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● 最悪の災厄 ●

 人生最悪の災厄は、ある日突然やってくる。それが災厄だと、気付きもしないうちに。
 望みもしないのに現れて、否応なしにすべてを狂わせていく――『完璧な兄』などという災厄は。

***

「早くしなさい! 一体何をぐずぐずしているの」
 背後から甲高く怒鳴られ、リーベルトはびくっとして顔を上げた。彼が振り返るのと、扉を開けて入ってきた母が、更に悲鳴のような声を上げるのはほぼ同時だ。
「ああ、ちょっと、何てこと! そんなところに這いつくばるのは止めなさい! せっかくの服が汚れるでしょう!」
「でも、ははうえ、ぼくのくつがみつからないんだよ」
 たった今まで下を覗き込んでいた寝台の、側の床に座り込んだまま、リーベルトは何とかそう言った。母がいらいらしているのはわかっている。もうすぐ出かけなければいけないのに、彼の準備ができていないからだ。
 でも、決して怠けていたわけではない。気に入りの靴が見つからないのだ。寝台の下も机の下も衣装棚の中も玩具箱の中も、絶対ないと思いながらも本棚の中まで探したのに、どこにもない。
「靴? もう履いているじゃない」
「これじゃない。ぼくの、みどりのくつ」
 どこへでも履いていく、彼の素敵な靴。あれを履いていれば、他の子よりもずっと速く走れる。水たまりを踏んでも平気だし、泥の上でも滑らないし、小石だって上手に蹴ることができるのだ。あの靴を履いて行かなければ。
 特に、今日は。
「いい、リーベルト、私の可愛い坊や。私たち、ついに幸せになれるのよ!」
 少し前のある日、母は突然そう言って、彼を抱きしめたものだった。『しあわせになる』がどういうことなのか、リーベルトにはよくわからなかったが、母の様子からして、きっといいことなのだろうということはわかった。彼が床いっぱいに広げた玩具と、外遊びで服につけてしまった泥はねを見ても、いつものように怒りもせず、むしろ上機嫌でいるなんて、よほどのことだ。
「ついに、城へ入れる――ああ、どれほど待ったこと! もうこんな、みじめな暮らしをしなくて良くなるわ。こんな家ともおさらばよ」
 だが、続けて母が口にした言葉に、にわかに不安になる。『こんな家ともおさらば』とは、どういうことだろう。ここが、彼の家なのに。生まれたときから、ずっとここにいるのに――ここ以外の、一体どこへ行くというのか。
「あら、決まってるじゃない。お城よ、お城に住むの。こんな家なんかより、ずっと広くて、ずっと豪華で、ずっと素敵なところに住めるのよ」
「ぼく……そんなのいやだ。ここがいい」
 『おしろ』がどんなところなのかは知らないが、しかしこの家より素晴らしいところが、他にあるだろうか。晴れた日には瑞々しく輝く、緑の芝生を裸足で踏みしめる心地よさ。果実のつく木によじ登れば、甘い実を好きなだけ齧ることができる。階段は、一段飛ばして下りられるようになった。大好きな玩具も、通いの使用人が作ってくれる菓子も、柔らかい寝台も心地よい暖炉もあるのに、どうして他へ行かなければならないのだろう。
「何を言っているの! あなたはこの国の王子なのよ。身分に相応しい暮らしをしなければならないわ――いつか、あなたが国王にならないとも限らない」
 なんだか知らないが、そんなものにはなりたくない、ずっとここにいたい……けれど、彼を見据える母の目には、なんとも言えない凄みがあって、リーベルトは口をつぐむしかなかった。母に怒られるのは嫌だ、だがそれはいつものこと。でも、今日は何かが変だ。いつもと違う――何か、とんでもないことが起きようとしている。
 黙り込んだ幼い息子の表情に、怯えを見て取ったかどうか、母はそこで調子を変えた。うっとりするような笑顔を浮かべ、甘やかす声で言う。
「何も心配はいらないのよ、父上の家に引っ越すだけだから。私たち、みんな一緒の家で暮らすのよ。ね、それは楽しみでしょ」
「ちちうえ?」
 それは確かに、素敵なことだ。リーベルトは思わず訊き返していた。父と一緒に暮らす、同じ家に住む、昼も夜も――他の子供たちの家みたいに?
 『ちちうえ』は、いつも夜しかいない。そもそもいないときだってあるが、いつでも必ず、朝にはいなくなっている。そしてそれが、どうも一般的なことではないらしいということに、リーベルトは薄々気付いていた。時折、彼が家から抜け出して、通りで一緒に遊ぶ子供たちの多くは、家に父親がいるらしい。
 もし、父がずっと、同じ家で暮らしていたらどうだろう。明るいうちに家にいてくれたら、一緒に遊んでくれるだろうか。木の枝の剣と板の楯で、戦いごっこをしてくれるだろうか。陣取りも、一人ではできないけれど、父がいればいつでもできる。夕方、日が暮れはじめて寂しいとき、迎えに来て、抱き上げて連れて帰ってくれるだろうか――他の子供たちの父親がそうするように。
「……わかった」
 結局、リーベルトは頷いたが、しかし彼が頷こうか頷くまいが、どのみちどうなるかは決まっている。その日から、母はますます様子が変わっていった。上機嫌にしているかと思えば、急に怒り出す。がみがみ口うるさく言われるのは、前からそうだったが、説教する言葉が違う。
「もう、みっともないことはしないでちょうだい! あなたは王子なの、もっと立派にできないの――私に恥をかかせないで」
 木のぼりも泥遊びも、階段を飛び降りて遊ぶことさえ、母には『みっともないこと』で、恥ずかしいことなのだ。彼はいつの間にか『おうじ』というものになっていて、だから『りっぱに』していなければいけないのだ。
 そして今日、ついにこの家を出て行く。もう二度と、帰ってくることはない。本当の気持ちを言えば、悲しくて泣きたかったが、それは『みっともないこと』だから我慢した。新しい家に行くのは、とても大事なことだと母が言ったから、彼は『りっぱに』していなければいけない。あの緑の靴、あれを履いていれば、彼はすごく『りっぱな』子供でいられるのだ。一体どこへ行ってしまったのだろう。
「ああ、あれ」
 だが、リーベルトの訴えを聞いた母は、つまらなそうにそう答えた。
「あんなもの、とっくに捨ててしまったわよ。泥まみれで汚くなったでしょう。もう履けないわよ」
「え!」
「あんな靴で、城に入ろうって言うの? 冗談じゃない。その新しい、ピカピカの靴の方がずっといいでしょう」
 彼が渋々履いている、真新しい靴を見ながら、母は満足そうだ。リーベルトは、目の縁に涙がこみあげてくるのを感じた。いいわけがない、彼の大事な靴なのに。ピカピカの靴なんか要らない、あの靴でなければ――誰よりもいい子で、立派でいようと思ったのに!
「ああ、もう、馬鹿な子ね。いちいち泣き喚かないで! もう行かなきゃいけないんだから」
 ついにこらえきれず、声を上げて泣き出したリーベルトを、母はそう叱った。このままでは埒が明かないと思ったのだろう、彼の腕をぐいと掴んで、そのまま引きずるようにして外へ向かう。リーベルトは身をよじって、逃げ出そうとしたが、母は少しも力を緩めてはくれなかった。彼はいよいよ激しくしゃくり上げながら、それでも母についていくしかない。
 馴染みの門の向こうに、馴染みのないものが現れていた。大きな馬車だ。それも、ただ大きいだけではない。黒塗りの車体は、曇り一つなく磨かれ、太陽の光に輝いてまぶしいほど。軸にまで優雅な文様が入った車輪にさえ、土の汚れなど見えなくて、まるで空でも飛んできたかのように見える。優雅な曲線を描く車体の先で、軛につながれているのは、堂々とした四頭の黒鹿毛。
 こんな馬車を見るのははじめてだ。普段のリーベルトであれば、一目見るなり歓声を上げて走り出し母に叱られるか、母が根負けするまで、あれに乗せてほしいと訴えるかするところだ。実際、その光景には一瞬目を奪われ、嗚咽も引っ込んでしまったリーベルトだが、しかし今は、とても大喜びする気持ちにはなれない。
 せっかくの馬車に乗り込まされた後も、外の景色を眺めることもできず、彼はただ俯いたまま、黙り込んで座っていた。外なんか、見たくもない。どうせ、もう戻れない家が遠ざかっていくだけなのだ。
 母はもう、何も言わなかった。彼が袖で鼻水を拭いたりしない限りは、好きにさせておこうと思っているに違いない。足下の、真新しい靴が視界に入るたびに、涙が出そうになるのをこらえながら、リーベルトは母からも顔を背けてむっつりしていたが、それも長くは続かなかった。ほどなくして、小さな軋みを上げながら、馬車が停まったのだ。
「ようこそ、おいでくださいました」
 扉を開けた、見知らぬ男は、ひどく恭しくそう言った。丁重な仕草で、母の手を取り、馬車から降ろす。次いで、その男がリーベルトにも手を差し伸べそうになったので、彼は我に返り、慌てて馬車から飛び降りた。彼は母と違って男で、もう四歳になるのだ。小さな子供みたいに手を貸してもらわなくたって、何でも一人でできるのだ。
 だが、勇ましくいられたのもそこまでだった。目の前に広がる光景に、リーベルトは思わず立ちすくんでしまう。
「ご到着を、心より歓迎申し上げます、我が王妃。それに、王子殿下」
 まず目に入ったのは、人――大勢の人だ。大人たち、それも揃いの黒い服を着た大人たちが、ずらりと整列している。まるで彼の持っている、玩具の兵隊のような姿だが、生身の人間がそうしているのはひどく奇妙だ。その上、全員が彼を見ている――誰も、まっすぐに睨みつけたりはしてこない。だがそれでも、彼らの注意が自分たちに集中しているのは、肌身に感じた。息苦しいほどの、張りつめた空気。彼はその中心に放り出されたのだ――彼と、母が。
 しかし、母はそれを何とも思いはしないようだった。迎えてくれた男と、何事か朗らかに言葉を交わすと、おもむろに歩き出す。リーベルトは焦って、母のスカートの裾に取り縋った。
「リーベルト! ちゃんと歩きなさい」
 母の叱咤が聞こえるが、聞かないふりで、リーベルトはますます強く布地に顔を押し付ける。ここは嫌だ、なんだか変だ。知らない大人たち、知らない場所、胸がつかえるような空気――母にくっついていなければ、怖くてたまらない。
 母は再び、何か言ったようだが、それ以上ひどく叱るのは、さすがに周りの人間に憚るものがあったらしい。諦めたようにため息をつくと、あとは何も言わずに、ずんずん歩いていく。文句を言われなくなったことにはほっとして、けれど置いていかれないように懸命に足を動かしながら、リーベルトはちらちらと辺りを窺った。彼らが進むごとに跪く人々の間を通り抜けると――そのほとんどを、リーベルトは母のスカートに隠れてやり過ごした――巨大な扉が音もなく開く。ひんやりした空気に満ちた、石造りの空間に、彼らの足音だけが、やけに大きく響く。彼がこれまで見たことがないほど広い建物、けれどそそり立つ壁は圧倒されるほど、天井は高すぎて、逆に息が詰まりそうだ。
 一体ここは何なのだろう。こんな大きな家に、一体誰が住むのだろう。彼にはもちろん、大人にだって大きすぎる。
 ――きょじんだ。
 ふと、町の子供たちから聞いた話を思い出し、リーベルトは密かに震える。この世界のどこかには、山のように大きな巨人がいるのだと。普段は寝ているが、何かの拍子に目を覚まして暴れ出すと、誰にも手が付けられない。どんなに強い男でも、どんなに弱い赤ん坊でも、見境なくバリバリと頭から食べてしまうのだ。だから、巨人を起こしてはいけない――癇癪を起こして泣いたり暴れたり、わがままを言ってごねたりすると、巨人が聞きつけて、うるさい子供を食べてしまうのだ。
 本当に、ここは巨人の家だろうか。静かにして、息を殺して、早く逃げ出さなくては。
「ははうえ……」
 小声で母に呼びかけてみる。しかし、案内役の男と話している母には、聞こえなかったらしい。もっと大きな声で言わなければ、でも、これ以上大きな声を出して、もし巨人が聞きつけたら……。
「恐れ入りますが、少しこちらでお待ちください。国王陛下がおいでになります」
 やがて、ある部屋へと通された後、男はそう言って立ち去った。これまで歩いてきた通路に比べれば、四方を壁に囲まれているだけ、いくらか気が落ち着くが、それでも天井は高いし、得体の知れない場所に変わりはない。部屋にはやはりすでに誰かがいて、母に丁重に何か話しかけていたが、リーベルトは頑なに顔を上げなかった。本当に、巨人が来たらどうしよう。そんなことはない、あんなのはただのお話だって、他の子供たちが言っていた。でも、さっきの男は、誰かが来ると言っていなかったか。『こくおうへいか』というのは、巨人の名前なのだろうか。
 そう思った途端、扉を軽く叩く音がする。何者かが、扉の向こうにやってきたことを知って、リーベルトはいよいよ身を固くする。ついに来た。何かわからないが、ついに来てしまった。この奇妙で恐ろしい場所の主が、もうそこにいるのだ。
「ああ、無事に着いて何よりだ。道中、何か不都合はなかったかね」
 だが、次いで聞こえてきた声は覚えのあるもので、リーベルトはきつく閉じていた目をぱっと開けた。恐る恐る顔を上げて、声の主を確かめる。
「ええ、幸いに。でもあなた、あんな大仰な馬車を寄越すなんて、人目について困ってしまいます」
 朗らかな口調で母が話している相手は、紛れもなく父だった。昼の光の中では、まず会うことがなかったはずの父が、まさにそこに立っている。母に更に何か言い、親しみのある抱擁を交わす。どこにも巨人はいない。
 巨人はいないが、別の何かがいる。吸い寄せられるように、リーベルトは息を詰めて、父の側に立つ子供を見つめた。そう、子供だ――彼より少し大きな子供。皴一つない服を着て、ピカピカの靴を履いて、行儀よくきちんと立っている。
「はじめまして、あたらしい母上。レイドリック・エセルリード・フィスターシェです。おあいできてこうえいです」
 その上、その子がそう挨拶して、母の手に口づけたので、リーベルトはますます驚いた。町で一緒に遊んでいた、どんな大きな子供だって、こんなことはできない。母は、ことあるごとに、彼に『立派に』していろと言ったが、リーベルトははじめてそれがどういうことか理解できたように思った。きっと、こういうことなのだ。堂々としていて、礼儀正しくて、まるで、一人前の大人みたいに。
 ――あ。
 不意に、その子が視線を巡らせるのが見える。リーベルトはほとんど反射的に、母のスカートに顔を埋めた。何故か、ひどく胸がどきどきした。目が合ってしまったらどうしよう。なんだかとても恥ずかしい。
 ああ、でも、あの子は誰なんだろう。この見知らぬ場所で、たくさんの大人の中で、たった一人、彼と同じ、子供。
 ついに、好奇心が抑えきれなくなった。リーベルトは、恐る恐る顔を上げる。大きな子供は、まだそこにいた。さっきと変わらない場所に立っていて――彼と同じように、こちらを見つめている。
「きみが、リーベルト」
 突然、相手が彼の名を呼んだので、リーベルトはぎょっとした。再び、母のスカートの陰に隠れてしまいたくなるが、しかし続く相手の言葉に、思わず注意を引かれる。
「ぼくは、レイドリックだ。はじめまして、リーベルト、ぼくのおとうと」
 ――おとうと?
