリアは言葉を切った。少し逡巡するような間があった後、彼女は再び、柔らかな声音で続ける。
「先には、私どもに一方ならぬお力添えをいただいて、本当にありがとうございました。こうして、今もジェイスと暮らしていられるのも、閣下のおかげです」
 一瞬、何のことを言われているのかわからなかったグアドだが、すぐに思い出した。ジェイスが負傷して、ここへ戻って少ししてから、夫婦の間には問題が発生したのだ。といっても当事者の問題ではなく、他人の横槍だ。元々ナタリアは資産家の娘で、彼女自身の名義でそこそこの財産があるのだが、そこに目を付けた親戚が、婚姻の解消を迫ってきたのだった。もはやジェイスには未来はない、ナタリアは自身の身分に相応しい、健康で、彼女と財産を守れる男と一緒になるべきだと。
 おそらくは深く悩んだ挙句のことに違いない、控えめに窮状を伝える知らせを受け取って、グアドはできる限りのことをした。彼自身、そうしたことには全く明るくないながら、伝手を辿って、彼らの力になれそうな法律家を探し出した。ついでに、当時は存命で、ウォルブラッド公爵家の当主であった兄にも耳打ちしておいた――彼の兄は、決して悪い人間ではなかったのだが、他人の揉め事が、正確に言えば他人の揉め事から漁夫の利をかすめ取ることが、何にも代えがたい娯楽という人間だった。ナタリアの業突張りの親戚などは、いかにも兄好みの玩具に思えたのだ。その後、兄は「もちろん、おまえの友達には何もしやしなかったとも。もちろんさ」などと言っていて、グアドに一抹の不安を抱かせたものだが、この様子では確かに、ジェイスとナタリア夫婦には、非道なことはしなかったのだろう。
「いや、力と言うほどの力添えはできていない。私は、戦場のこと以外はまるで門外漢なのだ。ただ、それでも何か役に立てていたならば、嬉しく思う」
「お兄様の、先の公爵様にも、大変お世話になりました……お悔やみ申し上げます。こんなに早くお亡くなりになるなんて。いい方でしたのに」
「あの兄に、そう言ってくれる人は珍しい。だいぶ変わり者だったからな。だが、ありがとう」
 彼の謝辞に、ナタリアは深々と頭を下げる。再びジェイスが口を開いた。
「せっかくお越しいただいたのに、立ち話も申し訳ないですね。よろしければ、私の書斎へいらっしゃいませんか。おまえたち、うるさくするんじゃないよ。遊ぶなら外で遊びなさい」
 後半は子供たちに向けた言葉だ。珍しい客を興味津々に眺めていたエレーシャとリオンは、不満を露わにする間もなく、母に急かされて屋敷の奥へと追いやられた。しかし、一人だけは立ち去らずに、その場に残っている。
「ハル。どうしたんだ?」
 その様子を目に留めた父親が尋ねる。少年はなおも躊躇う様子だったが、やがて意を決したように、まっすぐグアドに視線を向けた。
「あの、こうしゃくかっかは、国王へいかのせっしょうだって聞きました。新しい王様は、おれくらいの子どもで、だから王様が大人になるまでの間、あなたが代わりに、王様の仕事をするんだって。そうなんですか?」
 ハルバート、と父親が窘めかけるのを、必要ないと手を振って止める。グアドは少年に向き直った。
「そうだ。ライオール陛下は七歳におなりだ。君より年下、エレーシャよりは上になるのか。私は先王セディエル陛下の遺詔により、今上陛下の摂政となるよう命じられた」
 残念ながら、と付け加えるのは止めておいた。それにしても、この子供は何を言いたいのだろう。まさか、旧友の幼い息子が、彼の摂政位に反発しているということもあるまいに。
 だが、次にハルバートが言ったのは、グアドの予想しなかったことだった。母親譲りの青い瞳を輝かせ、少年は更に尋ねたのだ。
「その、ライオールへいかは、どんな方ですか?」
「どんな……?」
 とっさに言葉が出てこず、グアドは答えに詰まる。それを、叱責の気配と取ったのか、ハルバートは慌てて、すみませんと謝った。
「失礼なことをきいたんだったら、もうしわけありません。あの、おれ、兵士になりたいんです。大きくなったら、軍に入って、国王へいかにお仕えするんだ――父上みたいに」
 なるほど、そういうことか。父親から照れくさそうに顔を背ける少年を見やって、グアドは合点した。息子にとって、父はいつでも英雄なのだ。
 とはいえ、この質問には困った。グアドは内心で自嘲する。ライオール、あの子がどんな子供なのか、彼ほど切実に知りたいと思っている人間が他にいるだろうか。
「……いい方だ。聡明で、しっかりしておられる。いずれは立派にご成長なさって、この国をもっとよいものになさるだろう」
 何とか思いついた言葉は、彼自身にも随分とありきたりな、当たり障りのないものに聞こえた。だが、他に何と言い様があるだろう。どうにも扱い兼ねるほどに大人しく、何を考えているかわからない、どこか得体のしれないところがあるなどと言えるものか。
 しかし、彼のそんなぼんやりした答えでも、未来を夢見る少年には十分に刺激的だったようだ。その幼い顔に憧れと期待が満ちるのを見て、グアドはふと付け加えた。
「いつか、君が一人前の戦士となって、陛下にお仕えしてくれたなら、あの方はさぞお喜びになるだろう。陛下には、君のような若者が必要なのだ。同じように未来のある、同じ時代を生きる者が」
 そうに違いない。不意に、出発前の王宮での光景が思い出される。大きな部屋の窓辺で一人、玩具の兵隊を整列させていた子供。あの子は一人だ、この国に並びない、唯一の存在として――だがそれは、あの少年にどう影響しているだろう。思えば、ライオールが同じくらいの年頃の子供と一緒にいるところを、これまで見たことがない。もちろん、適当な家柄の貴族の子弟が学友として選ばれているのだろうが……王宮へ戻ったら、まず確認してみなければと、グアドは密かに脳裏に書き留めた。
 一方で、ハルバートはその言葉にますます興奮したようだ。顔を輝かせて更に何か言いかけるのを、しかし父親の、穏やかだがきっぱりとした声が遮った。
「ハル、もう十分だろう。公爵閣下にお礼を申し上げて、おまえも行きなさい」
 決して咎める響きではなかったが、どうやら父親の言葉は絶対であるらしい。少年は一瞬、残念そうな表情を見せたが、すぐに礼儀正しく礼を言って、母と弟妹たちの後を追って去っていった。
「すみません、息子がお引き留めしてしまって。さあ、こちらへ」
 そう言ったジェイスが、杖を頼りに足を引きずりながら歩く後を、グアドは黙ってついていった。その足取りが、記憶にあるよりも重く見えることに気付き、彼の胸のうちも重くなる。もっと早く訪ねるべきだった……だがそれは不可能なことだったと、彼自身も、ジェイスもよく知っている。軍に身を置く人生とはそういうものだ。今、こうして再会できたことを、素直に喜ぶしかないのだ。
 案内された部屋は、広くはないが、居心地のよさそうな場所だった。布の張られた格子窓から差す光は、明るすぎも暗すぎもせず、室内を程よく照らしている。剝き出しの床も、武骨だがしっかりとした作りの椅子も、どれも年季の入った風情ではあるが、どこもかしこも手入れが行き届いて、何ともくつろげる雰囲気だ。
 部屋に足を踏み入れると、ジェイスはそのまままっすぐ奥の椅子へと向かった。そこが彼の定位置なのだろう、大きな詰め物の置かれた椅子に、どっかりと座り込む。
「ああ、お先に失礼しまして、お許しを。どうぞ、お好きなところでおくつろぎください。といっても、お選びいただけるほど広くもありませんが」
「ふん、ということは、この辺りのものも、好きにして構わんのだろうな」
 手近な卓の上には、既に飲み物が準備されていた。王宮や、貴族の屋敷で味わうような芳醇な葡萄酒ではない。程よく冷えた安価な麦酒と、きつめの果実酒――彼の好みだ。
 相手の意見は聞かないまま、グアドは杯を二つ満たすと、一つを旧友に差し出す。ジェイスは感謝して受け取ったが、背もたれからわずかに体を起こす動作でさえ苦痛を伴うのだとグアドにはわかった。
 そして、そうして観察されていることを、ジェイスの方も気付いている。一息で杯を干すと、満足したため息をついてから苦笑した。
「ここへ帰ってきた頃は、もう少し動けたんですが。傷というよりは、体全体の問題でしょうね。すっかりガタがきて」
「医者にはかかったのか」
「ええ。どこも特別に悪くはないし、古傷も悪くなっているというわけではないそうです。ただ、どうにもならないだけです。年ですねえ、衰えるのが、年々早くなる」
「つまらんことを言うな。おまえは私より年下なのだぞ」
「あなただって、歳を取りましたよ。髪に白いものが増えて。ああ、そんな顔で睨まれても困ります。我々は皆同じではないですか。誰だって、若者でい続けることはできない。この世で数少ない、誰にとっても公平なことです」
 軽い笑いとともに、冗談のようにそう言ったジェイスは、そこでふと表情を改める。穏やかな声音はそのままに、そこに真摯な響きを乗せて言葉を継いだ。
「ですから、グアド、あなたが摂政位をお受けになって王都に戻られたのは、本当にいいことでした。若い兵どもに混じって、泥まみれになったり血まみれになったり、馬鹿騒ぎをして喚き散らしたりするのは、もはやあなたがなすべきことではないのですから」
 反射的に怒鳴りつけそうになるのを、すんでのところで堪える。一瞬にして十年も時が巻き戻ったような感覚に、グアドは軽い眩暈さえ覚えた。この男は相変わらずだ。温厚な、善良そのものみたいな顔をしながら、一番彼を激昂させる点を的確に突いてくる。
 そして、そんな彼を副官として側において、癇癪を起こして怒鳴り散らしている間に、グアドの方も学習した――ジェイスが指摘し、彼を激昂させる部分は、他ならぬ彼自身が割り切れない思いを抱いているところなのだ。結局、グアドは大きく息をついて癇癪の衝動をやり過ごすと、唸るように言い返した。
「受けたわけではない、断る術がなかったのだ。……私が辿り着いたとき、王はすでに亡くなっていた」
 亡き先王への言及には、ジェイスも表情を曇らせた。目を伏せて、小さく祈りの言葉を呟く。
「おいたわしいことです。あなたの言い方に従えば、私よりお若くてあられたのに。ですがそれならば、あなたを摂政にご指名になったのは、あの方がこの世でお望みになった、本当に最後の希望であったのですね」
「とんだ悲劇だ――最後の最後で、とんでもない過ちだ」
 低く呟き、一気に麦酒を飲み干すと、グアドは遠慮なく、今度は強めの酒に手を伸ばした。思えばこの数か月、こんなことでさえしてはいなかった。酒を口にする機会といえば、王宮で貴賓の集う公の会があるときか、政情にかかわることで貴族の屋敷を訪れたり、逆に招いたりするときだけだ。そもそも、自分だけの楽しみを満喫するような余裕がない。王宮の一画に居を移したばかりで勝手がわからない上、いつ何時、どんなことでも起こり得ると思えば、いよいよ飲んだくれてはいられない。
「一体、私に何ができる。私に、何をお望みだったのだ――私はただの戦争屋だ。戦場のことしかわからんし、それしかせずにここまで来た。国王陛下に誓いを立てた兵として、王国の剣とも盾ともなろう。だが、こんなことは……こんなことは、私の手には余るのだ」
「そんなこともないと思いますけどね。人を組織して、効率よく動かすという意味では、軍隊も国も同じです。あなたは長く、軍をよく治めてこられた。レイヘイヴでは、総督もなさったじゃないですか。あのときと同じですよ、少し規模が大きくなっただけです」
「レイヘイヴは、おまえが上手くやったんだ。そんなことはわかっているだろう」
 ジェイス・オーレンには、もちろん個人としての武勇も備わっていたが、最も傑出していた力は、その緻密な計画性と組織力だった。グアドが兵を鼓舞し、士気と規律を保ち、瞬間の判断を積み重ねて戦場を突破する一方で、人員と物資を適切に配置し、最も効率的なやり方で進軍を支えるのがジェイスの才覚だったのだ。これは、占領地の統治ともなれば実に得難い能力で、レイヘイヴで細かな実務に当たっていたのはほとんど彼だった。グアドは総督という、睨みを利かせる船首像をやっていただけだ。
「あなたのために仕事をする人間を、また見つけてくればいいだけでしょう。あなたのお得意じゃないですか。輜重隊の最後尾で、荷馬車の尻を蹴っ飛ばしていた私を見つけたようにね」
「王宮が、おまえがそんじょそこらに転がっていてくれるような場所なら、そうするとも。ジェイス、あそこは戦場とは何もかもが違う。目に見える脅威がない、戦うべき敵軍はない、なのにそこいら中、敵ばかりなのだ」
 戦場では、戦うべきは敵軍だ。味方は味方、少なくとも敵軍と対峙している間は、必ず味方と信じられる。旗の色が同じである以上、命運は一蓮托生、これほどわかりやすいことはない。
 だが、王宮の中に旗はない。誰も味方ではなく、誰が敵かもわからない。目的さえ勝利とは限らない。権力を求める者、利を求める者、誰かを貶める者、不和を望む者、各々が自分だけにしか理解できない動機で動き、手を組んだり裏切ったりする。複雑で無秩序で、あまりにも野蛮な混沌。
 そんな中で、彼は一体何をすればいいのか。彼にできそうなことなど、腹黒いところのありそうな諸侯を、片っ端から剣の錆にしていくくらいしか思いつかない。
 しかし、グアドがそう言って杯を投げ出すのにも、ジェイスは表情を変えなかった。どころか、穏やかな笑みをますます深めて、確信を込めた口調で言う。
「もし、王宮があなたの仰る通りなら、それこそあなたが必要な理由ではないですか。ライオール陛下には、あなたが必要です――旗を高く掲げ、その色を変えず、常にそこに立ち続ける方が」
 今度こそ返す言葉を失って、グアドは黙り込んだ。怒鳴り散らしてみるまでもない、実はそれこそ、彼の繰り言の全ての源だと、彼自身はっきりと自覚できたからだ。
「? どうしました」
「……本当に、おまえがあそこにいてくれたら、どんなにいいかな、ジェイス。私は駄目だ、向いていないんだ――子供というのは」
 ジェイスは一瞬、きょとんと目を瞬いた。グアドの鬱々とした表情を怪訝そうに眺めていたが、やがて吹き出す。
「何と。新兵どもには悪魔とも、地獄の王とも恐れられたあなたに、そうまで手を焼かせる方なのですか、新王陛下は。それはなかなか、先行きが楽しみですね。我が国の未来は明るい」
「おまえが想像しているようなことではない。手を焼かせるようなことは、何一つなさらんよ。大人しくて、聞き分けの良い方だ……私がいようがいまいがな」
 むしろ、いない方がいいのかもしれない。父親の遺言に強制されて、本人の意志や好き嫌いなど関係なく、見知らぬ他人を後見人に持つ羽目になった少年には、さぞいい迷惑だろう。グアドは少年との最初の出会いを語った。父親の亡骸の側で、泣きもせずただ大人しく、彼の到着を待っていた子供。王宮で日々を過ごす間にも、その態度は変わらなかった。何を言われても、淡々と頷くばかり。彼の前では従順で、わがまま一つ言わず――ただの一度も笑わない。
「まあ、わからんでもない。自分でも、子供に好かれるような人間とはとても思えんからな。躾のなっていない乱暴者を兵士に仕立て上げることはできても、子供の機嫌を取る方法は皆目見当もつかん。……王宮へ戻ったら、誰か気の利いた世話係でも探すかな」
「それはいけません」
 何気ない呟きに、不意に鋭い言葉が返ってきて、グアドははっとして相手を見やった。いつの間にか、ジェイスはその顔から笑みを消して、じっと彼を見据えている。
「子供をそんな風に扱ってはいけませんよ、グアド。我らが主となる方であれば、尚更です。今、あなたの側から離すべきではない」
「なら、どう扱えというのだ」
 何をわかった風なことを。グアドは苛立って言い返した。そもそも側から離すも何も、あの子供が彼の側に寄ってきたことなど一度もないのに。
「あなたが子供のようなことを仰ってどうするんですか。まさか陛下に、ご機嫌を取ってもらうおつもりではないでしょう。あなたが話しかけるんですよ」
「やらなかったと思うのか!? もう話の種なんか、とうの昔に尽きたわ」
 子供向けの話題など、何も知らないし思いつかない。あの少年が何を考えているのかわからない。三か月前、はじめて顔を合わせるまでは、お互いに知りもしなかった。彼らをつなぐのは唯一、先王セディエルの存在のみ……だがさすがにグアドも、父を亡くしたばかりの少年の前で、徒にその名を口にはしないくらいの思慮はある。
「話の種! なんて馬鹿なことを。あなたが、毎年毎年送り込まれる新兵どもを仕込んでいたとき、話の種なんか探していたとは思えませんでしたけどね」
「それとこれとは関係ないだろう。兵卒などはいくらでも怒鳴っていられるが、あの方は王だ。王で、子供だ」
「同じですよ。あなたは相応の理由がない限り、彼らを怒鳴ったりはしなかった。一人一人をよくご存じで、図々しい男には容赦せず、気の弱い者のことはいつも気にかけていらした。それに、あなたはいつか、畏れながらライオール陛下も怒鳴らなければならなくなります。あなたは摂政として、あの方を一人前に育てなくてはならない。子供に本気でものを伝えようとしたら、それは怒鳴るくらいはありますよ」
「おまえが、怒鳴るのか? あの子たちを?」
 これはいささか意外な発言で、グアドはそう問い返してしまった。彼の知る限り、ジェイスは争いごとの嫌いな男だった。もちろん、長く軍にいて、降りかかる火の粉を払うくらいの腕も強さもあったが、声を荒らげて罵り合うよりは、飄々とその場を切り抜けて、丸く収めていく方が性に合っているようだった。誰かを怒鳴るところなどほとんど記憶にない、まして子供相手など想像がつかない。グアドの驚きに苦笑を浮かべて、ジェイスは、まあ、たまには、と肩を竦める。
「こちらとしても、あまりやりたくはないんですが、何せ子供というのは、たとえほんの少し先のことでも、ちっとも考えられないものなんです。何となく黙って森に入り込んだり、それで獣に襲われたり、何となく沢に降りて何となく溺れたりするんです。こっちもこの体ですから、何かあっても助けてやることはできませんからね。どんな手を使っても、本気だとわかってもらわないと。……あまりいい手とも思いませんが、仕方がありません」
「いい子たちだ。おまえの言いたいことは、よくわかっているだろう。馬鹿な真似はせんよ」
 門前に出てきた子供たちを思い出す。ハルバートはすでにあの歳で、一家を守る責任を果たそうと思っているようだった。それが、体の不自由な父を庇って、という様子なら気の毒に見えたかもしれないが、そうでないことは、少年が父に向ける眼差しを見れば明らかだ。父親が好きで、尊敬していて、だからこそ、何者かになりたいと願うのだ。
 他の子供たちにしてもそうだ。グアドの一行が近づくのを警戒はしても、心底恐れてはいなかった。両親を信頼している子供は、むやみに大人を恐れない。子供なりに落ち着いて、ものを考えることができる。
 我が子たちへの賞賛に、ジェイスは顔を綻ばせた。ありがとうございます、と誇らしげに呟いて、しかしすぐに真顔に戻る。
「ですがあの子たちは、特に優れても、変わってもいません。ごくごく普通の子供たちです。親に叱られれば泣きますが、叱られないのはもっとよくない。誰かが本気で、彼らのことを考えていると示さなければならない。誰にも叱られず、遠巻きにされて、まして、頼るべき大人から離されてしまえば、一体その子は誰を信じて生きていけばいいのですか」
「私は……あの方の父親ではない」
 ジェイスが何を言おうとしているのかはわかる。しかしそれは、グアドにとっては俄かに受け入れがたいことでもある。彼は父親ではない、なったことも、なろうと思ったことすらない。ジェイスのように、父親になる才能のある男はいるものだ。だが彼は違う。
 ライオールの父親は、亡くなったセディエル王ただ一人。他の誰も、代わりになることなどできない――そしてそう思っているからこそ、少年は彼を受け入れずにいるのではないか。
 室内に、しばし沈黙が流れる。ジェイスは、グアドの答えについては何も言わなかった。ただ深く、ため息をつく。
「こう申し上げては、不敬なのかもしれませんが……。先程あなたは、先王陛下が何をお望みだったのかと仰いましたね。私には、よくわかるような気がしますよ」
「何だと」
「この国のことなんかは、関係ありませんよ。まあ、そう言ってはよくないですが、差し当たってどうでもいい。他のことはどうでもいいから――どうか、この子を助けてくれと」
「…………」
「ちょうど、うちの子たちと同じくらいですからね。私も、どうしても考えてしまう。もし今、私とナタリアがどちらも突然いなくなってしまったら、あの子たちはどうするだろうと。この世界に自分たちだけで放り出されて、どんなに恐ろしい思いをするだろうと」
 着るもの、食べるものに不自由するという話ではない。子供は脆い生き物だ。肉体と同じく、あるいはそれ以上に、心を守ってやらなければならない。怨念の森に迷い込まないように、悪意の泉で溺れないように、気を配ってやらねばならない。大人でも、足を取られればただではすまないそれらの罠に、子供の心は抵抗できない。もしかしたら、その後の一生をかけても抜け出せないかもしれないほどに、深く傷ついて囚われる。
「誰か、大人が必要なんです。強く、揺るぎなく常にそこにあって、支えとなる誰かが。私には、先王陛下のお気持ちがよくわかる。もし同じ立場なら、明日にも命が尽きるなら、私でも、あなたに子供たちを託したいと思いますから」
 それはおそらく、人生で受けるものの中で最高の賞賛の一つに違いない。グアドは、しばらくの間黙り込んだ。その賞賛を光栄と思う、しかし自分がそれに値する人間と確信はできない。常に揺るぎなくいられるなんて、そんなことはできるはずがない。許されるならすぐにでも、こんなことは止めにしたいと、ずっとそう思っている。