 それが何なのか、リーベルトにはよくわからない。またしても、彼はなんだかよくわからないものになってしまったらしい。『おうじ』になったから、『おしろ』に行かなくてはいけなくて、『りっぱ』でいなくてはいけない。嫌なことばかりだ。
 でも、『おとうと』はどうだろう。少なくとも、恐ろしい感じはしない――目の前の大きな子供は、目を輝かせて彼を見つめている。まるでそれが、世界で最も素敵なことだとでも言うように。
 その輝きにつられるように、リーベルトは我知らず、母のスカートから手を離した。なんだか少し、怖くなくなった。ここに、彼の他にも子供がいるのなら、きっと巨人に食べられはしないはずだ。
 大きな子供が、近づいてくる。どうしていいかわからずにいる彼の手を、少し大きな手がぎゅっと握った。大人のように大きくはない、けれど確かな感触。温かくて、柔らかくて、でもしっかりと彼の手を握っている――手をつないでいれば、きっと何があっても大丈夫。
 だからリーベルトも、その手を握り返す。この手だけだ――知らない場所、知らない大人たち、理不尽で恐ろしい世界の中で、彼のために差し出されたのは、この手だけ。
 見上げるリーベルトの前で、大きな子供は、一瞬、驚いたような顔をした。けれど次の瞬間には、満面の笑顔になる。曇り一つない、心から幸せそうな笑顔。手の中の、大切な宝物を見るような――向けられた誰もが、自分にはその価値があるのだと信じ込むような笑顔で。

 だから、彼も信じた。
 簡単に放り出されてしまうまで――信じたのだ。

***

「リーベルト、危ないよ! 下りておいでよ」
 はるか下から、辛抱強く繰り返す声がする。もう何度目になるかわからない呼びかけに、しかしリーベルトも負けじと言い返す。
「いやだ! もう、城になんてかえらないんだから!」
 よじ登った庭木の幹に、いよいよきつくしがみつく。もう、絶対に下りるものか。誰が来て、何と言ったって帰らない――たとえそれが、大好きな兄であっても。
 その兄は、依然、木の下に立って、心配そうに彼を見上げている。リーベルトはますます面白くなかった。そんな顔をしなくても、大丈夫に決まっている。彼は一人でここまで登ってきたのだ。誰の力を借りなくても、自分のことくらい自分でできるのに。
「でも、もうお茶の時間だよ。胡桃の焼き菓子があるんだ。果物もあるよ。一緒に食べようよ、きっととってもおいしいよ」
 だが、続く兄の言葉には、多少心が動く。いつもなら、兄と一緒に、何か軽いものを口にしている時間だ。気づくと、途端に腹の虫がきゅっと小さく鳴いて、リーベルトは何となく心もとなくなった。そう、確かにお腹は空いた。
 樹上の弟の内心を見透かしたように、兄は更に呼びかける。
「それで、食べ終わったら、昨日の続きをやろう。駒合わせ」
 そうだ、それもあった。瞬間、真新しい勝利の記憶がぱっと脳裏に閃いて、リーベルトはあの陶然とするような喜びが戻ってくるのを感じた。一晩経っても、少しも色褪せない高揚感。
 盤上で駒を戦わせる遊戯は、彼らのような少年たちにはお馴染みのものだ。城に出入りする子供たちから、やり方を教わったリーベルトも、すぐに夢中になったが、いつも相手になってくれるのは、兄のレイドリックだけだ。城に、いつも子供が来るとは限らないし、ここには彼らの他に子供は住んでいない――妹はまだ小さくて、駒を動かすどころか、盤上をぐちゃぐちゃにして喜ぶのが関の山だし、まして、この前生まれたばかりの弟なんか数に入らない。
 もちろん、兄と遊ぶのが嫌なわけでは決してない。むしろ、他の何よりも楽しいことだと思っている。ただ、そうなると、リーベルトにはまず勝つ機会がなかった。どんなことでも、およそできないことというものがないレイドリックには、案の定、この遊戯もお手の物なのだ。
 何度やっても、勝てない。不機嫌になる彼を見かねてか、兄はときどき、わざと隙を作って手加減してくれようとするのだが、そうされると尚更腹が立った。彼は勝ちたいのだ、勝利を譲られたいわけではない。
 それが昨日、リーベルトはついに、兄から一勝を得たのだ。手加減なし、完全に対等の条件で、兄に勝った。自分でも信じられなくて、リーベルトはしばらく呆気に取られた後、つい跳ね上がって喜んでしまったほどだった。文句なしの勝利だ。
 文句はない……が、強いて言うなら、ほんの少し不満がないこともない。彼の勝利を、しかし負けたはずのレイドリックは、心から一緒に喜んでくれた。むっとされたり、根に持たれたりするよりはずっといい……けれど、少しくらい、悔しそうな顔をしてくれてもよかったのに。
 だが、兄がそんなことをするわけがないということも、よくわかっている。兄は常に正しいのだ――優しくて、思いやりがあって、正直で、公平で、礼儀正しい。誰かを妬んだり、腹を立てたり、悪口を言ったり、癇癪を起こしたり、そんなことは絶対にしない。
 だから、皆が言うのだ。兄のようにしなさいと――どうして、兄のようにできないのかと。
「いやだ! やらない! どうせまた、兄上がかつにきまってるんだ」
「どうして? 昨日は君が勝ったじゃないか。やってみないとわからないよ」
「わかるさ! 兄上はなんでもできる――なんでも、兄上のほうがじょうずなんだ」
 目の縁に、じわりと熱いものがこみ上げる。声が震えるのが自分でもわかったが、それが嫌で、リーベルトはますます声を張り上げた。そう、兄は何でもできる――比べて彼は、何一つまともにできない。
「だって、みんな言うんだ、兄上はもっとよくできるって」
 確かに、古王国語の勉強は好きではない。今でも大陸各国の共通語として使われている古王国語は、王族の子弟として必ず習得しておく必要がある、というのが大人たちの言い分だが、リーベルトにはちんぷんかんぷんだ。そもそも、じっと座って、綴りをひたすら暗記するとか、同じ文章を何度も読むとか、そういうことが耐えられない。
 好きではないのだが、しかし、彼としては精一杯やっているつもりなのだ。綴りはいくつか文字が違っていたが、ちゃんと文章を書くことができたし、すらすらとはいかなかったが、指示されたページは全部意味を理解して読めた。だが、彼に語学を教えているエリオ師は、やれやれという表情を隠さず、ため息をつくのだ。
 体を動かすことの方が、ずっと得意だと思っていたが、今日はそうもいかなかった。馬術ならよかったのに、あまり得意ではない剣術の授業で、しかも、よりにもよって一番苦手な、型をなぞる訓練だった。言われたようにやっているはずなのに、そうではないと言われ続け、何度もやり直しをさせられて、ついには模擬剣を放り出して癇癪を起こしたら、指南役の王宮付きの騎士にきつく叱られた。
 馬場へ行ったのは、誰もいないところへ行きたかったからだ。これ以上、誰からも、失望されたり叱られたりしたくなかったからだ。けれど、そこで泥を踏みつけてしまったから、彼の汚れた服を見た王妃付きの侍女たちは眉を顰めた。ついには母までが、うんざりした顔をするのだ。
 彼らの言うことは、皆、同じだ。
 ――王太子殿下は、決してそのようなことはなさいませんよ。
「そんなの、気にすることないよ。みんな、いい加減なことを言っただけだ」
「でも兄上は、古王国の本がよめるだろ!」
「それは、僕の方が年上だから。君より二つも上なんだよ」
「エリオは、兄上は、ぼくと同じ八つのときにはできたって言った!」
「…………」
 言い返すと、レイドリックは珍しく、答えあぐねたように黙り込んだ。兄をやり込めたようで、一瞬はすっきりしたリーベルトだが、しかしすぐに、前にも増して重苦しい気分になる。やっぱり、皆の言うことは本当なのだ。年齢は関係ない、兄は素晴らしくいい子で、彼はそうではない。
 兄が立派で優秀なことが、嫌だとは思っていない。どころか、いつもならそれは、リーベルトの自慢の種でさえある。誰もが口をそろえて褒める兄は、『彼の』兄なのだ。優しくて、何でも知っていて頭が良くて、彼の言うことを何でも聞いてくれる大好きな兄を、皆が褒めるのは当然のことだし、彼にとっても誇らしいことだ。
 けれど、そこで自分のことを持ち出されると、急に何もかもが嫌になってくる。どうして兄のようにできないのかと言われても、彼にだってわからないのだ。どれだけ、兄のようにいい子でいたいと願っても、どうしてもうまくいかない。
 兄のことは大好きだ。自慢に思っている。でも、兄にできることが同じようにできなければ、きっと彼は『自慢の』弟ではないだろう……。
「そんなこと、どうだっていいよ。リーベルトはとってもいい子なんだから、ちょっとくらいできないことがあったって、何も……」
 下から聞こえるレイドリックの慰めが、今はひどく忌々しい。そんな風に機嫌を取られたって、何にもならない。
「兄上はなんでもできるから、どうだっていいんだよ! みんな、兄上のほうがいい子だとおもってる……みんな、兄上のほうがすきなんだ」
「そんなことないったら!」
 しかし、リーベルトがどれほど喚いても、レイドリックは説得を諦める様子はなかった。どころか、ますますきっぱりとした口調で続ける。
「みんな、君のことが好きだよ。父上も、母上も、他の子たちも。僕もだ」
「うそだよ! みんな、兄上がいればそれでいいんだ。ぼくがいなくたって……」
「リーベルト!」
 不意に、彼の言葉を遮って名を呼ぶ兄の声音が、鋭い響きになる。リーベルトはびくっとし、反射的に口を閉ざした。レイドリックがこんな声を出すことは滅多にない――彼をきつく叱責する声。
 先刻までとは違う涙が、瞼に浮かんできそうになる。今すぐにここから下りて、兄に謝ってしまいたい。怒らないでほしい、嫌いにならないでほしい。もうみんな、彼のことが嫌いなのに、この上、兄にまで嫌われてしまったら――。
 しかし、そこまで考えた瞬間、代わりに湧き上がってきたのは憤りだ。どうして兄に、彼を怒る権利があるものか。そもそも、全部兄のせいではないか。兄があんまり立派でいい子だから、それで皆がリーベルトを要らないと言うようになったのに。
 零れそうな涙をこらえて、唇を引き結ぶ。リーベルトはすっくと枝の上に立った。地面はますます遠くなる――彼を見上げている兄も。
「だめだ、リーベルト! 落ちる!」
「しるもんか! ぼくがおちたって、兄上がいればいいんだ」
「そんなわけないだろ!」
 レイドリックは、今やはっきりと顔を引きつらせていた。少し前なら、兄をこうまで動揺させたことを、少しは面白く感じたかもしれないが、今はそれさえもただ苛立たしいだけだ。そんな顔をしなくたって、落ちたりなんかしないのに。兄は信じてくれていないのだろうか。彼が出来の悪い弟だから、きっと不器用に足を踏み外すと思っているのか。
 だが、続けてレイドリックが懇願するように言った言葉には、多少心が動かされた。
「リーベルト、お願いだから、もう帰ろう。誰がなんて言ったって、いいじゃないか。みんな、本当のことなんか知らないんだから――君に、どれだけいいところがあるか、知らないんだ」
 ――いいところ?
 リーベルトは動きを止めて、まじまじと兄を見つめる。彼にも、いいところがあるのだろうか。大人は誰も、そうは言ってくれなかったけれど……。
 でも、兄が言うのなら、信じられるかもしれない。自分が、ただの馬鹿な子供ではないと――少なくとも、兄はそう思ってはいないと信じられたら。
「……ぼくの、いいところ? なに?」
 しかし、密かな期待を胸に尋ねたリーベルトにとって、兄の答えは、まったく期待外れだった。レイドリックは大袈裟なくらい真面目な顔で、こう言ったのだ。
「とっても優しいところ。いつだって、僕と一緒に遊んでくれる」
 ――……それが、いいところ?