 けれど、それでも――もう、やるしかないのなら。
「……おまえの子供たちは皆、いい子だがな、ジェイス、この上、あの子たちまで面倒は見ていられんぞ。目下のところ、私はたった一人だけで精一杯だ」
「なかなかいい調子ですね。その意気ですよ」
「見損なったぞ、おまえがそんなに冷たい男だとは。この後王宮へ帰り着いた瞬間からどうしていいかわからん古馴染みが、伏して助けを乞うているのに、その言い草は情けないと思わんのか」
「いつ、伏して助けを乞うていたんですか?」
 それは気づかなかった、とジェイスは声を上げて笑う。古傷が引きつるのか腹を押さえ、それでもしばらく肩を震わせていたが、やがて何とか笑いを収めて言った。
「何も難しいことはありませんよ。お帰りになったら、しばらくの間、ずっと陛下のお側にいて差し上げればいいんです。簡単なことでしょう? あなた方はお互いを知る必要があるのに、物理的に離れていたら、わかるものもわかりませんよ」
「もう十分、話はしたぞ。この上何を知ればいいのだ」
「なにも、話をする必要はありません。別に黙っていても構わない、ただ、側にいればいいんです。そのうち慣れますよ、お互いに」
 いい加減なことを、と、グアドは内心で唸った。この男は、あの何とも言えない気まずさを知らないからそんなことを言うのだ……。
 しかし、彼がその文句を言い返すことはできなかった。突然、扉が叩かれる音がしたのだ。
「お邪魔してしまって、申し訳ございません」
 ジェイスの返事に合わせて、扉を開けたのはナタリアだ。その背後に、グアドが連れてきた護衛の一人が立っている。
「公爵閣下に、至急お伝えしなければならないことがおありだと、こちらの方が……」
「何事だ」
 グアドが立ち上がると、護衛兵は敬礼をした。しかしすぐには口を開こうとしない。その視線が、ジェイスとナタリアの方にさまようのを見て、グアドはすぐに言い足した。
「この者たちのことは構うな。他人に話を広げるようなことはしない。下手に外へ行くよりも、ここで話した方が安全だ」
 衛兵はなおも躊躇う様子だったが、彼にそう言われては従うよりない。早く言えとせっつかれると、威儀を正して口を開いた。
「王都から、急使が参っております。摂政閣下には、可能な限りお早くお戻りいただきたいとのことです」
 ぎくりと体が強張るのがわかる。王都で何かあったに違いない。一瞬のうちに、様々な可能性が脳裏に閃く。反乱か、災害か、国境のどこかで紛争でも起こったか。
 けれど衛兵が告げたのは、彼の予想したもののどれでもなかった。
「宮廷医師殿からの使者だそうです――国王陛下が、急な御病気で床に伏せられていらっしゃると」

     *     *     *

 傾きかけた夕日の色に染まる王宮の内庭は、ぞっとするほどあの日に似ていた。ほんの三ヶ月近く前、彼は同じように乱暴に馬を駆り立て、ここへ乗り入れたものだ。あの日、彼の王の命が尽きた日。
「どういうことだ!」
 王宮の北翼へ続く通路で宮廷医師の出迎えを受けて、グアドは思わず相手を怒鳴りつけてしまった。あの知らせを受けた後、ジェイス一家への辞去の挨拶もそこそこに、乗ってきた馬車も置き去りにして馬に乗り換え、まっすぐ王都を目指している間中、落ち着こうと心に言い聞かせ続けてきたが、あまり効果はなかった。胸に渦巻くのは衝撃と焦り――何よりも、恐怖。
 ――病気だと。
 そんなことがあるものか。王宮を出る前に顔を合わせたとき、ライオールは元気だった。病の兆候など一つもなかった。彼が離れている間に、一体何があったのか。
「急にお呼び立てしまして、申し訳ございません」
 宮廷医師は深々と頭を下げた。落ち着いた態度の老人で、すべて色が変わった白髪頭からはかなりの歳だと推測できるが、その動きは矍鑠としている。グアドが更に何か言う前に、さっと言葉を続ける。
「陛下のお命に別状はありません。少なくとも、今日明日にどうにかなってしまうというようなことではありません」
 その言葉は、彼をいくらか落ち着かせはしたが、しかし安心させもしなかった。グアドは眉をひそめる。今日明日に悪くなりはしなくても、明後日にはどうなのか。そもそも、何の病気なのか。
「病そのものは、ありふれたものです。腹にくる、子供にはよくある風邪ですな。普通なら、二、三日安静にしていれば、けろっと良くなるものなのですが……どうもご様子がおかしいものですから」
「様子がおかしい?」
 熱が下がらないのだと、医師は言った。子供はしばしば高熱を出すものだが、それでも風邪なら、三日もすれば次第に快方に向かいはじめるものだ。これほど長く高熱が続くのはあまり見ないことだと続けるのを聞いて、グアドは息を呑んだ。
「長く? 一体、いつからお悪いのだ」
「床に就かれてからは、今日で六日になりますか。詳しいことは、私もその場におりませんでしたのでわかりませんが、外国の使節と謁見されておられる間に、ご気分が優れなくなったそうで」
 彼が王都を離れてから、わずかに二日後だ。グアドは眩暈がするような衝撃を覚えた。彼が呑気に、腰抜けのダーリッシュ公爵や他の有象無象の貴族たちを相手にしている間、ライオールはここで苦しんで寝付いていたのだ。そんなことは知らなかった。そんなことも知らずに、予定よりも他愛ない仕事だったなどと嘯いて、早く王都へ戻ろうともしなかった。何を残してきたのか忘れていた――失われてしまう可能性があるなどと、考えもしなかった。
「何故、もっと早く知らせなかった!?」
 もし知らされていたら、いつでも王宮へ取って返したはずだ。あの少年の身に起こることは、彼にとっては、王国中のどんな事情より優先するものだ。ライオールのことは彼の責任なのだ。少なくとも一刻も早く側に戻って、状況を把握する必要があったのに。
 しかし、長く荒くれの兵士たちをも怯ませていたグアドの怒声にも、医師は動じなかった。片方の眉をくいと上げて、意味ありげに彼を見やる。
「陛下が、あなたには絶対にお知らせするなと仰るのです」
「何だと!」
「あなたには、病気になったと知られたくない、絶対に言わないでと、ひどくお泣きになる。まあおそらくは風邪でしょうから、数日の内に良くなられれば、ご本人がそうも嫌がることをわざわざする必要もないと思っておったのですが」
 少しの間、グアドは言葉を失ってしまう。何故ライオールはそんなことを言ったのか。あの少年に懐かれていないのはよくわかっている、だがそうまで深刻に嫌われているとは思っていなかった。
「……そんな子供の言うことを真に受けて、取り返しのつかないことになったらどうするつもりだ! おまえが間違っていて、もっと重い病であったら」
 半ば八つ当たりだと、自覚しなかったわけではないが、それでも言わずにはいられない。だが医師はやはり冷静なままだった。表情一つ変えずに頷く。
「そう、私が間違っている可能性は常にある。私の力では解明できないこと、救えないことなどごまんとあります。ですがそういうときは、私の力が及ばないということだけはわかるのです。陛下のご病状には、差し迫った命の危険はありません。ただ、ご本人はかなりお苦しいでしょうが」
 言って、医師はグアドを見返した。再び、あの物言いたげな眼差しだ。
「これは私の個人的な印象ですが、これは体の不調というよりは、精神的なものに思えます。あの方は、だいぶ参っておられる……無理もないことですが」
 幼くして両親を亡くした。まして父親は、目の前で息を引き取ったのだ。それを一人で見ていなければならなかった七歳の子供の心に、大きく負荷がかかるのは当然のことだ。
 精神的な衝撃が肉体の異常として現れるということは、グアドにも馴染みのあることだ。はじめて戦場を経験する新兵は誰でも、多かれ少なかれそれを経験する。多くは耐えて生き延び、仲間とともにいることで安定していくが、どうしても耐えられない性質の者も必ずいる。
 そしてそれは、誰にもどうしてやることもできないことだ。ただ、時間がすべてを解決してくれることを祈るしかない。グアドはため息をついた。
「……陛下にお目にかかりたい。歓迎されないのは承知だが、それでも、私には状況を確かめる義務がある」
 医師はちらりと彼を見たが、何も言わずに一礼した。何はともあれ、グアドは先王直々に指名された摂政であり、ライオールの正式な保護者である。だからこそ、医師も彼を呼び戻さざるを得なかったのだ。
 王宮の北翼にあるライオールの居室には、何度も足を運んだことがある。しかし、その奥にある続き間の寝室に入るのははじめてだった。医師が小さく扉を叩いてから開き、先に立ってグアドを迎え入れる。
 すでに夕闇が押し迫り、室内は薄暗かった。すでに壁際の燭台には火が灯されているが、その明かりは控えめで、人が動くのに不自由がない程度に辺りをぼんやりと照らしているだけだ。
 寝台の側に座っていた侍女が、入ってきた彼らに気付き、素早く立ち上がって頭を下げる。医師は彼女に向かって一つ頷いて見せると、寝台に歩み寄った。
「陛下。お加減はいかがですかな」
 答えはない。寝台の上の子供は、ぴくりとも動かなかった。医師の手が慣れた仕草で額や首筋に触れても、何の反応もない。ただぐったりとして、されるがままになっているだけだ。
 大の大人が横になっても十分すぎる大きさの豪奢な寝台で、ライオールの小さな姿は、たくさんの羽枕と毛布の間に沈み込んでいた。どれも質のいい、心地いいもののはずだが、その下で苦しそうに胸が上下する様を見れば、それさえもひどい拷問のような気がしてくる。グアドは愕然として立ちすくんだ。これは、良くない。明らかに良くない。
「何か、お召し上がりになれそうですか。どんなものでも、少しお腹に入るといいんですがね」
 医師は優しい口調で更に続ける。今度は答えがあった。小さな、かすれた囁き声。
「……や。きもちわるい……」
「ああ、それは辛いですな。ご無理はなさらないで結構です。お水だけ、少し飲んでいただけますかな。それだけで十分ですから」
 上体を抱え起こされても、少しの間、ライオールはそれにさえ気づかないでいるように見えた。背中に当てられた枕に寄り掛かって、肩で息をしている。虚ろな表情は、これまでこの子供の顔についぞ見たことのないもので、グアドを更に狼狽させる。
 と、突然、その体がびくりと震えた。息を呑む気配とともに、ぼんやりとしていた瞳が見開かれる。背筋を緊張させ、少年はグアドをまじまじと見つめた。まるで、そこに幽霊でも現れたかのように。
 その反応に、グアドもたじろぐ。だがとにかく、何か言わなければならない。
「陛下、ただいま戻りました。具合が悪いとお聞きしたが――」
 しかし、言いかけた言葉を最後まで終えることはできなかった。次の瞬間、何かが顔面に飛んでくる。とっさに避けたが、しかし完全には避け切れず、それは彼の胸の辺りにぶつかって床に落ちた――軽い、羽毛入りの枕。
「あっちいけ!」