 馬鹿らしい、とリーベルトは頬を膨らませた。兄と一緒に遊びたいのは当然のことで、優しいとか優しくないとか、そんなことは一つも関係ない。そんなのは、いいところでも何でもない。
 優しいと言うならば、それは断然兄の方だ。二人で食べるお菓子を選ぶときはいつも、レイドリックは必ず彼に先に選ばせてくれる。一つだけと言われても、どうしても選べなくて困ったときには、兄は片方を自分が取って、あとで彼にくれたりもする。やりたい遊びには何でも付き合ってくれるし、何をねだっても、嫌な顔をされたことなんか一度もない。リーベルトの知る限り、この兄より優しい人間なんてどこにもいない。
「それに、勇気がある……母上は、あまりお喜びじゃないのに」
 母が、一体なんだというのだ。確かに、彼が兄の話をするたび、母が妙な態度になることには気づいている。だがそもそも、母は彼の話すことになど、さして関心がないのだ。妹や弟――『ちびども』の方が、ずっと大事なのだ。だから、母がちょっと変な顔をするくらいで、この特権を手放すつもりなど、リーベルトには毛頭ない。
 そう、特権だ。優秀で聡明な王太子殿下、この兄の弟でいることは、一面では何にも代えがたい特権でもある。城を訪れる他の子供たちと遊ぶとき、レイドリックはもちろん公正に、皆に平等に親切にするのだが、けれどいつも、リーベルトのことは特別に気にかけてくれている。たとえば、自分の順番を一度だけ譲ってくれたり、いくつかある遊びの中で、リーベルトの得意なものを、必ず一つはやらせてくれる。おやつの時間になれば、いつもの通り、大きくてきれいな方を、当たり前にリーベルトにくれて、そういうとき、他の子供たちは皆、心底羨ましそうな顔をするのだ。でも、誰も何も言わない。彼が兄の弟だと――特別な存在だとわかっているからだ。
 何度か他の子供から、『兄弟喧嘩』というものについて聞いたことがある。彼らの兄姉、あるいは弟妹はとても意地悪で、彼らの大事なものを横取りしたり、なくしたり壊したり、あるいは両親に告げ口をしたりする。だからしょっちゅう喧嘩していなければならないのだと聞いて、リーベルトは驚き、次いで彼らに深く同情したものだった。そんな嫌な兄弟がいるなんて、なんて大変なことだろう……まあ、彼自身にしても、最近生意気な口をペラペラ叩くようになった妹は、時折腹立たしくはあるが、あんなちびのことはどうでもいい。彼の兄は、およそ『意地悪』などという言葉とは無縁の存在だ。兄弟喧嘩なんてしたことがない、する理由がない。どんな子供だって、リーベルトの立場になれるなら――こんな素晴らしい兄の弟になれるなら、どんなことだってするに違いない。
 だから、またしてもレイドリックは間違っている。彼は勇気を持って、固い決意で兄のところへ向かっているわけではない。ただ、一緒にいたいだけだ。誰だって、同じようにするはずのこと。特別なことではない――彼自身に、何か特別な能力があるわけではない。
 リーベルトはふんと鼻を鳴らした。そんなことしか、言うべきことはないのだろうか。何かもっと、恰好良くて、誰の目にもはっきりとわかる、自慢できるような長所を思いついてくれたらよかったのに。
 いや、と、リーベルトははたと気が付いた。レイドリックの言葉の中に、一つだけ、気に入った言い回しがあったではないか。
 ――勇気がある。
 そうだ、それなら証明できる。兄のように上手でも、賢いやり方でもないかもしれないけれど、でも逆に、彼にしかできないことだってあるはずだ。
「リーベルト!」
 腕まくりをして、木の幹に取りつくと、下から叫ぶ声が聞こえた。リーベルトはにっこりして、兄を見下ろす。兄は怖いのだ、でも彼は怖くない。
「ぼくはゆうきがあるんだ。もっと上までのぼれるよ」
「そういう意味じゃない! 止めてくれ!」
「おちないよ。ぼく、兄上よりずっとかるいんだよ」
 そう言いながら、リーベルトは更に上の細枝へ手を伸ばした。しなり具合を確かめて、体を引き上げる。いつもは、兄より体が小さくて、上の方にあるものが取れなかったり、遠くへ飛び移れなかったりするのが歯がゆいのだが、今だけはそれが利点なのだ。
「兄上より、ずっとたかくまでいける。ほら、このえだだって……」
 だがそう言いかけたとき、ぐらりと視界が傾く。足下の感覚が消え、全身の血が凍りついて、リーベルトは何が起きたのか本能的に理解した――落ちる!
「――――!」
 それは、実際には一瞬の出来事だったのだろうが、リーベルトには耐えがたいほどの恐怖の時間だった。視界が回る、たった今まで、立っていたはずの枝が遠ざかる。何かが腕に当たって……その間、彼はどうすることもできないでいる。怖い、怖い、助けて――でも、どうにもならない。もう、終わるしかない。
 鈍い衝撃が走って、地面に放り出されても、リーベルトはしばらく、固く目を閉じたままでいた。頬に当たる、湿った土と草の感触、口の中に砂利が入って気持ち悪い……それに、痛い。右腕に、灼けつくような痛みがある。何か熱くて冷たいものが、袖をじわりと湿らせていく。
 ついに耐え切れなくなり、リーベルトは身をよじって起き上がる。痛む右腕に恐る恐る目を向けると、真っ先に視界に飛び込んできたのは、真っ赤な血の色だ。腕も、捲り上げていたはずの袖も、血まみれになっている。痛みよりも、むしろその毒々しい見た目に驚いて、リーベルトは泣き出したくなってしまった。痛い、怖い、こんな怪我をしたことはない。また服を汚してしまった、怒られるだろうか。どうしたらいいのだろう、助けて、兄上……。
 ――兄上?
 しかしそこまで考えて、リーベルトははっとする。そうだ、兄はどこへ行ったのか。たった今まで、木の下に――まさにこの場所にいたはずなのに。
 答えはすぐにわかった。辺りを見回すまでもない、彼のすぐ隣に、レイドリックも同じように倒れている。片腕は、まだ彼の体を抱き寄せるようにかかっていて、リーベルトはそれがどういうことなのかはっきりと悟った。受け止めてくれたのだ。木から落ちた彼を、下で庇ってくれたのだ。
 だが、その兄の様子ときたらどうだろう。
「兄上」
 呼びかける声に、返事はない。レイドリックはきつく目を閉じたまま、起き上がろうともしない。その表情が、苦しそうに歪んでいるのを見て、リーベルトは再び血の気が引くのを覚えた。何か途方もなく、よくないことが起きている。木から落ちるより、腕を血まみれにして服を汚してしまうより、もっと――もっと、悪いことが。
「兄上……どうしたの? ねえ……」
 揺り起こしたくて、手を伸ばす。しかし、その手が兄の腕の辺りに触れた途端、鋭い悲鳴が上がって、リーベルトはびくっと竦んでその手を引っ込めた。痛いのだろうか。今、何か、いけないことをしてしまったのだろうか。怪我をしているのだろうか。血が出ているようではないけれど、どこが悪いのか。
「兄上! 兄上! 兄上!」
 だが何にしろ、目の前の兄が、ひどく苦しんでいるのは確かなことだ。それが辛くて、恐ろしくて、リーベルトはただ大声で兄を呼び続けるしかできなかった。瞼から熱い雫がぼたぼたと零れ、声はどうしようもなく震えたが、そんなことは気にならない。
 どうか起きてほしい。目を覚まして、こっちを見てほしい。どこが痛いのか、何が悪いのか話してほしい――どうしたらいいのか、教えてほしい。
「あ、兄上……おきてよ……」
 果たして、その願いが通じたのか、やがてリーベルトの見ている前で、レイドリックはうっすらと目を開けた。よく見知った若草色の瞳が、ぼんやりと彼に向く。普段ではまずあり得ない眼差しだが、とにかくリーベルトは安堵した。よかった、応えてくれた。兄が目を覚まして、側にいてくれたら、何もかも大丈夫なのだ……。
 いよいよとめどなくあふれ出して、視界をぼやけさせる涙を、リーベルトは懸命に拭う。と、その瞬間、兄は目を見開いた。焦点の合っていなかった瞳が、吸い寄せられるように彼を見つめる――彼の、血まみれの右腕を。
「リーベルト、怪我を……」
 言いかけて、レイドリックは体を起こしかける。しかし、急に力が抜けたかのように、再び地面に横たわってしまった。力だけではない、その顔から、見る間に色がなくなっていく。
「! 兄上!」
 目を閉じたレイドリックは、もう苦しそうな表情はしていなかった。しかし、安らかな様子にもまた見えない。たまらず触れてみた兄の手がひどく冷たくて、リーベルトは、一旦は収まった恐怖が再び強さを増して、彼の心臓を掴み上げるのを感じた。何も感じず、動きもせず、血の通わない――微かに聞こえる、浅い呼吸がなければ、到底、生きているとは信じられない。
 いや、いや、そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。兄は優しくて、立派で、賢くて、何でもできるのだ。世界で一番、いい子供なのだ。そんなことがあっていいはずがない――このまま、二度と目を開けてくれないなんて、そんなことがあるはずがない。
 震える脚に力を込めて、立ち上がる。よろける体を支えながら、リーベルトは懸命に考えを巡らせた。どうしたらいい、どこへ行ったらいい――庭園の反対側には、王宮の衛兵が常に交代で立っているはずだ。あそこが一番近い。大人を連れてくるのに、数分もかからない。
 けれど、身じろぎもせず倒れている兄の姿を見下ろすと、足がすくんで動かない。たとえほんの一瞬でも、兄の側を離れたくなかった。こんなに具合が悪そうなのに、一人で置いていくなんて……もし、彼が離れている間に、もっと悪いことになったら……でも……でも!
「おねがい、おねがいだよ、兄上、すぐかえるから、本当だから……まってて!」
 もはや、流れ落ちる涙を止めようとも思わない。リーベルトは叫ぶと、必死の思いで兄に背を向けて、一目散に駆け出した。

 王宮内で、所定の位置に立って警備している衛兵たちを、リーベルトはこれまで、背景か置物のように思っていた。彼らは、自分たちのためにそこにいてくれているのだと兄は言っていたが、その言葉をよく考えてみたことは、ほとんどなかった。
 その意味を、これほど強く実感したのははじめてだ。
「兄上をたすけて!」
 突然、どこからともなく現れた王子が、泣きながら金切り声を張り上げるのに、最初、不運な当番の衛兵二人は、心底当惑したようだった。
「たいへんなんだよ。兄上、おきられないの。ぼくのせいだ。木からおちて……」
 しかし、泣きじゃくるリーベルトの言葉の断片を掴んでからの動きは速かった。彼らが血相を変え、リーベルトの示した方向へ飛んで行ったので、彼はいくらかほっとして、堪えることなく泣き出した。とにかくこれで、非常事態はわかってもらえたのだ。
 それでも何とか気力を奮い起こして、再び兄のところへ戻ったときには、既に辺りはちょっとした騒ぎになっていた。さっきまでは誰もいなかったのに、いつの間にか大人が大勢集まって、兄の周りを取り囲んでいる。そのうち、怖い顔をした侍従が彼に気付いて、何があったのかときつい口調で質してきたので、リーベルトはしゃくり上げながら、何とか説明しようとした。彼が木に登ったこと。誰も、彼のことをいい子だと思ってくれなかったから。兄は下りてくるように何度も言っていたけれど、どうしてもそうするのは嫌だった。でも、やっぱり兄が正しかった。彼が馬鹿だったのだ。兄の言う通りにしていればよかった――でなければ、まっすぐ地面に落ちていればよかった。馬鹿で、いい子でないのは彼の方だ、兄がこんな目に遭う理由はない。こんなのおかしい、間違っている……。
 しかし、彼の話は明らかに、相手を満足させなかったらしい。侍従は苛立ちの表情を隠さず、ついには途中で離れていってしまった。普段なら、さぞ不満に思ったに違いない扱いだが、リーベルトもまたそれどころではなかった。体格のいい衛兵が、兄の体に触れて、持ち上げようとしている。
「だめだ!」
 小さな、けれど苦しげな呻きが聞こえて、リーベルトはその衛兵を止めようとした。兄に何をするつもりなのか。そんなに痛がって、つらそうにしているのに、どうしてこれ以上に、傷つけるようなことをするのか。
「リーベルト殿下、離れて」
 だがそれも、別の大人に阻まれる。肩を掴まれ引き留められ、もがいているうちに、衛兵は兄をすっかり抱え上げてしまった。そのままどこかへ歩き出す。
「王太子殿下は、お怪我をされているのです。お医者様に診ていただかなければ」
 思わず追い縋りかけたリーベルトに、引き留めている誰かがそう言った。
「今、宮廷医師殿にも知らせをやりました。すぐに手当てをしてくださいます」
 今よりずっと小さな頃から馴染みの、王宮付きの侍医の顔が思い浮かんで、リーベルトははっとして、少し体の力を抜いた。熱が出たり、どこかが痛かったり、何か怪我をするたびに現れる宮廷医師のジロンは、苦い薬を飲ませたり、傷口に染みる何かを塗ったりするから、いつもそのときはひどく恨めしいのだが、しかししばらくすれば、必ず具合が良くなるのだ。
 あの落ち着いた老人が、兄の側にいてくれるとすれば、それはいいことだ。でも、ジロンに兄が治せるだろうか。いつもの風邪や、小さな擦り傷などとは違うのだ。ぐったりして、苦しそうで、呼びかけても返事もしてくれなくて、まるで……まるで、もう、死んでしまうみたいに……。
「あ、兄上は……だいじょうぶなの?」
「……ええ、ええ、大丈夫ですよ」
 だが、答える声に宿る不確かな響きを、リーベルトは聞き逃さなかった。大丈夫ではないのだ。大丈夫かどうか、誰にもわからないのだ。
 体の芯から力が抜けて、リーベルトはその場に立ち尽くす。兄はどうなってしまうのだろう。もう、一緒に遊んではくれなくなるのか。駒合わせをしてはくれないし、おやつを分けてもくれなくなる――独り占めするのはなんだか嫌で、リーベルトがそれを半分に分けて返すと、驚いた顔をした後で、「ありがとう」とにっこり笑ってくれなくなる。「リーベルトは優しいね。いい子だね」と、兄だけが言ってくれるのに。
 そしてそれは、全部――何もかも、彼のせいなのだ。
「ですから、殿下、ご心配なさらず。もう、お部屋へお戻りください」
 声は優しかったが、リーベルトにはその真意は十分に理解できた。大人には、彼が邪魔なのだ。兄が大変なときに、この上、別の子供の面倒まで見てはいられないのだ。
 そして彼も、もちろん、邪魔になどなりたくない。とっさに右腕を体の陰に隠して、リーベルトは従順に頷いた。声をかけてくれていた、見知らぬ若い使用人は、彼の意外な物わかりの良さに安心した顔をして、他の大人たちの後を追って去っていった。
 一人、取り残されたリーベルトは、少しの間その場から動けずにいた。どうしよう、どうしたらいいだろう――もう、どうしようもないのだ。何ひとつ、できることはない。取り返しのつかないことをしてしまった。
 大人はみんな、正しかった――彼は悪い子供なのだ。自分勝手で、わがままで……兄をこんな目に遭わせてしまっても、何もできない。絶対に許されない。誰に怒られても、嫌われても、当然のことなのだ。
 できることなら、このままいなくなってしまいたい。とはいえ、ここにいつまで立っていても、仕方がないこともわかっている。やがてリーベルトは、渋々歩き出した。さっきの使用人は、部屋へ戻るように言っていたっけ……。
 ――ああ、でも、服……。
 また汚してしまった。思い出して、右手を見下ろす。手を洗わなければ、きっとまた怒られる。
 庭園をとぼとぼと横切り、人気のない水場に辿り着いたとき、リーベルトはもはや何も感じなくなっていた。井戸から汲み上げた水は、体の芯まで沁み込むほどに冷たくて、ようやく血が止まりかけた傷口を疼かせたが、そんなことはどうでもよかった。見る間に水桶の中に広がった血の色を、他人事のように眺めながら、ただ無心で汚れを落とそうとする。
 どうして服のことなどがこんなに気になるのか、彼自身にもよくわからなかった。今更、大人に怒られることなんか、どうだっていい。ただ、他にできることがないだけだ。
 できることなんか、何一つない。世界で一番大好きな人を、自分のせいで死なせてしまうかもしれなくても。
 冷たい水に当たりすぎて、手だけではなく全身が冷え切ってしまった頃、ようやくリーベルトは血を洗い落とすのを止めた。白いシャツについた汚れは落ちないが、濃紺の上着を着ているから目立たない。
 いよいよ本当にすることがなくなって、やむなく部屋へ向かう。頭がぼうっとして、体が重い。とても、疲れた……しかし、彼にそんなことを感じる権利があるだろうか。兄はもっとつらい思いをしているだろう。彼のせいで。
 彼が怪我をしていればよかった――彼が死ぬのだったらよかったのに。
 王宮の建物に入ると、どこか慌ただしい気配が伝わってきた。きっと、兄に起こったことは城中に知れ渡っているのだろう。あまりにいたたまれず、リーベルトはすぐさま、誰もいないところへ隠れてしまいたかったが、意外な人物にそれを阻まれた。
「リーベルト! 今までどこをうろついていた!」
 自室へ戻る途中に、父が立っていた。いつもなら政務を執っていて、こんな時間にはこの場所にいないはずの父が、怒りの形相で彼を睨みつけている。予想外の出来事に、呆気に取られるリーベルトを軽く突き飛ばすようにして居室に追いやると、父はなおも怒鳴った。
「よくもそんな態度で……おまえは、自分が何をしたのかわかっているのか!?」
 父が、これほど怒っているのをはじめて見た。恐れよりは驚きに圧倒され、リーベルトは息を呑む。文人肌で物静かな父は、声を荒らげることさえ稀だった。時折、子供たちが必要以上に騒がしくしているとき、不機嫌に何か言うことはあったが、こんな風に怒鳴りつけられたことなど一度もない。
「レイドリックに何をしたのだ。どんなひどい目に遭わせたのか、少しは考えてみろ! いつまでも、ふらふらと遊び回っていていいかどうかくらいは、わかるはずだ」
 わかっている。兄には何一つ、悪いところなどない。優しくて、勇気がある――自分の言うことに耳を貸さない馬鹿な弟でも、助けようとしてしまうくらいに。そんなことをするべきではなかったのだ。あのままリーベルトを地面に落としてくれていたら、きっと誰も傷つかずに済んだ。皆、倒れたのが兄でなければほっとしただろう。父だって、こんなに怒らなくてもよかった――他の誰よりも、リーベルト自身が、心からそう望んでいるのに。
 けれど、胸の中の思いのどれも言葉にならない。返事もしない彼の様子を反抗的だと取ったのか、父は更にきつく目を吊り上げる。
 一方で、いつもなら彼の起こした厄介事に腹を立てるはずの母は、何故か非難めいたことは言わなかった。どころか、父に対して何かとりなすようなことを言ったようだ。父は噛みつくように言い返し、それに母が声を上げ、今度は両親が言い争いをはじめるのを、リーベルトはなす術なく見つめていた。何もかもが彼のせいなのに、何一つできることがない。両親は争い、皆は悲しみ、なのに彼はまだここにいて――そして兄は……。
「馬鹿を言え! 今回はたまたま、運が良かっただけだ。一歩間違えば、本当に命はなかったのだぞ!」
 突然、父の言葉が耳に飛び込んできて、リーベルトははっと我に返った。――運が、良かった?
「父上」
 言い争いを遮って声を上げると、父は苛立たしげながら彼の方を向いた。黙っていろと怒鳴られる前に、急いで尋ねる。
「父上、兄上は……兄上は、死んじゃうんじゃないの?」
「何だと!? どういうつもりで……」
 父は目を剥いて何か言いかけたが、そこでふと、息子の表情を見て、続きを呑み込んだようだった。少しの間があってから、父は大きくため息をつくと、今度は抑えた声音で言った。
「もちろん、死になどしない。馬鹿なことを言うものじゃない。やがてはすっかり、元通り、元気になるとも」
 それはまったく、奇蹟のような響きで、リーベルトはほとんどその場に頽れそうになった。兄は死なないのだ! 生きていて、ちゃんと元気になるのだ。何もかも、元通りに戻って――また、一緒にいられる。
「ただ今は、とても具合が悪いのだ。何か所か骨折して、その衝撃で意識がはっきりしない。頭を強く打ったのでなければ、今晩中にもしっかりしてくるそうだが、とにかく動かさずに、安静にさせておかなければ」
 しかし、それもどうやら、手放しで喜べるものではないらしい。リーベルトは眉をひそめて、更に尋ねた。
「こっせつってなに?」
「骨が折れることだよ。体の骨だ」
「ほねが……おれる?」
「そうだ。おまえにもあるだろう。ちょうど、この辺だ。この、腕と、肩のところ」
 父の手が軽く、彼の左側に触れる。リーベルトは目を見開いた。父の触れた場所が、急につんとしびれたように感じる。
 人間の体の骨が、折れることがあるなどと、リーベルトはこれまで考えたことがなかった。体の内側の、このまっすぐで固いものが折れる。痛いだろうか……もちろん、痛いに決まっている。だから兄はあんなに苦しんでいたのだ。あの兄にして耐えられないほど、恐ろしく痛むのだ。
 あっという間に、視界が歪む。喉の奥から塊のようなものがせり上がってきて、止められない。それが、自分の耳にも奇妙に響く嗚咽だと気が付く前に、リーベルトは身を翻していた。もう、耐えられない、ここにはいられない。どこか別の場所へ行かなければ。誰もいないところ、暗くて、何もないところ――彼の犯した過ちが、彼を追ってこないところまで。
「リーベルト!」
 だが、行く先は結局、自室の扉しかなかった。寝室に飛び込んで鍵をかける。扉の向こうから、父や母が彼を呼ぶのが聞こえたが、応えることはできないし、そのつもりにもなれなかった。体の内側から、何もかもがあふれてくる。声を上げて泣きながら、リーベルトの脳裏には、たった一つの言葉だけがこだまし続ける。
 ――ぼくのせいだ。
 ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。やがて世界がゆっくりと回りはじめ、リーベルトは床に座り込まざるを得なくなった。息が詰まる、胸の辺りが気持ち悪い。涙や声だけではなく、腹の中のものまで、喉から飛び出してきそうな……でも、兄はもっと苦しかっただろう。もっと痛くて、動くことも、話すこともできなくて。
 全部、彼がやったことだ。彼が、兄にそんなことをしたのだ。
 もう、体を起こしていられない。リーベルトは床にうつぶせて、きつく目を閉じる。途端に床がぐっと下へ引きずりおろされるような感じがしたが、顔を上げたいとは思わなかった。
 このまま、地面の底まで沈んでしまいたかった。誰もいない、光の当たらない場所に落ち込んで――この世界から、消えてしまいたかった。

 はっと気が付くと、リーベルトはまだ床の上にいた。しかし、辺りの様子が違う。真っ暗だ――彼が望んだ通りに。
 真っ暗だが、しかしどこかぼんやりと明るい。窓だ。いつもなら、夜はきっちり閉められる窓から、月明かりが差している。リーベルトはようやく、時間の感覚というものを思い出した。もう、夜なのだ。さっきまでは、まだ夕方と言うにも明るい時間だったはずなのに。
 床から起き上がると、体が強張って動きにくい。どうやら、泣いている間に眠り込んでしまったらしい。どうして誰も起こしてくれなかったのかと、恨みがましく考えかけ、そこでリーベルトはまたしても思い出した。そうだ、鍵だ。誰にも側に来てほしくなくて、寝室の扉に鍵をかけたのは彼自身だった。
 立ち上がると、頭がふらふらする。が、さっきまでの苦しさは消えていたし、吐き気もなくなった。辺りの気配を窺いながら、リーベルトは扉に歩み寄って、鍵を外した。そっと扉を開ける。
 続きの間にも、その外の廊下にも、誰もいなかった。ただ、誰かいた気配はあって、扉の側の卓の上には小さな明かりと、パンと飲み物が置かれている。どうやら大人たちは、彼が自分から出てくる気になるまでは、そっとしておこうと思ってくれたらしい。
 リーベルトは、しばらくその食べ物をぼうっと見つめていた。空腹かそうでないかと言われれば、空腹だと思う。けれど何かを口にしたいという気持ちにはならなかった。食べたら、喉につかえそうな気がする。パンに挟まっている野菜の葉っぱも、好きではないし……。
 ――じゃあ、半分だけだよ。
 しかしそう思った瞬間、不意に声が聞こえた気がして、リーベルトは息を呑む。
 ――半分は僕が食べるから、君は半分だけは食べるんだ。ちゃんと食べられたら、僕のお皿から、好きなものを一つあげる。ね、それなら頑張れる?
 食事時、皿の上の野菜を、リーベルトが必死で寄り分けていると、兄はいつもそう言ってくれる。大人たちは食事の作法に厳しくて、好き嫌いをして残したりすると叱られるとわかっているのだが、それでも嫌いなものは嫌いでどうしようもない。でもレイドリックが隣にいて、そう言って励ましてくれれば、何とか口に入れられるのだ。半分だけなら頑張れる、好きなものをくれたら、もっと頑張れる――兄上が一緒にいてくれたら。
 急にひどく寂しくなって、いても立ってもいられなくなる。自分が仕出かしてしまったことの重さは、今もずっと心に圧し掛かっているが、それとはまた別に、とても心細くて仕方がない。兄の側に行かなければと、リーベルトは思った。話なんかできなくても構わない。ただ、近くにいたい――そこに確かに存在していると、感じられさえすれば。
 明かりを手にし、リーベルトは音もなく廊下に滑り出た。おそらく、既に夜も遅い時間なのだろう。使用人の姿もなく、物音一つしない。普段は聞こえない、壁に掛けられた燭台の灯心が燃えるジリジリという小さな音だけが、時折微かに耳をかすめる。昼間からは想像できない、圧倒されるほどの静けさ。
 もし、他のときであったら、揺らめく影や光の届かない暗がりに、怯えて足を止めたかもしれない。しかし今、リーベルトは何一つ恐れなかった。真実恐ろしいものは、こんなところにはない。
 兄の居室は、リーベルトや他の家族とは少し離れて、どちらかと言えば父の執務室に近い位置にある。兄は王太子で、父の次に国王になる、だから父の仕事をよく見て、ときには手伝わなければならなくて、そのためにはそこにいるのが都合がいいのだと聞かされていたが、しかしそれでも、リーベルトはときどき、兄がもっと彼の近くにいてくれればいいのにと思うことがあった。近ければ、きっともっと、お互いに何をしているのかわかるのに。遊びたいときにはすぐに声をかけられる。夜中、嫌な夢を見たときだって、すぐ助けを求めに行ける。勉強をしているとわかったら、邪魔をしないでおこうと思える――兄の侍女たちにだって、嫌な顔をされずに済むのに。
 兄の部屋の前に立って視線を落とし、リーベルトは少しばかり気持ちがすくむのを感じた。扉の下からは明かりが漏れている。誰かがまだ起きて、そこにいるのだ――兄の世話をしている、侍女たちの誰かに違いない。
 実のところ、リーベルトは、彼女たちのことが少し苦手だった。毎日兄のところへ遊びに行くたび、よそよそしい顔で迎えられる。邪険にされるというほどではないが、あまり歓迎されていないらしいということはわかる。まるで、彼女たちの大事な王子に汚れた仔犬がまとわりつくのを見るような、どこか苦々しい顔つきをするから。
 いつもなら、そんなことは気にしないでいられる。侍女たちなんか、構うことはない。『彼の』兄上なのだ、いつだって好きなときに会えるし、好きなだけ一緒にいていいのだ。誰もそれを悪いだなんて言えないはずだ。
 でも今日は、胸を張ってそうは言えない。兄をひどい目に遭わせた……きっと彼女たちは、一層彼を嫌うだろう。
 扉の前に立ったまま、リーベルトは少しの間逡巡した。が、それでも道は一つだ。意を決して、できる限り礼儀正しく扉を叩く。
「まあ! リーベルト殿下」
 出てきたのは、見知った兄の侍女たちの中でも若い一人だった。気立てが良くて、リーベルトにもそれほど嫌な顔はせず、比較的親切に接してくれる。今も、リーベルトの顔から、彼の用件を察してくれたらしく、彼女は安心させるように微笑んで言った。
「王太子殿下は、もう大丈夫ですよ。お医者様がきちんと診て、手当てをしてくださいましたからね。よくお休みになれば、きっとすぐによくなられますとも」
「兄上に、会いたいんだ」
 けれど彼がそう切り出すと、侍女は難しい顔になった。
「それはいけませんわ。今は眠っていらっしゃいますから。……お兄様のお怪我は、ひどく痛むのですよ。それに、お熱もあって、とても苦しいのです。今はせっかく、何とか眠れていらっしゃるのですから、決して起こしてしまうようなことがあってはなりません」
 さっきは、兄は大丈夫だと言ったのに、それなら全然大丈夫ではないではないか。そう詰りたくなる気持ちを、しかしリーベルトはぐっとこらえた。ここで彼女を責めても、彼の目的は果たせない。
「兄上に会わなきゃいけないんだ。ちょっとだけでいいから。ぜったい、おこしたりなんかしないから」
「ですが……」
「しずかにしてる、いきもしない。ぜったい、やくそくするから――どうか、おねがいします」
 必死でそう言うと、侍女はわずかに目を見開いた。いつもは腕白で生意気、およそ『行儀よく』などという言葉からは縁遠い彼が、そんな口を利けるとは思っていなかったのだろう。
 それでも、侍女はだいぶためらっていた。しかしついに、リーベルトの哀願する眼差しに屈したように、大きくため息をつく。
「……わかりました、少しだけですよ。本当に、お静かになさいませね」
「ありがとう!」
 喜びに顔を輝かせて、リーベルトは勢い込んで礼を言った。が、途端に侍女が顔をしかめたので、慌てて両手で口を押さえる。そう、静かに、静かにだ。
 侍女が控えていた居間を抜けて、奥の寝室に足を踏み入れる。中は更に暗かった。寝台の側に置かれている覆いのついた角灯の、ほとんど消えそうな弱い光だけが、わずかにその周囲の輪郭だけを闇から浮かび上がらせている。
 急にどきどきと高鳴りはじめた鼓動を感じながら、リーベルトは恐る恐る寝台に近づいた。息を詰めて、そっと様子を窺う。
 侍女の言った通り、兄は眠っているようだった。きちんと整えられた寝台に、柔らかい掛布に包まれて落ち着いている様子は、リーベルトが密かに抱えていた恐ろしい想像をいくらか軽くしてくれた。皆、確かにちゃんと、兄を看てくれているのだ。居心地よく、楽にしていられるように、できる限りのことをしてくれている。
 しかし、実際に兄が楽にしているかどうかまた別の問題だ。レイドリックは確かに眠っているようではあったが、うっすらと汗を浮かべ、耐えるように眉根を寄せた表情から、その眠りが、さして苦痛を減じる役を果たしていないことは明らかだった。時折、つらそうに身動ぎしては、そのたびに微かな呻きを漏らす。
 そしてそれを聞くたびに、彼もまた、心臓を撃ち抜かれたような気持ちになるのだ。知らず拳を握り締め、リーベルトは兄を見下ろした。あのときも、木から落ちて最初に目を開けたときもそうだった。あのときは、すぐにも死んでしまうのではないかと思うほど蒼白だった顔には、今は発熱のせいか、不自然な赤みが差している。だが、それを見つめるリーベルトは、まだあの木の下にいるのと同じなのだ。怖くて体が動かない。苦しくて息もできなくて――何もしてあげられない。
 ひくっと喉が痙攣しかけるのを、必死で抑える。傍らに立つ侍女から顔を背けて、リーベルトは何度も瞬きをし、今にも零れそうな涙を追い払おうとした。駄目だ、今は駄目だ。こんなところで泣き出したらみっともない……。
 しかし、やがて背後で扉が閉じる音がして、リーベルトははっと振り返った。側にいたはずの侍女が、彼を残して静かに出て行ったのだ。どうやら彼の様子に気づいて、そっとしておいてくれるつもりらしい。
「…………っ」
 一人になった――と思った瞬間、大粒の涙が溢れてぱたぱたと落ちる。喉の奥から、奇妙な音が漏れる。もう我慢できない。我を忘れて、大声で泣き出してしまいたい。
 いや、そんなことはできない。リーベルトは歯を食いしばり、何とかすべてを抑え込もうとした。泣いてはいけない、音を立ててはいけない、静かにしていないと――兄を起こしてしまう。
 ついには床に座り込んで、リーベルトは寝台の端にきつく頭を押し付けた。声を殺すと、体が震える。押し殺した嗚咽だけが、引きつるような不自然な調子で、静まり返った部屋に響く。
「リーベルト」
 しかし、その自分にさえ耳障りな音の間から、小さく囁く声が聞こえて、リーベルトは反射的に顔を上げた。ほとんど息だけの、かすれた声。本当に聞いたのか、確信が持てないほどの――けれど確かに、耳になじんだいつもの言い方で、彼の名前を呼ぶ声。