 子供の金切り声が響く。たった今までの無気力な様子はどこへやら、ライオールは今やしっかりと体を起こしていた。熱っぽく潤んだ瞳が、ぎらついて彼を睨む。
「なんでかえってきたんだ。ばか、きらい、だいきらい! あっちいけったら!」
 また一つ、枕が飛んでくる。今度は避ける必要はなかった。狙いを外した枕は彼を通り過ぎて、離れたところを転がっていく。あの弱々しい体のどこにそんな力があったのかと、埒もない考えを巡らすグアドの前で、ライオールは更にもう一つ枕を掴みかけたが、側にいた医師に制止される方が早かった。陛下、と窘めるように呼ばれると、たちまち顔を歪めて、わっと泣き出す。毛布の下に頭から潜り込み、こちらに背を向けて丸くなった。息が詰まるような嗚咽がするたび、毛布の塊が震えて揺れる。
「……熱が、かなり高いのです」
 その体を、毛布の上からそっと撫でながら、医師が気づかわしげに言った。
「浮かされて、興奮なさっておられるのでしょう。これ以上刺激しては、お体に障ります」
 その口調こそ落ち着いたものであったが、しかし同時にこちらに向けられた視線は鋭くて、グアドは反論を吞み込むしかなかった。刺激するも何も、彼は何もしていない。本当に、何もしていないのだ。この少年に辛く当たった覚えはない。これほど嫌われるようなことをした覚えはない。
 それとも――何かしてしまったのだろうか。幼い子供が、こうも泣いて彼を責めるほどに。
 だがどのみち、彼が次に取れる行動は一つしかない。グアドはため息をついて踵を返すと、王の寝室を後にした。背後の痛ましい泣き声から、遠ざかりたいのか足を止めたいのか、彼自身にもよくわからないままに。

     *     *     *

 王宮内の彼の執務室には、ありがたいと言うべきかどうか、いくらか気を紛らわすものがあった。すでに日は沈んでしまっていたが、秘書官は彼の帰還を耳にして王宮に残ってくれていたのだ。おかげで、留守中の出来事を一通り聞き、急を要する問題のいくつかを知ることができた――普段なら決してありがたいなどとは思わなかっただろうが、今はそれこそ、グアドが何よりも望んでいることだった。とにかく、何かすることが必要なのだ。
 秘書官を帰し、軽い夕食を取った後も、グアドは執務室にいて、机上に集められた書類の類に端から目を通していった。こんなことは明日以降にすればいいとわかっている。担当の人間と話をしなければならないし、そうなると明るいうちに片付ける方がいいともわかっている。だが、自分の寝床へ戻る気にはどうしてもなれない。
 室内に入り込んだ夜闇がますます濃くなり、机上の明かりでさえ頼りなく思えるようになった頃、グアドはようやく諦めた。書類を放り出して、大きくため息をつく。本当は、しばらく前から、目で追っていた文字など読んでいなかったのだ。あの顔が、悲しい響きの泣き声が、頭から離れない。
 ――本当に……。
 どうしたらいいのだろう。あの子を守るのが彼の使命だ。泣かせたり、苦しめたりしたいわけではない。だが今、他の誰よりライオールを苦しめているのは、どうやら彼自身らしい。
 とりとめのない夢想の中で、寝台の上の幼い顔が、亡き王の姿と重なる。グアドはぎょっとして、慌ててその想像を打ち消した。いや、そんなことがあるはずがない。命の危険はないと、医師も言っていた。すぐに良くなる。
 だが、それはセディエルも同じだったのだ。若くて、健康で、病を得るなんて誰も想像しなかった。まして命を落とすなど、決してあるはずがないことだった。
 あるはずがない、あってはならないこと――けれど、もう一度同じことが起きないと、一体誰に言えるだろう。
 気が付けば、グアドはその場に立ち上がっていた。ここに座って時間をやり過ごすのも、もう限界だった。机上に散らばった書類はそのままに、執務室を滑り出る。
 すでに、辺りに人の気配はほとんどなかった。日中は多く人が行き来する廊下も、今は闇に包まれて物音一つしない。明かりを持ってくるべきだったと思ったが、引き返す気にもなれず、グアドはそのまま歩を進めた。もう、慣れた通路なのだ。この三ヶ月、何度となく通った、王宮の北翼へ続く通路。
 闇の中に微かな明かりが見えた。王の居室の扉の下から、柔らかい光が漏れている。その扉の前に立ち、かなり長いこと逡巡した後、グアドはついに扉を叩いた。
 中から反応があるまで、少し間があった。何かが動く気配、足音が近づいてきて、扉を開けたのは王宮付きの侍女だ。交代したのか、先刻の者とは違うようだ。彼の姿に驚いて、急いで礼をする彼女に、グアドは声を潜めて尋ねた。
「陛下は、どのようなご様子だ」
「は、はい。今は、お休みになっていらっしゃいます」
「眠っておられるのか」
「はい。なかなか寝付けずいらしたのですが、少し前にようやく」
 それはいい知らせだ。病人の体にとってもいいことだし、彼にとってもありがたかった。眠っていてくれるなら、彼を見て泣くこともないだろう。グアドは更に言った。
「中に入れてもらえないか。この目でご様子を確かめたいのだ」
 一瞬、侍女に逡巡の気配があったような気がした。ライオールの彼に対する敵意は、すでに城中に知れ渡っているに違いない。とはいえ一介の侍女に、王の摂政の言を拒む権限はない。彼女は再び素早く礼をして、彼を扉の内側に招き入れた。
 寝室は、数刻前に訪れたときよりも更に暗かった。壁際の明かりは消され、寝台の横で覆いをかけられた角灯だけが、この広い部屋の唯一の光源だ。
 その弱い光がぼんやりと届く端の辺りで、ライオールはぐっすりと眠り込んでいた。もう、毛布に潜り込んではおらず、枕に上半身を預けるようにして目を閉じている。微かに聞こえる息遣いは、深く落ち着いたもので、グアドはいくらかほっとした。ひどく苦しんでいるようではない、とにかく今は。
 この様子では、すぐに目を覚ましはしまい。グアドは振り返ると、扉の側に音もなく控えている侍女に声をかけた。
「少し、席を外してくれ。……もし、目を覚まされたり、何か変わった様子だったら、すぐに呼ぶから」
 今度ははっきりと当惑顔をした侍女を、安心させるように付け足す。それでも少しの間、侍女は次の動きをためらっていたようだったが、結局は深々と一礼して、静かに部屋を出て行った。
 扉が音もなく閉まると、グアドは寝台に歩み寄る。側には椅子と、病人のための細々としたものが置かれた小卓があった。
 椅子に座り込むと、我知らずため息が漏れ、彼は急に疲れを感じた。半日、不安と焦りを抱えて馬を飛ばし、王宮へ戻ってからも休まず動き続けた結果が、ようやく今追いついてきたらしい。
 改めて、寝台の上の少年を間近で見やる。よく眠っているのは確かだが、しかしやはり、病はその小さな体に重く圧し掛かっているようだった。上気した頬とは対照的に、目の周りはうっすらとくぼんでいる。幼い丸みを帯びた顔は、記憶にあるよりもいくらかやつれたようにも見える。
 汗が光る額に、濡れた前髪が鬱陶しげに貼りついている。グアドは半ば無意識に手を伸ばしてそれを払ったが、伝わってきた熱にぎょっとする。熱が下がらないとは聞いていたが、こんな高熱であれば、とても機嫌よくはいられないだろう。怒鳴って泣き喚くくらいはして、少しも不思議はない。
 水を張った盥に布を浸し、絞って汗ばんだ額に当てる。起こしてしまうかと心配になったが、ライオールは目を開けなかった。ただ、冷たさを求めるように小さく身動ぎすると、ほっと息をつく。ほんのわずかな、本能的な動きだが、それがこの子供の感じている苦しみを如実に表しているようで、グアドは心臓が沈み込むような感じを覚えた。
 長く戦場で生きてきたから、怪我や病気に接することは多かった。ほとんど、彼の人生の一部と言っていい。彼自身が動けなくなることもあれば、他の者が苦しむのを見ていなければならないことも無数にあった。もはや手の施しようのない傷を負った部下が、呻きながらただ死へ向かうのを見たのも一度や二度ではないし、そのたびに胸がふさがれるような思いをしたものだ。
 だが今、彼が感じているものは、そうした辛さとはまた少し違う。胸苦しさを押し出すようにため息をついて、グアドは少年から目を逸らした。子供というものは、どうしてこうも儚く見えるのだろう。身体が小さくて、手足が細くて、ほんの少しでも手荒く扱えば簡単に傷ついて、二度と元に戻らなくなってしまうのではないかと思う。それでも、元気で動いているときはまだいいが、こんな風にぐったりとしている様は、本当に見るに堪えない。
 戦場の死は、避け得ないものだ。どの死も残酷で痛ましく、すべてが悲しむべきものだが、同時にどこかで諦めなければならないものでもある。一人の男として武器を手にしたなら、それは皆等しい運命だからだ。だが子供は違う。何も傷つけない、まだ何も選んでさえいない。
 幼い者が苦しむのは、あまりにも惨すぎる――ましてこの子は、もう十分に苦しんできたはずだ。母を亡くし、父を亡くし、その細い肩には重すぎる王冠を頭上に、望みもしない座り心地の悪い椅子に座らわれている。同じ年頃の子供たちが喜ぶようなことを、何一つ知らないままに。
 今にして、この数か月の間のライオールの姿を思い出す。彼の話を、少し首を傾げてじっと聞いている顔。広間の玉座に座って、大人たちのわけのわからない話に退屈しながら、それでも真面目な顔をしている様子。何かを確かめるように彼の方を振り向いて、再びきちんと座り直す仕草。
 もはや、この少年に感じていた隔意は問題ではなかった。少し愛想がなかろうが、考えていることがわからなかろうが、そんなことはどうでもいい。笑わないのなら、笑いたくなるような楽しいことをいくらでもしてやればいいのだ。何を考えているのかわからないなら、わかるまで話を聞けばいい。彼が嫌われているにしても、それならそれで、話し合う余地はあるはずだ。摂政を辞退するのは、今となっては難しいだろうが、顔を合わせないようにするとか、人を介すとか、ライオールの望みに近付ける方法は何かあるはずだ。この子が幸せに暮らしていけるように。
 良くなったら、必ずそうしよう。良くなってくれさえすれば……。
 そのとき、呻き声がして、グアドははっと現実に引き戻された。寝台の上で、ライオールは大きく身をよじると、突然ぱっと目を開けたのだ。
「陛下」
 夕刻の一幕が脳裏を過ぎり、グアドは密かに慌てた。またあんな風に泣かれてはかなわない。
 しかし目下ライオールは、彼のことどころではないらしかった。身体を震わせ、何かをこらえるように引きつった呼吸をする。その顔がみるみる真っ青になり、小さな手が口を押さえるのを見て、グアドは何が起こりそうなのか即座に理解した。側の卓から空の容器を取り上げる。子供の身体を抱え起こすと、その脚に器を置いて、そっと背中をさすってやる。
 腹の奥が引っくり返るような音がして、掌の下の背中が緊張する。二度、三度と続くが、しかし腹の中からは何も出てこなかった。吐くものが残っていないのだと気づき、グアドは眉を顰める。しばらく食事が取れていないのだろう。一体、いつからだ。