 寝台の上で、レイドリックは目を開けていた。熱っぽい瞳には、しかし確かに意志の輝きがあって、彼をじっと見つめている。リーベルトは息を呑んだ。しまった、起こしてしまった。うるさくしたからだろうか――でも、起きてくれた! 目を覚まして、ちゃんと彼のことをわかってくれた。
「兄上……」
 何か言いたかったが、胸がいっぱいで言葉が出ない。代わりに、新たな涙があふれてくる。泣いている場合ではないのに。伝えなければならないことが、他にたくさんあるはずなのに。
「手を」
 だが、続けて兄が言ったのは、随分唐突な言葉だった。とっさに意味が理解できず、リーベルトはきょとんと瞬きをする。手? 手が何だと言うのか。
 聞き間違いかと思ったが、しかしレイドリックは真剣だった。声が喉に絡んだせいで、何度か痛みをこらえて咳き込むと、それでも焦れたように手を伸ばしてくる。リーベルトは慌ててその手を取った。なんだかよくわからないが、それが兄の望みならそうしなければ。
 どんなことだってしよう。それで少しでも、兄を楽にできるなら、力になれるなら――たとえほんのわずかでも、過ちを償えるなら。
 差し出された弟の手を、レイドリックは少しの間見つめていた。しかしその表情は到底、安心したとか気分が落ち着いたとか、そういう風には見えない。どころか、ますます暗い顔になって、苦しそうに呟く。
「誰か……誰か、大人に……言うんだ。この傷……今すぐ」
 ――傷。
 それは本当に、今の今まで、リーベルトの意識から消えてなくなっていた。木から落ちたとき、何かに当たってできてしまった、右腕の大きな切り傷。
 確かに、痛みはする。でも今、そんなことは問題ではない。兄の方が、ずっと痛くて苦しいはずではないか。体の骨が折れて――考えただけでぞっとする――ほとんど死んでしまうのではないかと思うくらいに顔色が悪くて、ぐったりして……今だって、一言何か言うのにさえ、必死な様子なのに。
 だというのに、兄は言うのだ。
「ごめん、リーベルト……ごめん」
 その声にある、痛みをこらえるような響きは、決して彼自身の苦痛のためではないだろう。兄が心からつらそうに目を伏せるのを見て、リーベルトはその場で固まってしまう。どうして、兄が謝るのだ。こんな怪我をさせられて、耐えられないほど痛むはずなのに――それが何もかも、自分のせいみたいに。
 違う、絶対に違う。新たな衝動が、体の奥から湧き上がってきて、リーベルトは歯を食いしばった。レイドリックは何一つ、こんな目に遭うような悪いことはしていない。あの木の下で、兄はずっと、何が起こるか知っていた。懸命に、危ないから下りてくるようにと繰り返し、お願いだからと嘆願さえし……そしてリーベルトは、その全てを無視した。
 誰が悪かったか。決まっている。リーベルトが、彼だけが悪かったのだ。過ちを償わなければならない――なのに、兄にそんな風に謝られたら、一体彼はどうすればいいのか。
 罪を取り上げられれば、償えない。償えなければ――許されない。
「リーベルト……」
 反射的に、握っていた兄の手を寝台に投げ返してしまう。一瞬遅れて、怪我に障りはしなかったかという不安が脳裏をかすめたが、レイドリックが苦痛ではなく、ただ困惑の表情を浮かべるのを目にすると、それもすぐにかき消えた。この兄は、何もわかっていないのだ。優しくて、寛大で、何でもできて――何でもかんでも、取っていってしまう。全部自分で持って行って、後には何も残しておかない。
 それが、彼をどんな気持ちにするのか、知りもしないで。
 リーベルトは、兄に背を向けた。そのまま一目散に部屋を飛び出す。扉を力任せに叩きつけると、どこかで先刻の侍女が咎めるように何か言うのが聞こえたが、目もくれずに走り去る。
 再び暗い通路を駆け抜け、自室へ飛び込むと、リーベルトは寝台に身を投げ出した。枕に顔を埋めて、ぎゅっときつく目を閉じる。しかし涙は出なかった。胸の中で暗い感情が渦を巻いて、息が詰まりそうだ。悔しい、悲しい、腹が立つ、苦しい――どうして、どうして、あの人は。
 暗闇に、切れ切れの自分の呼吸の音だけが響く。それ以外には身動ぎもせず、指一本動かさず、そうしてどのくらい過ぎたのか。
 誰かが部屋の扉を叩いて、リーベルトはびくっと跳ね起きた。とっさに、兄が追ってきたのかと思ったのだ。どうしよう、どうしよう、あんな風に腹を立てたから、怒っているのだろうか。嫌だ、会いたくない――でも……。
 だが、当然のことながら、そこにいたのはレイドリックではなかった。
「リーベルト殿下」
 現れたのは、宮廷医師のジロンだった。全く想定していなかった人間の出現に、リーベルトはぽかんと口を開けてしまう。こんな夜中に、この老人は、ここで何をしているのだろう……今なら、兄の側にいるはずではないのか。
 老医師は音もなく入ってくると、手近な椅子を持ってきて、リーベルトの座り込んでいる寝台の側に置いた。腰を下ろして、静かな声で言う。
「怪我の手当てを致しましょう。傷はどちらかな」
 どうして怪我のことがわかったのだろう。これまで誰も、彼にそんなことは尋ねなかったのに。
 一瞬、脳裏に反発の言葉が閃く。嫌だ、あっち行け、そんなことどうでもいい……けれど、そのどれも口に乗せる気力がなくて、リーベルトは従順に右腕を差し出す。もうこれ以上はたくさんだ。怒鳴るのも、泣くのも、怒るのも、怯えるのも――もう、なにもかも、たくさんだ。
 傷口を見た老医師は、一瞬目を見張ったが、しかし何も言わなかった。傷を洗い、清潔な包帯をきちんと巻いてくれてから、一言だけ、低い声で呟いた。
「大変な、一日でしたな」
 リーベルトは大きく息をついた。触られた傷はずきずきと痛むのに、もう瞼を開けていられない。頭の芯がぼうっとして、支えられないほど重くなる。
 その頭が、柔らかいものに触れる。枕の感触にほっとしている間に、靴を脱がされ、温かい上掛けに包まれる。何もできない小さな子供みたいだと思う間もなく、リーベルトの意識は闇に滑り落ちていった。
 光もない、夢さえも見ない、漆黒の闇の中へ。

 しかし夜が明け、朝が来れば、目を開けざるを得ない。どれだけずっと、何もわからず、考えずにいたいと思っても。
 次の朝、リーベルトは泣きすぎて痛む頭に耐えながら、再び兄のところへ向かった。どうしているのか、心配だったのだ。昨日の夜はとても具合が悪そうだった……それに、あんな態度を取ってしまった。謝って、今度こそ出来る限りのことをしなくては。たとえ、兄には何も期待されていないとしても。
 だが今度は、会うことさえできなかった。
「王太子殿下には、お会いできません」
 兄の部屋の扉を守っているのは、昨夜の若い侍女ではなく、年嵩の侍女に代わっていた。昔から兄の側に仕えていて、兄のことが一番で――リーベルトが兄に近づくと、露骨に嫌な顔をするのだ。
 普段からそうなのだ。ましてこんな状況で、彼を中に入れてくれるはずがない。じろりときつく睨まれて、リーベルトは竦んだ。いつもよりもはっきりと、拒絶を感じる。もしかしたら、昨夜の彼の行動が伝わっているのかもしれない。
 それでも何とか兄の側に行きたくて、リーベルトは再び、普段は使わない丁寧な口調でお願いしたが、今度は無駄だった。侍女は取りつく島もなく、リーベルトはすごすごと引き返すよりなかった。
「王太子殿下のことは、そうご心配なさいますな。必ず良くおなりですとも」
 彼の傷の具合を診た医師のジロンが、そう教えてくれたことだけが、小さな慰めであった。その確信を持った響きに、一応はほっとしたリーベルトだが、しかし手放しでは喜べない。
「でも、とってもいたいんでしょ……? きのうは、兄上、すごく苦しそうだった」
「何日かは。ですが、怪我そのものは、悪くないのですよ。今、お加減がよろしくないのは、明日か明後日には楽になるでしょうし、そこから無理をなさらないように怪我を治せば、何も悪いところは残らないのです。ああした怪我にしては、とても運が良かった」
 運が良かった? そんなことがあるものか。本当に運が良ければ、あんな怪我は一つもしないで済んだのに。
 しかし、リーベルトがそう反論することはなかった。彼が口を開く前に、老医師は急に真面目な顔になって続けたからだ。
「ですから殿下、今度は、ご自分のことをお考えください。少し何か召し上がって、気を楽になさい――何も、あなたのせいではなかったのですから」
 リーベルトは唇を引き結んで、何も言わなかった。それが嘘だということは、よくわかっていたからだ。彼があの木に登らなければ、兄の言うことを無視しなければ、不器用に落ちたりしなければ、こんなことは起きなかった。
 食欲はまったくなかった。朝食にも昼食にも、手を付ける気にならない。とはいえ、ただ空腹でないだけだ。右腕の怪我を除けば、どこにも痛いところはないし、その怪我も、もう痛みはほとんど気にならない。
 完全に健康なのに、しかしその辺りから、大人たちの様子がおかしくなった。やたらと、どこか具合が悪いのではないかとか、何か食べたいものはないかとか、うるさく付きまとってくる。
 あまりのわずらわしさに、リーベルトは部屋を飛び出して、城中、思いつく限りの場所を歩き回ったが、結局どこにも長くはいられなくて、疲れ果てて自室へ戻るしかなかった。大階段の下には小さな部屋がある。彼と兄だけが知っている、秘密の場所だ。段飛ばしを競って遊ぶなら、東側の階段がいい。その先の中庭には、いい香りのする花が咲く生垣があって、虫や小鳥がいっぱい来るのだ。一際美しい瑠璃色の鳥は、夏が終われば山を越えて、はるか南の国へ帰っていくのだと、兄が教えてくれた……。
「リーベルト、おまえがそうしていても、どうにもならないのだぞ」
 ついに、夕食時には父までがそう言った。昨日は見たこともない怒り様で彼を叱りつけた父は、今日は声を荒らげることもなく、むしろ心配そうな顔さえしていて、リーベルトは裏切られたような気持ちになった。彼が悪かったのだと、父はわかってくれていたのではなかったか。兄をあんな目に遭わせた彼を、そんな顔で見るなんて――まるで兄に起きたことを、すっかり忘れてしまったように。
「おまえが何も食べずにいても、レイドリックが早く治るわけでもない。どころか、それでおまえが病気にでもなったら、とても心配するだろう。少しでいいから、食べなさい。好きなものだけでいいから」
 一体、父は何を言っているのか。リーベルトは内心で呆れ返った。別に、兄に治ってほしくて食事を我慢しているわけではない。そんなことをしたって何の意味もないことくらい、わかり切っている。ただ、腹が空かないから食べないだけだ。病気でもなければ、病気になる気もしない。彼は元気で、健康だ。どこも痛くない、どこも悪くない――今も寝台から動けずに、苦しんでいるであろう兄とは違って。
 しかしどう言おうが、大人が彼の言うことになど耳を貸さないのもよくわかっている。抗弁するのも面倒で、リーベルトは渋々スープだけ口に運んだが、案の定、少し経ったら胸が悪くなって吐いてしまった。だから嫌だったのに。
 食べさえしなければ、何も問題はないというのに、しかし次の日には、大人たちはいよいよ深刻な様子になって、更に口うるさく言ってくるようになった。ついには、日頃は弟妹にかかりきりの母でさえ、彼らを置いて彼に構うようになった。多少、面白く思わなかったわけではないのだが、それ以上に落ち着かない。母が「あなたは何も悪くないのよ」だの「仕方がなかった」だの繰り返すのが、何よりも癪に触る。
 仕方がないだなんて、そんなことがあるものか。兄があんなに傷ついて、痛い思いをしているのが、仕方がないだなんて。
「リーベルト殿下、お菓子はいかがですか? 何でも、お好きなものをご用意しますから」
 馴染みの侍女の一人が、心配そうにそう言ったときも、リーベルトは苛立ちのあまり、無視して行き過ぎようとした。が、はたと気を引かれて足を止める。
 ――おかし。
「……なんでも?」
「ええ! もちろんです。何をお召し上がりになりたいですか」
 しばらく食べ物には見向きもしなかった彼が反応を示したのが喜ばしかったのか、侍女はぱっと明るい顔になる。リーベルトは少し考えて答えた。
「あの、焼き菓子がいい。かたくて、まるくて、木の実がいっぱい入ってるやつだよ」
 季節の木の実や、乾燥させた果物を生地に練り込んで、硬く焼いた素朴な菓子は、市井の母親が子供たちのために簡単に作る昔ながらのものだが、ときどきは王城の子供たちにも、おやつとして出されることがある。食べるときは大体、兄と一緒で、リーベルトはそのたびに、兄の分までせがむのだ。
 しかし本当のことを言えば、この菓子はリーベルトの大好物というわけではなかった。別に嫌いではないが、もっと柔らかかったり、滑らかだったり、甘いクリームがかかっているものの方が、ずっとおいしいと思う。
 それでもこの菓子をねだるのは、それが兄の好物だからだ。好き嫌いなど言ったことがない、何でも同じように、行儀よく食べるレイドリックが、しかしこの菓子だけは特別に好きなのだと、リーベルトは気づいていた。兄はそんなことを言いはしないから、きっと誰も知りはしない……リーベルトだけが知っているのだ。
 だから、欲しい。自分ではない、兄が好きなものだから、欲しいのだ。兄にかかわるものは皆、いいもの、素敵なもの、他の何よりも価値のあるものだから。
 しばらくして運ばれてきた菓子を、部屋で食べるからと言い訳して受け取ると、リーベルトはすぐさま兄の部屋へ向かった。
「リーベルト様。お兄様には、まだお会いになれませんよ。お加減が悪くて、お休みになっていなければなりませんから」
 今日もまた別の侍女が、扉の前で彼を止めた。兄の具合がさして良くなっていないらしいことには落胆したが、しかし今日は、それを聞くためにだけ来たわけではない。リーベルトは勢いよく皿ごと菓子を差し出した。
「これ! 兄上にあげて」
 いつもは、彼がほとんど取り上げてしまう兄の好物。だが今度は違う、彼の分まで、全部兄にあげる――何もかも、どんなものでも、差し出して構わない。
「まあ……」
 扉の前の侍女は困惑したようだった。目を瞬いて、目の前の王子と差し出された菓子を見つめたが、やがて眉をひそめて言った。
「ですが、王太子殿下は、お召し上がりになれないと思いますわ。もうずっと、他のものも何も、召し上がっていらっしゃいませんから」
「でも、兄上はこれがすきなんだよ」
 リーベルトは懸命に言い募る。会えないのは仕方がない、彼が悪かったのだ。けれど、せめてこれだけは――兄のために、たった一つ、できそうなことなのだ。
「これなら、きっと食べられるよ。ほかのものがだめでも、これはちがうんだ」
「ですが……」
「おねがい。兄上のところに、もっていってくれるだけでいいから。そうしてくれたら、あえなくてもいいから」
 必死に頼み込むと、侍女はますます困った顔をした。しかし、リーベルトの様子に少しは同情してくれたのか、それとも追い返すことができそうにないと悟ったのか、侍女は諦めたようにため息をついて、わかりましたと応じた。
「ですが、きっと無理だと思いますよ。本当にお加減が悪いんですから」
 念を押すような侍女の言葉は、しかしリーベルトの耳には入っていなかった。足取りも軽く自室へ引き返しながら、リーベルトは密かに思った。とにかく、彼はやったのだ。少しでも、兄に喜んでもらえそうなことをやった。傷つけて、苦しい思いをさせるだけではなく。
 ――兄上、よくなるかな。
 兄に良くなってほしかった。何もかも、元に戻ってほしかった。兄に、元気でいて、優しく彼の名前を呼んで、一緒に遊んでほしかった。もう絶対、駒合わせに負けたくらいでむくれたりしない。わがままを言って、兄のものを取り上げたりしない。誰に叱られても、どんなに兄と比べられても、二度と木になんか登らない。
 しかし――何をどうしようと、過ちを取り戻すことはできない。
「王太子殿下が、これをお届けするようにと」
 しばらく後、自室のリーベルトのところに、先刻の兄付きの侍女が現れた。あの焼き菓子を手にして。
「どうしても、お召し上がりにはなれないそうです。リーベルト様に、召し上がっていただきたいと仰っていました。きっと、お好きだからって」
「…………」
 リーベルトは無言で受け取った。何を言うべきことがあるだろう。
 侍女が去り、一人きりになった室内で、リーベルトはしばらく黙ってそれを見つめていた。腹の奥に、冷え冷えとした感触がある。もう、どうにもならない。罪は犯され、それを消し去ることはできない。彼は馬鹿で、悪い子供で、皆がそれを知っている。何をやっても無駄だ。善いことなど何もできない。
 だから兄は、何一つ受け取ってはくれないのだ。彼から欲しいものなど、期待するものなど一つもないのだ。
 冷えた感触が、黒々とした衝動に変わるまで、いくらも時間はかからない。急に目の前の菓子が憎々しく見え、リーベルトは夢中で手を伸ばした。鷲掴みにして、一気に口に押し込む。水気のない、ざらざらした感触が喉に詰まる。砂か小石みたいで、味がしない。
 全然、おいしくない……なのに次の瞬間、腹の虫がぎゅうっと嬉しげに鳴いたのが、心底癪に障る。菓子以外の何かが、喉に詰まる気配を懸命に無視して、残りを全部口に突っ込みながら、リーベルトは固く誓った。
 こんな馬鹿な菓子なんか、絶対に、二度と食べない。

 一旦、何かが腹に収まると、食事が取れるようになった。大人たちはほっとしたようで、良かった良かったと言い合って、再び彼のことを忘れてくれた。
 そして、日常が戻ってくる。朝食を取って、朝のうちは教師と勉強。昼からは好きに過ごしていいが、いくつかある気に入りの場所を、リーベルトは慎重に避けた。あの焼き菓子と同じ――まだ戻っていない、ずっと戻ることはない日常の欠片。
 しかし、それは戻ってきた。あまりにも突然に、あまりにも屈託なく――彼の気持ちになど、まったくお構いなしに。
「リーベルト!」
 教練から自室へ戻るところだったリーベルトは、びくっとして、俯いていた顔を上げた。それが誰なのか、見る前から知っていた――よく、知っているのだ。
「よかった、ここで会えて」
 彼の部屋の扉の前に立って、レイドリックは朗らかに言った。
 瞬間、リーベルトの脳裏に、あの夜の様子が閃く。寝台に横たわって、ひどく苦しそうで、今にも死んでしまいそうで……しかし、今、目の前にいる兄には、苦痛や、具合の悪そうなところは見えなかった。もう、良くなったのか。すっかり元気になったのか。
「ここまで来たけど、もし邪魔をしたら悪いなって思ってたところだったんだ」
 いや、もちろん、そんなことはない。リーベルトは息を詰めて、その場に立ち尽くしていた。視線が、ある一点に釘付けになって離れない。真新しい白――兄の首から腕に巻き付いて、動きを制限している包帯の色。
 彼がやったことだ。何一つ、消えることなどない。
 一方で、押し黙って固まっている弟の様子が怪訝だったらしい。レイドリックは笑顔を引っ込めると、不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたの? どこか、具合でも悪い?」
 問いかける声には、確かにこちらを心配する響きがあって、リーベルトは思わず後じさった。何故かひどく恐ろしかった。兄が彼を責めないのはわかり切っているのに。
 兄は彼を責めない。どころか、心配さえする。自分の身は顧みず、彼を助けようとして――それでまた、同じことの繰り返しだ。またいつか、きっとそうなる。彼のせいで。
「ああそうだ、怪我はどう? ごめん、僕がもっと早くに――」
「――こっち、来るな!」
 飛び出した叫びは、自分でもぎょっとするような裏返った声だったが、ぎょっとしたのは彼だけではなかったらしい。彼の方へ足を踏み出しかけていたレイドリックは、ぴたりと動きを止めた。その表情には、ただ純粋な驚きだけがあって、リーベルトはますますかっとなった。どうしてそんなに、呑気にしていられるのか。自分がどんな目に遭ったのか、少しもわかっていないのか。
「なにしに来たんだよ! けがのことなんか、どうだっていいよ! 兄上にはかんけいないだろ! かんけいないんだから、そんなえらそうにするな!」
 他人の怪我のことなんか、どうだっていいことではないか。そんなことばかり気にして、自分のことが疎かだから、そんな大怪我をすることになるのだ。何でもできる気になって、偉そうにしているから、自分のことまで気が回らないのだ。
「きらいだ」
 優しくて、辛抱強くて、自分のことでは怒らない。何があっても、何をされても、簡単に許してしまう――それが、どんなに人を苦しめるか、全く気にかけもしない。
「兄上なんか、だいっきらいだ。もういやだ――もうぜったい、いっしょになんかあそばないから!」
 どうして兄に、これほど彼を苦しめる権利があるものか。もうずっと、こんなに苦しくてたまらないのに、そんなことは、この兄はまったくお構いなしなのだ。
 きつく歯を食いしばって、リーベルトはほとんど駆け出すような勢いで、兄の側を通り過ぎる。振り向きもせず、自分の部屋に飛び込むと、音も高く扉を閉めた。胸がどきどきして、息が苦しい。腹が立つし、情けないし、悔しくて泣いてしまいたい。
 ……しかし、ほどなくして、その感情は不安へと変わる。兄はどう思っただろうか。まだ、懲りずに彼のことを心配したりするだろうか。それとも、やっと腹を立てるつもりになっただろうか。あんな怪我をしてまで弟を助けたのに、こんな仕打ちを受けるいわれはないと怒るだろうか。
 怒ってくれたら、謝れる。一言でも責めてくれたら、どんなにかほっとするだろう。心から後悔していると、どんなことでもするから許してほしいと言えたなら――彼の気持ちに、受け取るだけの価値があると認めてくれたら。
 息を殺し、リーベルトはそっと扉に張り付いて、外からの言葉を待った。兄は何と言うだろう。これまで、兄に怒られたことなんて一度もない。考えただけで、体が竦む。でも、もしそうなったら……。
 ゆっくり十まで数えても、何の声も聞こえなかった。更に十数えても、やはり何の答えもない。更に十、もう一度十を数えたら、リーベルトは耐えられなくなった。腹を立てて扉を閉めたのに、自分から開けるなんて恰好悪い。でも、これ以上我慢できない。
 意を決して、扉を開ける。そこには、誰の姿もなかった。兄は行ってしまったのだ。音もなく――彼にただの一言も残すことなく。
「…………」
 さっと血の気が引く。兄は自分を見放したのだと、すぐにわかった。これ以上、彼には付き合っていられないと、呆れ返って行ってしまったのだ。
 追いかけなければ。今なら、まだ間に合う――しかし駆け出しかけたリーベルトは、すんでのところで踏み止まった。もし、リーベルトが行って謝れば、レイドリックは許してくれるだろう。大丈夫だよと優しく言って、安心させるように笑って、何もかも元通りにしてしまう――まるで、最初から何も起きはしなかったように。
 誰もいない、空っぽの廊下に立って、リーベルトは兄が去ったであろう方向を睨みつけた。怒りとも失望とも、その他の何ともつかない感情が体中を巡るのを、きつく拳を握って抑え込む。
 そうじゃない。そうじゃない――何もかも、そうではないのに。

***

「リーベルト様! お待ちください!」
 国王の執務室へ続く通路を守る衛兵が、慌てて声を上げるのに、しかしリーベルトは構わなかった。彼らの横を傲然と通り過ぎ、苛立ちを抑えもせず言い返す。
「うるさい! おまえ、こんなところに突っ立ってるだけの分際で、このおれに意見するのか」
「陛下はただいま、重要なお話中で……」
「おれの話が、重要じゃないって言いたいのか!」
 たかが衛兵に、一体何がわかるというのか。れっきとした王家の王子である彼の用件は、何にもまして重要に決まっているではないか。大体、『重要なお話』とは、具体的にどういうことか――父の『重要なお話』なんて、どうせ新しい絵だとか、出入りの貿易商人が持ち込む外来の工芸品だとか、気の合う貴族たちと宴を催す算段とか、そんなことに違いないのに。
「ふざけるな、おれを誰だと思ってる。大臣だろうが何だろうが、とっとと出て行かせて……」
 だが、喚きながら廊下の角を曲がった瞬間目に飛び込んできた姿に、言葉も足も止まってしまう。国王の執務室の扉の前に立っている、小柄な姿。王族の身辺に仕える親衛騎士の制服以上に、その素性を明らかにするのは、『彼女』自身だった。赤みがかった茶色の髪が、背にかかるほどに伸びている。女の『騎士』なんて、この城には――多分、この国にも――一人しかいないから、見間違えようもない。
 彼の姿を認めて、一応は礼儀正しく敬礼をしてみせる彼女に、リーベルトは我知らず、自分を取り巻く親衛騎士の方を確かめてしまった。これまでの経験から、それが必要な気がしたのだ。あの女はやりにくい。遠慮とか、加減とか、そういうものを知らない……その主とは別の意味で、厄介な相手なのだ。
 だが、内心を悟られるのは面白くない。リーベルトは態勢を立て直すと、逆に肩をそびやかして彼女に近づいた。
「……おまえか。おい、ここで何してる」
「我が主の命に従い、待機しております、リーベルト王子殿下」
 折り目正しく彼女は答え、リーベルトはますます苛々した。そんなことは、見ればわかる。親衛騎士は、常に主の側を離れず付き従い、その身命を守るものだ。彼女がここに立っているということは、彼女の『主』が、この中にいるということで――それが何よりも問題なのだ。
「ちっ……。レイドリックの奴、父上に余計なことを吹き込むつもりじゃないだろうな」
 異母兄がここにいるとなれば、彼の分が悪いことは確かだ。どうやら、衛兵が『重要なお話』と言っていたのは、それなりに正しかったらしい。少なくとも、新しい絵や工芸品や宴の話などでは絶対にない。優秀の誉れも高い王太子殿下が、そんな話で無為に時間を使うことなどありえない。
 ――何やってんだ、くそったれ。
 王国の主要な政務、多くの政治上の意思決定の権限が、今や王太子の手にあるということを、宮廷の人間はよくわかっている。父王は、王太子の言うことは何でも頷くであろうし、レイドリックは父がいなくても、何でも好きなことができるはずだ。こんなところで、いかにも父の意見が重要だとでもいうような、ご機嫌取りをしてみせる必要などないだろうに。
 昔からそうだ。非の打ちどころのない、嫌味なくらいの優等生。どんなときでも、決して体裁は崩さない。
「そんなことしてみろ、ただじゃ……」
「レイドリック『様』です」
 しかし突然、女騎士が横から口を挟んできた。目を剥く彼に向かって、臆する様子もなく主張する。
「王太子殿下の御名に対して不敬です。『レイドリック様』か、もしくは敬称でお呼びください」
「何だと」
「あ、でもリーベルト殿下なら、『お兄様』でもいいんですよね……うわーいいですねそれ!」
「何がだ!」
 一瞬、息が詰まりそうになる。反射的にそう怒鳴り返してから、リーベルトは密かに奥歯を食いしばった。
 ――お兄様、だ?