 ライオールの身体が同じ事実に気付くまでには、さらに時間を要した。ようやく痙攣じみた発作が行き過ぎると、次第に呼吸も平静になってくる。少年の頬に再び血の気が戻ってくるのを確かめると、グアドは枕を重ねて背もたれにし、それまで支えていた熱い体を寄り掛からせた。
「もう、落ち着きましたか。まだ苦しいですか?」
 汗の雫が、こめかみから首筋へ流れ落ちていくのを拭ってやる。小さな拳がまだ胃の腑の辺りを押さえているのを見て、グアドは心配になって覗き込んだが、そこで青藍の瞳と正面から目が合ってしまい、思わず身を引いてしまった。ライオールは大きな瞳で、じっと彼を見上げている。まずい、また泣かれてしまう。
「すぐに、医者を呼んできます。すぐに行きますから」
 しかしそう言っている間にも、その瞳に涙が浮かんでくる。グアドはほとんど後ずさりしたい気持ちだった。また枕が飛んでくるのか。それ自体はいいとしても、それでますます容体が悪くなりでもしたら、もう本当にどうしたらいいのか。
 だが、その予想は外れた。ライオールは枕を投げつけも、金切り声を張り上げもしなかった。大粒の涙をぽろぽろと零しながら彼を見つめたまま、涙声で言ったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ちゃんと、できなくて……ごめんなさい」
 何のことだ。グアドはその場に固まって、泣きじゃくる少年を見返した。今や溢れる涙を拭おうともせず、ライオールは喉を詰まらせながら更に続ける。
「し、しっぱい、してしまった……がまん、したけど……ぜったい、がんばろうって、お……おもったのに」
 何の話か、本当にわからない。とはいえ、ライオールの必死さから見て、彼と無関係の話でもなさそうだ。グアドは再び寝台へ身を乗り出すと、少年の肩に手を置いた。とにかく落ち着いてもらわなければ、話をする以前にまた吐きかねない。
「ああ、そうお泣きにならんでください。大丈夫ですから……あなたは病気で、具合が悪いのです。これ以上、何も頑張る必要などないのです。力を抜いて、楽になさい。大丈夫、大丈夫ですから」
 彼の手の下で、細い肩からほんの少し力が抜ける。しかし、涙の方は止まらない。しゃくり上げながら俯いて、小さな声が再び、ごめんなさいと呟いた。
「何を謝ることがあるのです? あなたは何も、悪いことはしておられないでしょう」
 もしかして、先刻枕を投げつけられた件だろうか。だがそれも、謝ってもらうほどのことではない。我慢できないほど苦しいのはよくわかっているからと、グアドは更に子供を諭そうとしたが、その暇はなかった。奇妙な呻きにも似た嗚咽が漏れて、ライオールはますます激しく泣き出したのだ。
「おお、何です。だから、そうお泣きにならずともよろしい。もちろん、あなたは何も悪くない。それは間違いのないことです。一体、何をそのように気に病んでおられるのですか」
「……せき……」
「何ですと?」
「ごりんせき……ひ、ひとりでも……できるって、いった……こうしゃくが、いなくても……おつとめ、だから……」
 ――私がここを離れている間に、いくつか陛下にご臨席を賜りたい式があるのです。
 ――ごりんせき。
 ――ああ、その、いらしていただきたいということです。陛下にお会いしたい者たちが、順番に御前に参りますから、静かにお座りになって、彼らの話をお聞きになっていてほしいのです。
 記憶の中の光景が、一瞬のうちに脳裏を席巻する。あれは王宮を発つ前だ。彼が王都を離れることを告げ、その留守中に、ライオールにはいくつかの式典や会に出席してほしいと言ったのだ。もちろん、七歳の少年に可能な範囲でのことだが。
 ――私がおらぬ間にも、お務めをお願いしてもよろしいでしょうかな。
「……まさか」
 グアドは思わず呻いた。まさか、それが理由なのか――この子がこれほど打ちひしがれて、泣きじゃくりながら彼に謝り続ける理由は。
「ひ、ひとりで、ちゃんとできるんだ……ほんとなんだ。でも、あのときは、きゅうにへんになった……おなかが、へんで、あたまも、へんだった……ず、ずっと、がまん、したけど……」
 先刻の、宮廷医師の言葉が思い出される。ライオールは、使節との謁見中に体調を崩したと聞いた。言葉にすればそれだけのこと、だがそれは、おそらくこの子供にとって、かなり悲惨な状況だったに違いない。自分が何か大事なことを任されたと信じていて、それを達成しなければと必死で、なのにそれが目の前でみじめな失敗に変わっていくのを、なす術もなく見ているしかなかった。急病は誰のせいでもない、まして失敗などではあり得ないが、子供にはそういうことがわからないのだ。ただただ、目の前の現実に絶望するしかない――すべて自分が悪かったのだと、自分さえちゃんとしていればよかったのだと、自分を責めて泣くしかない。
 今も、ライオールは懸命に言うのだ。
「こんどは……こんどは、だいじょうぶだから……。こんどは、ちゃんとする……もういちど、やらせてくれたら、こんどは、ぜったいにしっぱいしないから……おねがいだから」
「何を馬鹿なことを!」
 とても聞いてはいられなくて、グアドは半ば怒鳴るように叫んでしまった。何だってこんな腹立たしい言葉を聞かなけれなならないのか――何だってこの子は、そんなつまらない考えを思いついたのだ。
 しかしその瞬間、小さな体がびくりと竦む。少年の泣き顔が、今やはっきりと恐怖に歪むのを見て、グアドは慌てて息を呑んだ。違う、そうではない。この子を怯えさせたいわけではない、ましてや責めてなどいない。だが、一体何と言えばいいのだろう。どう言ったらわかってもらえるのか。
 相応しい言葉は、何も浮かんでこなかった。代わりに、グアドは椅子から腰を上げると、寝台の端に座り直す。怯えて固まっている少年を引き寄せると、ぎゅっと腕の中に抱きしめた。汗ばんだ寝間着の下から、熱が伝わってくる。身体を伝わる、微かな震えも。
「本当に……何という馬鹿なことを仰るのか」
 その震えを宥めるように、背中を撫でる。今度は声を荒らげないように注意して、グアドは低く呟いた。
「今度だの、もう一度だの、そんなことはどうでもよろしい。つまらないことを考えるのはお止めなさい。あなたはご病気で、それが何よりも重大なことだ。まずはあなたが良くならなければ、他のことなど何の意味もない」
 腕の中で、しかしライオールは頑なな姿勢のままだった。彼を振り解きはしないが、力を抜く気配もない。くぐもった涙声が、小さく応える。
「よ、よく……ならないもん……」
「何ですって?」
「よくならない……。いい子でねてたら、すぐになおるっていったのに……。ずっと、いい子にしてたのに……おくすりも、ちゃんとのんだのに……はやくよくなってって、おねがいしたのにだめだった。まにあわなかった……」
 最後はほとんど聞き取れない。嗚咽に激しく震える体を腕に抱き、グアドはいよいよ腹の底が冷えていくのを感じた。そんなことばかり考えていたのだとしたら、それは治るものも治らないだろう。先刻の医師の言葉が再び思い出される。間違いない、確かにこれには、精神的な何かがあるのだ。この子はひどく追い詰められている――一体、どうして。
「……どうして、私に知らせてくださらなかったのですか。あなたがそんな思いをされていると知ったなら、必ずすぐに帰ってきたのに」
 責めていると聞こえないように、細心の注意を払いながら、グアドは静かに尋ねる。しかしそれでも、腕の中のライオールは怯えたように肩を竦めた。少しの間、俯いて黙っていたが、グアドが辛抱強くその背を撫でていると、やがて内心の重さに耐えかねたように口を開く。
「だって……だって、かえってきたら、おしごとができない。だいじなおしごとなんだから、じゃましちゃだめなんだから……」
「あなたより大事な仕事なんか、一つもありませんよ!」
 落ち着いて話さなければいけないと、よくわかっているのだが、知らず声が強まるのを抑えることができない。腹の底の冷たい感触は、今や胸をも圧迫し、グアドは息苦しさに息をついた。口を開けば開くほど、この子はおかしなことばかり言う。そんなことを考えていたのか。高熱に浮かされて、寝台で寝込んでいる間ずっと。
 いや――もしかしたら、その前から、ずっと。
「陛下……ライオール様」
 再び声を落として、グアドはそっと語りかけた。
「私がしていることは、皆、あなたのためにしていることです。いつかあなたが大きくなるまで、あなたのお父上がしていたように、この国をきちんと保っておかねばならない。それは大事なことですが、しかしそれも、あなたがいらっしゃらなければ、何もかも意味のないことです――あなたが病気で、苦しい思いをしているときに、私の仕事になど、一体何の意味がありますか」
「…………」
「あなたのことが、他の何よりも大事なことです。怪我や病気は、中でも一番重要なことだ。少し手当てが遅れただけで、取り返しがつかなくなることだってある。苦しかったり、痛かったり、辛いときはいつでもすぐに教えてください。具合が悪くなるのは、あなたが悪いわけでは絶対にありません。無理をして我慢などせず、早く教えてくださった方がずっといい」
 ライオールは顔を上げた。赤く火照った頬は汗と涙に濡れているが、その青藍の瞳は、意外なほどに澄んで曇りない。いつものように少し首を傾げると、少年は彼を見上げて言った。
「そうしたら、やくに立つ?」
「!? 何を……!」
「そうしたら、こうしゃくはうれしい? たすかる? じゃあ、そうする……つぎから、ぜったいに、そうするよ。やくそくする」
「ライオール様!」
 何故だ。どうしてこうも、話が通じないのだ。グアドは少年の額に手を当てた。確かに熱い、だがそれが、この子の理解力に深刻に影響しているとも思えない。
「役に立つ……あなたが病気で、一体何の役に立ちますか。あなたが辛い思いをなさっていると聞いて、嬉しいわけがないでしょう。ですが人間、怪我も病気もするものです。誰のせいでもなく、それはそういうものものなのです。だからそうなってしまったときは、できるだけ早く教えてくださいと申し上げている。早く手当てをして、早く医者にかかれば、その分、あなたが苦しい時間が減ります」
 だが、そう説明しても、ライオールは納得した様子ではなかった。がっかりしたように肩を落とし、暗い表情で視線を背けると、じゃあいい、と震える声で呟いた。
「うれしくないなら、いい……。べつに、くるしくたって……べつにいい……」
「何ですって? 何がいいものですか、あなたは……」
「いいの! くるしくたって、へいきなんだ。だって、もうすぐ大人になるもの。がんばって、大人になったら……もう、めんどうじゃないんだから」
「面倒!?」
 そんなことはない、そんなことがあるはずはない。しかし、その言葉は声にならなかった。溢れる涙を乱暴に袖で拭いながら、ライオールが続ける方が早かったのだ。
「ウォルブラッドこうしゃくは、子どもがきらいなんだって。ほんとうは、ここにいるのはいやで、わたしのめんどうをみたりはしたくないんだ……でも、父上がそうしろっていったから、むりにそういったから、しかたがないんだって」
 一瞬、息が止まる。ざっと血の気が引く感じがして、グアドはしばらく口も利けなかった。馬鹿なことだ、病気の子供の妄言だと一蹴すればいいだけのことだ。だが、できない。心臓がぎゅっと引き攣る感覚は、いつだって本当のことを教えてくれる。ずっと隠してきた、けれど隠し通せない真実がそこにあることを。
「……誰が、あなたにそんなことを言ったんですか」
 何とか絞り出した質問に、しかし意味がないことは、自分でもよくわかっている。ライオールは答えなかった。もう涙を拭おうともせず、しくしく泣き続けている。
 まったく新しい驚きに打たれて、グアドは改めて少年を見やった。この子は、おそらく、彼が思っていたよりもはるかに聡明なのだ。自分の周りで何が起きているのか、大人の想像以上によくわかっている――周りの大人たちが、自分をどう思っているのかも。
 ずっと、懐かない子だと思っていた。両親を失って辛いのはわかるが、今や彼以外に、この少年の身を保護する者はないのだから、それなりに受け入れてほしいと、心のどこかでずっと思っていた。だが、ライオールはそんなことなどとうにわかっていたに違いない。両親はいない、この世に一人取り残されて、頼れる相手はグアドしかいない――そして、彼に疎んじられれば、もう生きていけない。
 それが身に染みてわかっているから、必死なのだ。だから今の今まで、彼の前では泣きもせず、駄々もこねず、毎日息を殺すようにしてここまできた。前に彼が気付いた通り、辛抱強い子供なのだ。グアドは苦い気持ちで思った。この子が愛想のない子だなどと、とんでもない。彼の顔色を窺って、彼の機嫌を取りたくて、そのためだけに生きていたのに。
 そして、彼は、そんなことにも気付いていなかったのだ。
「ライオール様。それは……それは、違います。そういうことではない」
 言いかける言葉は、しかし、彼自身の耳にさえ何とも頼りなく聞こえた。こんな言い方では、きっとライオールは耳を傾けないだろう。賢い子なのだ、ちゃんと本当のことを知っている――本当のことを言わない限り、彼の言葉は聞くに値しないものなのだ。
「確かに……子供には、馴染みがないのです。私には子がないし、あなたのような年頃の子供と接することはこれまでほとんどなかったから、どうしていいかわからないこともある。ですがそれは、わからないというだけです。あなたのことが面倒だとか……嫌いだとか、そんなことは決してない」
 それは誓って、心から言える。目の前で泣いている、小さく幼い存在は、およそ嫌悪など向ける対象ではない。面倒どころか、できることならどんなことでもしてやりたいと思う。この子供が苦しまず、辛い思いを忘れて、日々を楽しく過ごしていけるならどんなことでも。
 しかし同時に、この子供の側にいたくなかったのも本当だ。何故なら、そこは彼の位置ではないからだ。ライオールの側にいるべきなのは、この国の全てを引き受けるのは、彼ではない。
 ただ一人――我が王、我が主あるのみなのだ。
「あなたは良いお子だ、こんな素晴らしい子は、他にはないと思っています。ですが、あなたも含めて、あなたのお父上が私に残されたものは、あまりにも大きいのです。あまりにも、大きくて……それが、どうにも辛いのです」
 責任が、ということはもちろんある。王は王に生まれてくるものだ。生まれ落ちた瞬間から、その任を果たすように育てられるものだ。王家の生まれでなく、まして王位に近くもなく、一貴族の次男坊、あるいは一介の将軍としてこれまでの人生を過ごしてきた彼が、こんな責任を果たしていけるとは、彼自身とても信じられない。
 だが――それだけだろうか。もし、こんな責任が課せられなかったら、彼は今、何も辛くはなかっただろうか。
 脳裏をしなやかな影が過ぎる。まだ少年だったセディエルは、いつでも身軽に彼を追い越していなくなり、かと思えばどこからともなく現れて、彼をからかって逃げていく。とっ捕まえて説教をすれば、激昂して捨て台詞を吐くのに、何度も彼の前に現れては、何度も同じことをする。王宮を抜け出してろくでもない遊びをするのは、決まってグアドが当直のときで、そのたびに彼が街中を巡って連れ戻さなければならなかったのに、当の本人は悪びれもせず笑うばかりだった。だって、お前ならすぐ私を見つけるだろう。王宮で退屈そうにしてるから、刺激をくれてやったのさ、感謝しろよと嘯いて、安酒場の杯を彼に押し付けるのだ。
 記憶が一気に押し寄せる。さびれた裏路地でたまたま行き合っただけの物乞いを、助けようと必死だったこと。結局、たとえ王子の力をもってしても救うことはできなくて、しばらくの間塞いでいた。用もなく街に出たときは、すぐつまらない喧嘩をして、顔を無残に腫らしていることだってあったが、それも、父王が亡くなって王冠を戴いたときに比べればまだましだった。地獄の釜を覗き込んで、今にも転がり落そうな顔をしていたのに、しかし少しして結婚すると、そんな様子はたちどころに一変した。素晴らしく可愛い新妻を鬱陶しいほど自慢して、お前も結婚しろしろとせっつき、彼が嫌な顔をするのを見ては、人の悪い笑みを浮かべて……。
 だが今、それらはすべて消え失せた。もう二度と戻らない過去、そして、決して未来に続かない記憶だ。突如胸に迫るものがあって、グアドは息を詰まらせた。喪失の感覚――そしてその感覚を、今でも受け入れられない。そんなことが、あるはずがない。あっていいはずがなかったのに。
 これまで、彼の周りで多くの人間が死んだ。両親も兄も、戦友も部下も、皆彼を残して先に逝った。別れには、やがて慣れる――だがそれは、別れという現象に慣れるだけだ。人は生まれてきた以上、いつかすべてと別れなければならないという単純で厳格な事実を、受け入れるしかないことに気付くだけだ。別れの痛みには、慣れることはない。すべての命が一つずつ違い、すべての別れが一つずつ違う。慣れるはずがない。どれもがたった一つの別れで、だからいつだって変わらず辛いのだ。
 死は自然の摂理、辛いと言っても仕方がない。けれど、仕方がないということと、辛いと思うことはまったく別の話だ。仕方がないのだから、嘆いてはならないなんて、そんな馬鹿な話はない。他にするべきことがいくらでもあるのだから、悲しんでいる暇はないなんて、そんな道理があるものか。
 あの人は、彼の王だった。剣を捧げた主、命を懸けて忠誠を誓った、ただ一人の相手だった――いつでも、何があっても、必ず守るはずだったのに。
「辛かったのです……あの方が、もうこの世におられないと思うのが」
 声が震えたのが、自分でもわかったが、しかし今はどうでもいいことだ。胸がひどく痛む、しかしそれは不快なだけの痛みではなかった。今、自分は確かに真実を口にしていると、ようやくはっきりと確信できる。嘘をついていたつもりはないのだが、しかし本当は、どれも真実ではなかったのだ。政治が性に合わないことも、国を支えるのが手に余ると思ったことも、目の前の子供とうまくやれないことも。
「あなたのお父上が、ここにおられないのが悲しいのです。最後に、お会いすることも叶わなかった。これほど長くお別れするのに……さよならも言わずに」
 仕方のないことだ。あのとき、彼はできる限りのことをしたと心から誓える。懸命に急いで、必死で王都へ戻ってきたけれど、それでも臨終には間に合わなかった。どうしようもないことだった、後悔する余地もないほどに。
 だが、それでも考えてしまう。もし間に合っていたら、どうなっていただろう。もし別れの言葉を告げられていたら、少しは痛みに耐えられただろうか。もし、最後に言葉を交わせていたら、あの人は何と言ったのか。
 ――どうか、この子を助けてくれと。
 ジェイスの言葉が蘇る。気づけば、ライオールはいつの間にか顔を上げていた。まだ涙の残る瞳を見開いて、ぽかんと彼を見つめている。グアドは小さく笑ってしまった。若い頃のセディエルも、ときどきこんな顔をしていた。グアドが騒動の現場に駆けつけて、相手方には目もくれずに王子の頭を叩いたりすると、呆気に取られていたものだ。面差し自体は母親似で、父親を思わせるようなところはあまりない子だと思っていたが、こんな無防備な表情をすると、思いがけずよく似ている。
「ですが、まだ、あなたがいる。お父上が、私を選んで、あなたを遺してくださった。だから、あなたほど大切なものは、他には何もないのです」
 再び少年を抱きしめる。けれど今度は、相手を宥めるためではなかった。ただ、大切だからだ。ただ、離しておきたくないからだ。失いたくないと思うから――側にいたいと思うから。
 突然、これまでにない感触があって、グアドははっとする。それまで頑なだったライオールの身体から、ふっと力が抜けたかと思うと、そのままぎゅっと彼にしがみついてきたのだ。
 胸元に顔を押し付けて、少年は肩を震わせる。しかしそれは、今までのような、神経を尖らせた泣き方ではなかった。くぐもった嗚咽の合間に、辛うじて聞き取れる声が、小さく、けれど何度も繰り返す。
「ちちうえ……」
 これまでライオールが、死んだ父親のことを悲しむ素振りを見せたことは一度もなかった。まして、父を恋しがって泣くなど想像もしていなかった。グアドは驚き、そこでようやく理解する。この子が、悲しんでいないはずはないのだ。ずっと泣きたかったに違いない。泣かなかったのは、ただ、そうしていいと知らなかったからだ。
 また一つ、己の過ちを発見して、グアドは密かに後悔する。彼も、他の大人も、ライオールの前で父親の話はしなかった。思い出させるような言葉さえ避けていたのだ。幼い子供にとって、辛い記憶はなるべく思い出さない方がいいと思っての行動だったが、しかし思いやりと言うには、あまりに無思慮なことだった。口に出さないくらいで、子供が父親を忘れるわけはないではないか。そして、誰もがその話題を避けるなら、ライオールだって口を噤んでいるよりない。
 ――さぞ……お怒りであろうな。
 ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。今の彼のやりようを見たら、セディエルは激怒するだろう。ライオールを泣かせていることにではない――もちろん、それも怒るだろうが――、セディエル自身に注意を払っていないことにだ。昔から、自分が関心の中心でなければ気が済まない人だった。たかだか死んだぐらいで、グアドが彼の名を避けて口にすることもなくなったら、きっと怒り狂うに違いない。これからの彼の人生の、至るところに現れて、あらゆる邪魔立てをしてくるだろう。たとえこの世にいなくても。
 ――どうか、この子を助けてくれ?