 誰が呼ぶものか。あんな奴、ただの他人だ。どこにも似たところはない。性格も、好みも、能力も、何もかもが違う。元々が異母兄弟なのだ。半分は実際に他人、その上、お互い滅多にかかわりあうことなく生活していれば、どう考えても兄弟よりは他人に近い。
 あんな奴は、ただの他人――お互いに、そう思っている。
「何が兄だ、ただ先に生まれたってだけじゃないか。――女なんかに身を守らせるような腰抜けを兄だなんて、恥ずかしくて言えるものか」
 今更、そんなことはどうでもいいことだ、何とも思っていない……しかし面白くないには違いなかったので、リーベルトは即座に報復した。途端、生意気な女騎士が不快そうに身動ぎするのを見て、少し留飲を下げる。彼女としては、一応、表情に表すまいと努力しているのだろうが、その瞳の輝きの強さが、すべての努力を裏切っていた。今にも剣の柄に手がかかりそうだ。
 だが、どれだけ腹を立てようと、当然、彼女には王家の王子を斬り捨てることはできない。ますますいい気持ちになって、リーベルトはわざと相手の神経に障りそうな口調で続けた。元々、いけ好かない女なのだ。それが調子に乗って、不愉快なことを無神経に言ってきたのだ。仕返しをして何が悪い?
「女のくせに、恰好ばかり男の真似をしても無駄なんだぞ。王国騎士になれなかったからって、あいつに取り入るなんて、まったくうまくやったもんだ」
 国王直属の精鋭として構成される王国騎士に、女はいない。女が要るなどと誰も考えはしなかったし、望みもしなかったからだが、それをこの女は意に介さず、図々しくも選考を通過して、王城にまで乗り込んできた。シエル・ローヴァイン――名もない、田舎騎士の家に生まれた一人娘で、かつて王国騎士であった父親の死を受けて、家門の存続を果たすべくやってきたのだ。
 当然、王国騎士として認められはしない。女の王国騎士など前例はないし、必要とされてもいない。そこで追い返しておくべきだったのに、余計な横槍を入れる者が現れた。王太子レイドリックは、彼女を自身の親衛騎士として取り立てたのだ。王族個人に仕え、忠誠を誓う親衛騎士は、その主人の一存のみで任じることができる。
 いかにもな、やり方だ。長く親衛騎士を持たなかった異母兄が、ついに自身の慣例を破って、彼女を側に置いたとき、その顛末を耳にしたリーベルトは苦々しくそう思ったものだ。あいつのすることは、いつもそうだ。公平ぶるのが好きなのだ。男と同じように選考を通過したのに、女だからと弾かれるのは不公平だとか、そんな綺麗事を言いたがるのだ。
 レイドリックは、常に正しいことをする。誰にでも、何にでも公平で――特別に思うなんてことは決してない。
「大体、その中途半端な姿は何だ。女を捨てるなら、そんな髪なんか刈ってしまえよ」
 はじめて王城に現れた頃は、他の少年と変わらない姿だったはずのシエルだが、今は違う。男と同じ制服を着ていても、体の線の違いは隠しようもない。そもそも、隠す様子もない。柔らかそうな艶のある髪を、きつく束ねもせず背に流している様は、たとえ剣を佩いていても男には見えない。
 ――女だからだ。
 女だから、あいつの側にいられるのだ。毒のある満足を覚え、リーベルトは薄く唇を歪めた。そしてそれを、この女もわかっている。だから、女であることを隠そうともしないのだ。『女だから』、レイドリックはこの女を側に置いている。自らの公正さをひけらかすために――この女自身に、何か価値があるわけではない。
 しかしシエルの反応は、彼の予期しないものだった。一瞬はたじろいだように見えたが、しかしすぐに何かを思い出したようににっこりしたのだ。リーベルトはかっとなった。何がそんなに嬉しいのか。どうして、そんな、幸せそうな顔を――身の程も知らずに!
「おい、聞いてるのか!」
 その様子を見ていたくなくて、リーベルトは乱暴に、彼女の胸倉を掴み上げた。この女に、そんな顔をする権利はない――ただ女だというだけで、自分だけは特別だなどと、自惚れさせていいはずがない。
「いい気になるなよ、女が! あの堅物をたらし込んだくらいで」
「たらし込む?」
 怒鳴りつけると、シエルはきょとんと眼を瞬いた。その呆けた表情が、ますます憎らしい。どんなやり方でも、この女に思い知らせなければ。
「とぼけるな。親衛騎士なんて体のいい口実まで作って女を側に置くなんて、理由は解り切ったことじゃないか」
 ……本当に、その可能性はあるだろうか。とっさに口から出た自分の言葉に、リーベルトは密かにぎょっとして、次いでこれまでにない興味を覚える。いつでも手の届くところにいる女、しかも女は、自分のことを神か聖者のように崇拝していて、何一つ疑いもしない――普通の男なら、どうするか。
 リーベルトは、目の前の女騎士を改めて観察した。お世辞にも豊満とは言い難い体つきだが、それでも女は女だ。胸の膨らみはささやかだが、ないことはないし、騎士としての鍛錬の成果か、腰回りから足へ下る曲線には目を引かれるものがある。男物の制服の直線的な作りに、丸みのある身体がぴったり収まっているのは、逆にその柔らかさを強調するかのようだ。よく見れば顔だって、まあまあ可愛……見られないと言うほどではないし……。
「ふん、貧相な身体だ――だが、女遊びの一つもできない王太子殿下を誑かすくらいなら、こんなものでも十分か。言えよ、どうやった? まさか、あいつから手を出したわけじゃないだろう。おまえ、押し倒しでもしたか」
 彼女に、それができないとは思わない。この身体が柔らかく押し付けられたら、大概の男は抵抗できない。いや、そこまでする必要もない。ほんの少し手でも握って、彼女がいつも主に向けるあの眼差しを向けられたら、男の理性などという脆弱なものを、跡形もなく叩き壊すには十分だ。
 もしそうだったら、とリーベルトは思った。もしそうだったら、どんなにかいいだろう。あの異母兄が、そうした凡百の男と変わりなければ、彼だってこんな思いはせずにすんだのに。
 彼と同じ程度に、下衆であってくれたなら――これほど苦しくはなかったのに。
「……リーベルト殿下」
 あからさまな侮辱にも、しかしシエルは意外にも、すぐに怒り出しはしなかった。丸い目をさらに見開いて、何やら驚いた様子だ。
「その、『押し倒す』とは……」
「何だ、文句があるのか。それとも、やってみせてくれると」
「――こういうことですか?」
 瞬間、体が宙に浮く。何が起きたかわからないまま、リーベルトは反射的に身を固くしたが、何の役にも立たなかった。一瞬の間に天地が引っくり返り、気付いたときには、彼の背中は床に付いていて、彼は呆然と上を見上げていた。
「本当だ! 結構簡単にできちゃいますね! これはまずいです」
 上――瞬く間に、リーベルトを床に押さえ込んだシエルは、彼を覗き込んで驚いたように言った。
「なっ……何するんだよ! どういうつもりだ!」
「つまり、たとえ女性であっても、レイドリック様に近付くことができれば、こういうことだって可能ってことですよね。今まで考えてもみませんでした。警護において、これは非常に危険です。ご指摘ありがとうございます、リーベルト殿下。さすが、女遊びの激しい方は違いますね!」
「馬鹿にしてんのか!」
「褒めてるんですよ。『女遊びの一つもできない』って、殿下には悪口なんでしょう? わたしはそうは思いませんけど、その辺は人それぞれですし、だから堂々と女の子と遊んでいればいいと思います。でも無理矢理はよくないですからね。紳士的に頑張って!」
「この……!」
「まあそんなことはどうでもいいので、先を続けましょう。さあ殿下、この先はどうすればいいですか? わたし、襲う役をするので、ちょっと抵抗なさってみてください――できるものなら」
「…………」
 自分を見下ろす女騎士の目が、危険な雰囲気に座っているのを悟って、リーベルトはたじろいだ。だからこの女は苦手なのだ。王城へ来て、王太子付きの親衛騎士という立場で宮廷に出入りするようになってもう何年も過ごしたはずなのに、王宮の作法や習慣というものにまるで無頓着なままだ。彼女にとって、真実敬意を払うべき対象は主だけ、他は誰であろうと同じ、どんな権威も意に介さない――王子を床に組み敷いても平然として、どころか睨みつけさえしてくるほどに。
「早くしてください。訓練になりません」
 その上、焦れたように、そう急かしてくる有様だ。リーベルトは、今やはっきり顔を引きつらせた。一体、この女は何を言っているのだ。
「く、訓練って……何の訓練だよこれ」
「何ってもちろん。レイドリック様を押し倒すための……あ、いや、違います! わたしがじゃなくて、そういう不埒な輩を退けるために! ええ、私は全然そんなことしたいわけじゃないんですけど仕方なく! 仕方なくですから!」
「変な言い訳するな! そっちの方が怖い!」
「怖くありません! わたしは主に忠誠を誓った親衛騎士です! こ、これはあくまで敵を知るためにやっているだけであって、決してわたし自身があの方に狼藉を働きたいとか、自由を奪って抑えつけたいとか思っているわけでは」
「怖えよ!」
 聞けば聞くほど、不穏な言い草になっていく。何とか体の自由を取り戻そうと、リーベルトは床の上でもがいたが、シエルは解放してくれない。それほど強い力で押さえ込まれているようではないのに、何故か跳ね返すことができないのだ。修練を重ねた親衛騎士らしい、見事な手並みだが、しかしこの分では、それがどのように使われるのかはわかったものではない。兄は真面目に、この女の処遇を考え直すべきでは……。
「――シエル。何をしているんだ?」
 しかしそう考えた瞬間、まるで彼の心を読んだかのように声がかかる。リーベルトはどきっとして、その場に固まった。誰の声なのか、考えるまでもない――何だって今、この状況で。
「レイドリック様!」
 そしてそれは、彼を組み敷いている女騎士にしても同様だったらしい。彼の自由を奪っている力は、瞬く間にかき消えた。ほんのひと呼吸の間も置かず、シエルはばね仕掛けの人形のように跳ね起きる。それきりリーベルトのことは完全に忘れ去った様子で、嬉々として主に敬礼した。
「失礼しました。ええと、警備上の問題を解決しておりました!」
「警備上の問題?」
「嘘つけこの暴力女!」
 たまらず、リーベルトは声を上げる。問題というなら、この女こそが大問題ではないか。女のくせに男みたいに振る舞って、王家の王子に対して敬意を示すこともなく、床に押さえ込んだりして、こんな女を野放しにしておいていいものか。リーベルトは体を起こして、更に悪口雑言を続けようとしたが、視線を上げた途端に口を閉じざるを得なかった。国王の執務室から現れた異母兄と、うっかり正面から目を合わせてしまったのだ。
 王太子レイドリックは、その日も常と変わらない様子だった。といっても、近年のリーベルトが彼の様子をそれほど詳しく知っているわけではない。顔を合わせたくないから、一緒になりそうな機会はできるだけ避けていた。話にも聞きたくなかったから、あいつの話は耳に入れるなと、周囲に言い続けてもう何年になるだろう。王宮で何らかの儀礼があるときか、やむにやまれぬ場合を除いて、直に会うことはほとんどない。
 しかしそれでも、レイドリックの佇まいに、冷静な威厳と言うべきものが備わっていることくらいは見て取れる。上着から靴先まで少しの乱れもなく身につけて、自然にすっと立っている様には、若々しく端正な顔立ちとも相まって、ある種の侵しがたい雰囲気がある。その理知的な若草色の瞳が、まっすぐに自分に向けられていることを意識して、リーベルトはますます焦った。会うとは思っていなかった、シエルを適当に嫌がらせたら、その主が現れる前に撤退するつもりだった。計算違いだ。
「リーベルト。陛下に何か用事が?」
「あんたには関係ない」
 問いかけられて、反射的に険悪な口調で言い返す。自分が床に座り込んだままであることにようやく気づいて、リーベルトは慌てて立ち上がった。これ以上、その見下げるような目で見られるのはごめんだ。
「いちいち、あんたに報告しなきゃならない義務はないだろう。それとも、息子が父親に会うのにさえ、あんたの許可が要るのか、王太子殿下?」
「もちろん、必要ない。ただ一応、忠告はしておいた方がいいと思って」
「何だよ、説教か」
「今、陛下と少し、込み入った話をしてきたところなんだ。この上更に面倒事を持ち込まれたら、きっとご機嫌麗しくとはいかないだろうね。もし君が、先日こしらえたベルジェンツ伯からの借金の件を切り出すつもりなら、またの機会にした方がいいだろう」
「…………」
 リーベルトは絶句して異母兄を見返した。確かにそれが、彼が父を訪ねてきた用件だ……だがなぜ、レイドリックがもうそんなことを知っているのか。
「もう一つ忠告を付け加えるなら、それよりも、先に交友関係を整理した方がいい。君は遊びのつもりだろうが、相手はそうじゃない。先に手を打たなければ、間もなく王妃陛下のお耳に入るだろう」
「なっ……」
 その上、更に追い打ちをかけられる。リーベルトは再び言葉を失ったが、今度は驚愕のためではなかった。全身に震えが走って、怒りに息が詰まる。
 ――探ってやがる!
 間違いない、兄は彼の動向を逐一把握しているのだ。そのために誰かを任じているのか、それとも彼の身近にいる者が裏切って情報を流しているのかまではわからないが、とにかくリーベルトを監視している。信用できないと思っているからだ。次に何をしでかすかわからないと――まるで小さな子供か、犯罪者のように!
「おまえっ、何でそんなこと……よくも……人の身辺を嗅ぎ回りやがって、下衆が!」
 憤りに声が震える。一体何の権利があって、彼にそんなことができるのか。王太子だからか。出来の悪い弟の素行を管理する義務があるとでもいうのか。どこまで偉そうにすれば気が済むのだ!