 そんな人ではなかった。彼の腕の中でまだ泣き止む気配のない子供の背中を撫でながら、グアドは微かに唇を歪める。ジェイスは直接に王の為人を知っていたわけではないから無理もないのだが、グアドには、その言葉はまったく正確でないと断言できる。今度会ったら言ってやらなければ。
 何故なら、今ははっきり聞こえるからだ。もし彼が間に合っていたならば、最後に言葉を交わすことができていたならば、彼の王は必ずこう言ったはずだ。あの尊大ぶった、けれど確かに親しみのこもる声で。
 ――もういい加減、血を見るのにも飽きただろう。単調な人殺しなんかとは比べものにならない、面白いことをさせてやる。よくよく感謝するんだな。
 いつだって、あの人はずっとそうだった。厄介事を起こしては、それを少しも悪びれず、何でも彼に押し付けてくる。拾った喧嘩も、酒場のツケも、王国の戦争も。
 いつだって、後始末は彼任せ――けれど、そうやって頼られるのが心底嫌だと思ったことは、ただの一度もなかったのだ。

     *     *     *

「ライオール様!」
 勢いよく開けた扉の先には、確かに目的の人物がいた。詰め物をした椅子に座ってふくれっ面をしていたが、グアドの姿を見ると、ぎょっとして立ち上がりかける。が、できない。痛みに顔を歪める少年に、グアドもまたぎょっとする。ひどい怪我なのか。
「ああ、そんなに急に動くものではありません。痛めたところは、優しく扱うものですよ。ゆっくり動けば大丈夫なのですから」
 しかし落ち着いた声がそう言って、再び少年を座らせる。ライオールの足下に膝をついている宮廷医師は、今度はグアドの方を見て言った。
「馬から落ちたときに、少し足首を捻られたようです。今夜あたり、いくらか腫れるかもしれませんが、骨や腱には大事ない。頭を打ったりもしておられないようですし、何日かすれば、またお好きなだけ、飛び跳ねて回れるようになりますよ」
 今は駄目ですがね、と、再びライオールに釘を刺して、医師は少年の足に包帯を巻いていく。グアドはため息をついた。とりあえず、良かった。会合中に、ライオールが王宮の馬場で落馬して怪我をしたと聞いたときには血の気が引く思いだったが、どうやら想像したほど事態は悪くないらしい。
 だが、深く安堵すればするほどに腹も立ってくる。医師の言葉の通り、ライオールが『お好きなだけ、飛び跳ねて回れるように』なることを、自分が歓迎しているかどうか、グアドには甚だ自信がなかった。何も、じっとしていてほしいというわけではない。外で遊んで、服を泥まみれにして帰ってくるくらいは注意しようと思わない、むしろ元気があって素晴らしいとさえ思う――王宮内の一体どこに、それほど大量の泥が存在しているのかは、彼の想像のつかないことだが。だが、こうしてちょくちょく怪我をしてくるのは、本当に勘弁してほしい。
 何故怪我をするのか。危ないところが好きだからだ。高いところとか、不安定な場所とか、動くものとか、水辺とか、何があるかわからない暗い物陰とかが大好きだからだ――世の多くの男児と同じように。
 上階の窓から外へ出て、王宮の屋根に上っているのを叱りつけてから、まだ三日と経っていない。その前は、学友という名の悪たれ小僧どもと一緒になって、大階段の手すりの上を滑走する競争をしていた。一体どうして、この子を聞き分けの良い、大人しすぎる子供だと思っていたのか、グアドには既によく思い出せない。彼が幼い頃のように、川や森を走り回ってろくでもないことをするというのは確かにないが、それは単に、王宮内に川や森がないだけだ。そして、もしあった場合のことなど考えたくもない。
 医師が軽く頭を下げて退出すると、室内には二人きりになった。ライオールは彼の方を見ず、むっつりとして、怪我をした足を見つめている。一応、叱られるようなことをしたという自覚はあるわけだ、それは結構。
「それで、どうして馬場に馬を引き出したのです。教練以外の時間に、大人のいないところで、馬に乗ってはいけないと言ったでしょう」
「そんなの知るもんか! だって、わたしの馬なんだ」
 咎める言葉に反応してか、ライオールは噛みつくように言い返してきた。グアドが苛立たしく眉を上げると、ますますむきになって言い募る。
「おうきゅうの馬はぜんぶわたしのものだし、おうきゅうだってわたしのものなんだ。だって、わたしは王さまなんだから。いつでも、何でも、すきなことをしていいんだ」
 この馬鹿な小童が、と怒鳴りつけたい衝動をやり過ごし、ついでに手が出そうなところもぐっとこらえて、グアドは少しの間沈黙を守った。軍隊にいたときであれば、有無を言わさず躾け直してやったところだが、ここは軍隊ではないし、相手も屈強な兵士ではない。沈黙が十分に気まずい効果を発揮したのち、再び口を開く。
「なるほど――それで、あなたはスーティルを騙したのですか。あの気の毒な少年を」
 スーティルは、王家の厩舎の下働きの少年の一人だ。生まれつきほとんど目が見えないのだが、動物に対しては不思議な才能があった。どんなに気の荒い牡馬でも、獰猛すぎて仲間にすら襲いかかる猟犬でも、何故かこの少年にだけは心を開き、世話を受け入れ、体を摺り寄せて懐くのだ。
 目は見えないが、馴染みの厩舎周りは手に取るように知っているので、仕事をするのに不自由はしない。厩舎番もそれを認め、スーティルは他の少年たちと同じように仕事の割り当てを与えられ、一人黙々と働くことも多い。彼にできないのはただ、悪だくみをする子供たちが、彼の隙をついて馬を連れ出すのを阻止することくらいだ。
 別の厩舎へ飼葉を補充しに向かった盲目の少年は、帰ってきた自分の厩舎から牝馬が一頭消えていることに、すぐには気が付かなかった。気づいたときには、ライオールは既に落馬して怪我をした後で、哀れな少年はきつく問い詰められることになった。
 スーティルの名を聞いたライオールは目を見開いた。それまでの不貞腐れた表情は即座に消え、愕然とした顔になる。
「だ、だましてなんかない! スーティルはいなかったんだ」
「あなたが彼のところから馬を引き出したのは、彼の目が見えないからでしょう。見えなければ、馬が消えたことに気付かれないから。その通り、彼は気がつかなかった。そして、その責任を取らなければならない。厩から馬を持ち出されたのは彼の管理不行き届きです。それで、あなたが怪我をすることになったのだから、尚更罪は重い」
「ちがうよ! スーティルはわるくない! わたしたちが……わたしが、こっそり馬を出したんだ。スーティルが気がつかないって知ってた、わざと気づかれないようにしたんだ。わたしがわるかったんだ」
「いいえ、あなたは悪くない。あなたのすることは、すべて正しいことだ。あなたは王だからです。誰もあなたが間違っていると言うことはできない、誰もあなたを責めることはできない。だから、あなたの過ちは、すべて他の誰かが償うことになるのです。たとえ、あなたがどれほど卑劣であろうと」
 ライオールは、今や真っ青になっていた。すっかり足のことは忘れてしまったのか、慌てて立ち上がりかけるが、そこで再び失敗する。その瞳から見る間に涙があふれてきて、ライオールはついに泣き出してしまった。俯いて、掌に顔を埋める。
 しばらくの間、室内にはしゃくり上げる声だけが響いていた。やがて、グアドは音もなく少年に歩み寄る。隣に腰掛けると、そっと肩を抱き寄せた。静かな声で、再度問う。
「――どうして、馬を引き出したのですか?」
「だって……だって、みんな、わたしをなかま外れにするんだ。わたしだけ、あそんじゃだめって言うんだ……」
 その日の子供たちの遊び場は、馬場の外れの柵だった。近くに手ごろな大きさの木があって、常に面白そうなことを探している腕白小僧たちの誰かが、その枝によじ登れば、柵を越えられることに気が付いた。皆こぞって登りたがったが、しかしライオールは木に近付くことさえできなかった。他の子供たちは全員、彼が登るのを嫌がったからだ。
 ライオールの遊び相手として王宮に集められた子供たちは、いずれも貴族の子弟だ。幼い国王に無礼のないよう、礼儀正しく振舞うよう、きつく言い含められている。いつでもライオールのことを気にかけていなければいけないし、一緒に遊んでいる間に彼に何かあったら、すぐに問答無用で叱責される。これが鬱陶しくない子供がいるだろうか。
 子供の世界では、国王であるということには何の力もない。彼らにとって、ライオールはただの厄介なお荷物なのだ。だから、ライオールは彼らの注意を惹きつけるようなことをしなければならない。彼らにすごいと思わせて、仲間にしておく価値があると認めさせなければならない。大人がいるところでしか許されていない、馬に乗ってみせるというようなことを。
「王さまなんか、いやだ……わたしは、王さまなんかやりたくない。みんなといっしょがいい」
 ついには泣きじゃくりながらそう言い出したライオールを、グアドは窘めることはしなかった。それはそうだろうなと思うからだ。王などというものは、本当に因果な商売だ。大人だってやりたくない――名誉とか、富とか、美々しい称賛とか、人の目を幻惑する付属物が多いだけで、そういうものが何一つなかったとしたら、喜んでやる人間はかなり限られてくるだろう。まして子供にとって、何の利益があるものか。結局、彼は一つ頷いて、ライオールの肩をぎゅっと握った。
「そうですな。お気持ちは、わかります――本当に、よくわかる」
「…………」
「ですがライオール様。この世には、我々の力では如何ともしがたいことが往々にしてあるものです。あなたは王として生まれてこられた。それはあなたのせいではないし、あなたが望んでのことでもない。よくわかっています。ですが、それはどうにもならないことだ」
 泣き声が、反論するように大きくなる。依然、声の調子を保ったまま、グアドは静かに続けた。
「そして、そんな目に遭っているのは、あなただけではないのです。そう、たとえば、あのスーティル。あの子は目が見えないが、彼がそれを喜んでいると思いますか。皆と一緒がいいと、思っていないと思いますか」
 泣き声がぴたりと止んだ。少し考え込む間があった後、顔を上げないまま頭を振る。グアドは微笑むと、俯いたままの少年の頭を励ますように軽く撫でた。
「あの子は目が見えずに生まれてきた。何も悪いことはしていないし、もちろん、そう生まれたいと望んだわけでもない。なのにそう生まれついてしまった、どんなに嫌だと言ってもどうしようもない。この世には、そういう理不尽なことが多くある。あの子の目が見えないように、あなたが王に生まれたように」
「…………」
「ですが、スーティルは実によくやっている。動物たちがどんなに彼を好いているか、あなたもよくご存じでしょう。まったく、あれは魔法のようだ。それによく働く、感じのいい少年です。彼が信頼に足る人間であるという事実の前に、目が見えないことなど、何の意味がありますか」
 ライオールは、もう泣いていなかった。俯いたまま、じっと耳を傾けている。
「生まれついたものは、結局のところ、問題ではないのです。それはあなたに辛い思いをさせるでしょうが、それにもかかわらず、あなたはなりたいものになれる。あなたはあの悪たれの、ろくでなしのチビどもと一緒になることはできませんし、そんなものにはならなくてよろしいが、彼らの心を得る、慕われる王になることはできる。馬を引き出して見せなくても――あなたが、本当にそうなりたいと望みさえすれば」
 彼の『ご学友』に対する、後見人の率直な呼び方に、ライオールはくすくすと笑い声を立てる。やがて、それから顔を上げると、まだ濡れた瞳でじっとグアドを見つめた。
「スーティルはとってもすごいんだ。この前は、大きなたかが、うでに止まってじっとしてた。どうぶつは、みんなスーティルがすきなんだ。目が見えなくたって、それはとってもすごいことだ。わたしは、同じようにはできないけれど……でも、わたしも、すごい王さまになれる?」
「もちろんですとも。あなたにはあなたの才能がある。他の誰とも同じではないが、他の誰とも同じ、素晴らしいものです」
「そうしたら、友だちもできる? わたしが王さまでも気にしないで、いっしょにあそんでくれる友だちができる?」
「おそらくは」
 だがそう答えながら、グアドは密かに良心の呵責を覚えた。それは今、少年の心を慰めるだけの、気休めのような気がしたからだ。彼自身の若い頃にしたところで、もしセディエルが王子ではなく在位中の国王であったなら、あそこまで遠慮のない態度が取れたかどうかはわからない。
 しかしライオールには、長く続く未来がある。この幼い少年がそれなりに年を取り、人生の割り当てを終えるまでの時間はかなりあるはずだ。その間には、王を王とも思わない、粗雑で気のいい無礼者の一人や二人、現れないとも限らないではないか。
 グアドの答えが気に入ったのか、ライオールは微かに安堵したような笑みを閃かせた。袖で涙を拭うと、大きく息をつく。そのまま、何か考えを巡らせているように黙っていたが、やがてはっとしたように再びグアドを見上げる。
「スーティルは、どうなったの? もう、とってもおこられちゃったの? あやまりに行かなきゃ、わたしがわるかったんだから」
 グアドは思わず笑みがこぼれそうになるのを、何とかこらえなくてはならなかった。これは彼が気付いている、ライオールの得難い才能の一つだ。この子は、およそ身分の上下で態度を変えない。王宮の下働きであろうと、貴族の子弟であろうと、同じように接する。
 それは子供だからだというよりは、王の資質と思える――この国では、他の人間はすべて彼より身分が下なのだ。下の者の序列など、王たる者には些細なことである。全員が彼の臣民であるという意味では、誰もが等しくあるということを、本能的に受け入れているのだ。なかなか、誰にでもできるものではない。
「もう、とってもおこられちゃってはいるでしょうな。既に時遅しです、仕方がありません。どんなに焦っても、もうどうしようもないのですから、その足が治ってから、謝りに行かれればよろしかろう」
「スーティルは、ゆるしてくれるかな?」
「それはわかりませんな。決めるのは彼だ。あなたは、彼にあなたを許せと命令することはできない、そうでしょう? ですが、あなたはあなたの意思だけで、彼に謝ることができる。誰の許しを得なくても、お気持ちを伝えることができます。それは、やってみる価値のあることではありませんか」
 少しばかりは慰めを期待していたに違いない、ライオールは一瞬、がっかりした顔をしたが、しかしすぐにこくりと頷いた。幼い顔に静かな決意の表情を見て、グアドがもう一度少年の肩を強く握ったとき。
「公爵閣下」
 扉が控えめに叩かれて、彼を呼ぶ声が聞こえて、グアドははたと我に返った。そうだった、まだ仕事が途中だったのだ。ライオールが怪我をしたと聞いて、すべてを放り出して飛んできたが、放り出されたものがその場で消えてくれるわけではない。今頃、彼が戻ってくるのを待ちくたびれているはずだ。
「申し訳ない、ライオール様、私はもう行かねばならない。あなたは、今日はこの後もずっとここにいて、静かになさっておってください。怪我をしたときは、それが何よりも大事なことだ。夕食の時間には戻ってきます」
 ここ最近、グアドはできるだけライオールと食事の時間を共にすることにしていた。と言っても、日中はほぼ都合がつかないので、朝か晩かのどちらかということがほとんどだが、それでも一日一回は合わせるように心がけている。食事時というのは不思議な時間だ。軍でも、兵士が腹を満たしてほっと息をついているときだけは、極端に騒動は少なかった。腹が満ちれば安心する、安心すれば、思っていることを口にしやすくなるものだ。
「グアド」
 立ち上がって、扉に手をかけたところで、背後から呼び止められる。振り返ると、ライオールはためらいがちに尋ねた。
「おしごとは、いそがしい? 夕食までにおわりそう?」
「ええ、今日はそのつもりですが……どうしました」
「また……また、父上のお話をしてくれる?」
 グアドは思わず微笑んだ。これもまた、最近はじめたことの一つだ。少年が眠る前、寝台の側で、父親が若い頃の話を一つか二つしてやるのだ。子供に寝物語をしたことなどただの一度もなかったから、最初は自分でも恐ろしく要領を得ないと思ったが、ライオールは文句の一つも言わず、目を輝かせて聞き入った。次第に彼も慣れてきて、今ではそこそこ筋立てて話せるようになってきた。
 とはいえ、元々さして難しいことではない。何せ、すべて彼自身が間近で経験したことなのだ。それに、いくら話しても尽きることはない――あの頃のセディエル王子の無軌道な行動、引き起こした騒動の数々に、感謝する日がくるとは思わなかった。まあ、いくらかは、七歳の子供の前では口にできないような場所や出来事もあるので注意が必要だが……いや、考えてみれば、ライオールがいくつでも、黙っていた方がいいのかもしれないが。
 だがそれも、決めるのはグアドだ。もしセディエルが、それは困ると言うのなら、早死になんてするべきではなかったのだ。グアドは、期待に満ちた顔つきの少年を見やって、わざとしかつめらしい表情を作った。
「さあ、どうでしょうかな。もちろん、我が陛下の仰せでありますから、前向きに検討したいところではあります。一つ、とても面白い話を思い出したのですが……夕食に出てきた野菜を残らず召し上がっていただけたら、喜んでお話しいたしましょう」
 ええ、と不満の声を上げて、ライオールは顔をしかめる。更なる泣き言を聞く前に、グアドは素早く部屋を後にした。あの子が、皿に載っている緑のものを片っ端から除けたがるのは問題だ。人間は食べたものでできているのだ。何でも口に入れられるようでなければ、丈夫な体にはならない。
 ――おまえは本当に小うるさいな。嫌いなものは嫌いなんだよ、うんざりする。もっと楽しいことを思いつかないのか。
 脳裏で、苛立ったような、からかうような声がする。彼の主の声、今は遠く離れてしまった、けれど確かにここにいる。
 いつかライオールは、真実、この国の王となるだろう。彼の幼い被保護者ではなく、自らの力で王冠を支え、玉座に君臨する真正の王となるだろう。その父と同じように――彼の主が望んだように。
 だからそういう意味では、セディエルはまだここにいる。彼の忠誠が、剣の誓いが果たされるのを待っている。いつか、その日がやってくるまで。
 ライオールに、父の全き王国を手渡すこと。そのために、彼の全てを懸ける必要がある。いつか必ず来るその日、ライオールが、この王国そのものが――別れの言葉も交わさなかった、彼の王への挽歌となるだろう。

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