 しかし、応じるレイドリックは平然としていた。リーベルトの怒りなど意にも介さず、どころか、薄く笑みさえ浮かべて彼を見返す。
「それはお互い様だろう。君だって私に負けず劣らず、こちらの動向を知っているはずだよ。それが君を楽しませなかったとしても、私のせいじゃない」
「…………」
 もうやってない、と言いかけた言葉を、リーベルトは慌てて呑み込んだ。それを大声で認めることが賢明かどうか、判断が付きかねたからだ。
 一時期、人を使って、兄の動きを見張らせたことがあるのは事実だ。悪い仲間と遊ぶなとか、借金を重ねるなとか、つまらないことで父に叱られたからだ。父の背後に異母兄がいることは十分にわかっていた。レイドリックが余計な注進に及ばなければ、優柔不断で、散財に関しては人のことを言えたものではない父は、渋い顔をしてみせるくらいのものなのに。
 自分だけ、品行方正な顔をしているのが許せない。誰だって、あまり大きな声では言えないお楽しみくらいはあるはずではないか。どうしても暴いてやりたくて、レイドリックの行動を追跡してみたのだが、結果は本人の言った通り、リーベルトには実に面白くないものだった。毎日、宮廷の誰かと会う。陳情に来る者もある。王宮に出入りする役人とも話をし、指示を出し、話を整理して父王のところへ持っていく。たまに王城を出るのは、そのとき政治的に重要な位置にいる貴族からの、断るのは角が立つような招待のためで、それも長居することなく、たとえ夜の招待でも、まだ早い時間にさっさと城へ戻ってくる。誰とも会わない日は、本か書類を手に、部屋に引っ込んで出てこない。酒も、女も、賭博も、その他悪徳と呼べそうなものが少しも見当たらない。
 面白くないを通り越して、不気味でさえある。一体何が楽しくて生きているのか。
「とにかく、忠告はしたよ。あとは好きにしたらいい。――シエル、行こう」
 リーベルトの返事を、しかしレイドリックは欠片も期待していないようだった。一方的に話を締めくくると、傍らの親衛騎士を促して歩き出す。迷いのない足取り、誰にも何にも、それを止められはしないと、傲慢に信じているかのような。
「いい気になるなよ――覚えてろ」
 側を通り過ぎる兄に、低く吐き捨てる。精一杯の悪意、しかしそれさえ届かない。足を止めず、振り向きもせず、レイドリックはそのまま行ってしまった。まるで最初から、リーベルトなどそこに存在していなかったかのように。
 足音が遠ざかり、やがてすっかり消え去っても、リーベルトはまだそこに立ち尽くしたままでいた。自分でもよくわからない暗い感情が、彼の内側で行き場もなくとぐろを巻く。だから、あいつと顔を合わせるのは嫌なのだ。優等生面をされると苛々する、すげなく扱われると腹が立つ、無視されると恨めしい――そしてその全てが、いちいちどれも、ひどく苦しい。
 と、そのとき、ふと近くで物音がして、リーベルトははっと我に返った。彼が連れている親衛騎士の一人が、極度の緊張から解き放たれたとばかりに、大きく息をついたのだ。リーベルトの視線に気づくと、慌てて素知らぬ顔を装ったが、実のところ、神経を張っていたのはその一人だけではないようだった。多かれ少なかれ、皆同じだ。
 本音を言えば、リーベルトにも気持ちはわかる。誰だって、あの王太子殿下を目の前にすれば、身構えずにはいられない。直接叱責されたり不興を被ったことなどなくても、相対する人間に、つい威儀を正させるような雰囲気があるのだ。
「おまえら、何ぼーっと突っ立ってるんだ! この役立たずども」
 わかるが、しかしそれを認めるのも業腹だ。とっさに、リーベルトは騎士たちを怒鳴りつけた。彼らの主、彼らの忠誠と生殺与奪を握っているのはリーベルトのはずなのに、どうして連中は、たかだか偶然行き合っただけの王太子の方にそうも畏まるのか。
「何のためにおまえらなんか、連れて歩いてると思ってるんだ。主に危害が加えられそうになったんだぞ、助けろよ!」
 先刻、彼がシエルに床に引き倒されたとき、こいつらは何をしていたのか。きつく問い質してみたが、しかし騎士たちは、馴染みの主の癇癪には、さして恐れ入った様子は見せなかった。一人が曖昧な表情で肩を竦める。
「はあ、すみません。一応、剣は構えたんですが……ちょうど、王太子殿下が出ていらっしゃったので」
「それがなんだ! あいつがいようがいまいが、関係ないだろ!」
「助け起こした方が、良かったですか? 王太子殿下の御前で?」
「…………」
 逆に問い返されて、リーベルトは言葉を失った。シエルに床に組み伏せられていたというだけでも、十分に体裁が悪かったが、それはまだましとも言える。結局のところ、王子は親衛騎士に武術で勝つようにはできていないのだ。だがこれが、女一人を排除するのに、数で勝る自分の親衛騎士に縋って、みっともなくもがいているとなれば……それを、よりにもよってあの異母兄に見られるとしたら……。
「それに、シエルはうまくやりますよ」
 主が黙ったのを好機と思ったのか、更に別の騎士が口を開く。
「女だから、力はそれほどないけど、その分動きが正確だから。体術の教練でも、成績悪くなかったはずですよ。殿下に怪我をさせるようなことは、しやしないですよ」
「うるせえよ!」
 何だって自分の親衛騎士が、シエルを庇うのを聞かねばならないのか。リーベルトが叫ぶと、騎士たちは一様に口を閉ざしたが、それが彼の怒りを恐れてのことでも、心底反省してのことでもないと、リーベルトにもよくわかっていた。不機嫌な主を、しばらくそっとしておこう、くらいに思っているのだ。気心が知れて、もはやお互い取り繕う必要もない親衛騎士たちの存在を疎ましく思うわけではないが、こんなときには忌々しい。
 彼らから視線を巡らせて、リーベルトは父王の執務室の扉を見やった。父と話をせねばならないのは確かだが、どうしても今すぐと言うほど差し迫ってはいない。小男のベルジェンツ伯がキイキイ喚き立てるのを、しばらく我慢すればいいだけだ……それに、レイドリックは何と言っていたか。
「ちっ……。行くぞ」
 どうやら気が付かないうちに、もう一つの問題の方がよほど差し迫っていたと見える。リーベルトは舌打ちして、踵を返した。結局、レイドリックの『忠告』に従ってしまうことになると自覚するのは耐えがたく不快だったが、しかしこればかりは仕方がない。
 嫌いで、苦手で、顔を見るのも疎ましい。それでも――あの兄の言うことに、間違いはないのだ。

***

 気怠い微睡みから目覚めて、リーベルトは天井を見上げていた。自分の寝台から見上げる天蓋ではない、がっしりと交差する梁が、寝台の足下に置かれている常夜灯の光に照らされて、逆に濃い闇を生んでいる。
 大きく息をつくと、体の下で寝台が軋む音がした。王城に備わっている家具とは比べるべくもない、しかしここで行われる『活動』には十分だ。どこからか忍び寄ってくる冷気が、むき出しのままの肌に触れて、リーベルトは顔をしかめる。もう、夜もだいぶ更けてきたようだ。しまった、さっさと終わらせて帰るつもりだったのに。
「殿下」
 体を起こすと、傍らから、甘い声が彼を呼んだ。しなやかな腕が伸びてきて、彼の腰に巻き付く。滑らかな肌の感触、艶やかな髪が揺れるたびに立ち上る何とも知れない芳香に、再び衝動が頭をもたげてきそうなのを、しかしリーベルトは唇を噛んで押さえ込んだ。荒々しい動きで立ち上がって、脱ぎ捨てた服を拾う。
「リーベルト殿下、そんな、もうお行きになるのですか。私たち、まだはじめたばかりじゃありませんか」
 ねだるような、耳も心もくすぐるような言い方は、これまでなら彼を引き留めるに十分だっただろう。もう一度温かい寝台に戻って、彼女が差し出すものを隅々まで味わうこと以外、頭にはなくなっていただろう。だが、今夜はそうではない。終わりだ、とリーベルトはぶっきらぼうに言った。
「これで、おしまいだ。おまえとは」
「……なんですって」
 それまでは悠然と寝台に寝そべっていた女が、焦ったように体を起こす。肩から滑り落ちた薄い掛布の他は、何一つその身を覆うものはない。ほの暗い中にあっては、ほのかに光を放っているかのような白い肌。撫でる手を誘う完璧な曲線。さっきまで彼の手の中に、吸い付くように収まっていた形の良い乳房。鼓膜ではなく、本能を震わせる嬌声を上げる、たっぷりとした唇――しかしそのどれも、今のリーベルトには色褪せて見える。もう、十分だ。
「言っただろう、終わりなんだよ。ふん、ちょっと長く、遊びすぎたかもな。おまえをそんなに調子づかせるなんて」
「殿下! それはどういう……」
「おっと、今更、泣き落としなんかしてみせるなよ。鬱陶しいだけだ。おまえだって、時間の無駄だってことくらいはわかってるだろう」
 好きだとか、愛しているとか、あなただけとか、離れたくないとか、そういう言葉は全部、閨の中をより気持ちよくするための、ちょっとした刺激にすぎない。少なくとも彼にとってはそうだし、この女にとってもそうだ。体を重ねれば心が通じ合うなんて、そんなことがあるはずもないが、もし彼らの間に通じ合うものがあるとすれば、その真実だけが確かなものだ。
「そんな!」
 にもかかわらず、女には、はいそうですかと頷くつもりはないらしい。まあそれはそうだろう、とリーベルトは皮肉に考えた。この女にとっては、まさにはじめたばかりのところだったはずだから――彼女の大きな『計画』の、彼は最初の踏み台だ。踏み台を愛す者などいないが、誰にとってもなければ困る。
「一体、どういうことなのです。どうして、突然……終わりだなんて、あんまりです! 私が、殿下にとって数ならぬ身であることは重々承知しています。ですが、こんなに急に……せめて理由をお聞かせください。私は、何かご不興を買うようなことをしてしまったのでしょうか」
 女の瞳から、見る間に雫が零れる。涙なんて生理現象なのに、どうして女はいともたやすくこういうことをやってのけられるのか、リーベルトには不思議でならない。とはいえ、何もはじめて見る手品でもないので、リーベルトは鼻を鳴らすと、縋りついてくる女を振り払った。邪魔だ。
「うるさい。おれが終わりと言ったら終わりだ。諦めろと言ったら諦めろ――二度と、王宮に潜り込もうなんて考えるな」
「王宮に? まあ、何のこと……」
「おまえの方でちょっかいをかけなければ、母上が、おれの女のことなんか気に掛けるかよ。あの人がごちゃごちゃ言いはじめるとしたら、自分の縄張りが荒らされそうなときだけだ」
 過去、リーベルトが付き合った女たちのことで、母が怒り狂ったことは何度かあるが、そのどれも、女たちが『正当な』身分を求めて王宮に乗り込もうとしたからだった。王家の名にふさわしからぬ醜聞だとか、身の程を知らない女の図々しい手練手管だとかいろいろ言うが、要は、王宮に他の野心的な女を入れたくないだけだ。その証拠に、リーベルトがそうした思惑とは無縁の街の女といるときは、またそんなつまらないことを、だとか、ほどほどにしなさい、だとか、まさに小言を言う程度だ。一介の野心溢れる女として国王を射止め、ついに王宮を自らのものとした母なのだ。リーベルトを伝って王宮へ入りたがる女たちがどんなことをするか、これほどよく知っている者は他にいまい。
 そしてリーベルト自身、経験を重ねるにつれて、だんだんとわかってきた。彼に近付きたがる女は、大きく分けて二種類だ。彼自身の地位や身分で満足してくれる者か、そうでないか。
「最初に言ったはずだ。おれより他に手を出すのでなければ、どんなことでもしてやると」
「ええ、ですから、あなただけです。あなたの他には誰もおりません」
「そういう意味じゃない。おまえが他の男と寝ようが何しようが、それはどうでもいい。王宮に乗り込もうなんて考えを起こすなと言ったんだ」
 彼女に別の愛人がいようが――もちろんいるだろうが――それはリーベルトにとって、何ら気にかかることではない。彼と『遊んで』くれる女たちにも、彼女たち自身の生活があるとわかっているからだ。大体は、貴族や裕福な商人に近付いて『援助』を受けて暮らす女たちで、そういう者には、顔の広さを示すことが何よりも重要な戦略である。現国王の王子と近しく付き合いがあるというのは、触れ回るだけの価値がある情報で、そうすることで彼女たちが新たな援助者を見つけたとしても、それは彼女たちの権利だ。
 男は忘れがちだが、女にだって武勲は必要だ。そしてリーベルトは、喜んで彼女たちを飾る勲章になるつもりでいる。いい思いをさせてもらったのだから、それくらいは礼儀というものだ。
 しかし、それ以上は話が違う。
「乗り込もうなんて、そんなつもりではありません」
 女は、なおも哀れっぽく言った。あられもない姿を隠す寝台の掛布を胸元に握り締め、縋る目で彼を見上げる。
「確かに、王宮へは参りました……シラー男爵に、どうしてもと言われて。殿下も、あの方がどんなにしつこいか、ご存じでしょう。断るよりは、仰る通りにする方が楽だったのです」
 リーベルトはもちろん相手にしなかった。なるほど、そうした古馴染みを利用して、王宮への道を開いたのか。おそらく、リーベルトがその点に関しては思いがけず厳しくて、ついに業を煮やしたのだ。
「なぜ、おれに言わなかった?」
「殿下のお心を煩わせるほどのことではないと思ったのです。少しだけ、行って帰ってくるだけだからと。それに殿下は、私とあそこで顔を合わせるのはお嫌だと思ったのです」
「その割には、派手に動き回っていたようじゃないか。宮廷の連中に挨拶したり、奥方の集まりに顔を出したりして」
 彼女が王宮の中で、何らかの伝手を探していたのは確かだ。一度は馴染みの男爵の力を借りて入り込んだが、身分から言って、そう何度も使える手ではない。王子であるリーベルトは最強の手札に思えたが、彼女を栄達に導いてくれない以上、早急に別の手蔓を探る必要があったのだ。
 自分の動きがとうにリーベルトに知られていることに、女ははっとしたに違いなかったが、しかし表情には少しも出さなかった。しおらしく目を伏せて、切なげなため息をつく。
「私は、馬鹿でしたわ。私のような者が、日の当たる場所で、殿下のお側にいられるなどと夢見るなんて……。もちろん、身分などは望んでおりません。でも、もし王宮の下働きであったら……もし、あの場におられた奥方様の誰かの小間使いとして、遠目にでも、殿下にお目にかかることができたらと……。お許しください。馬鹿な夢だったのです」
 芝居がかった女の言い方に、リーベルトはたまらず笑った。馬鹿な夢、確かにそうだ――そんな単純な謀で、彼女の望みが叶うはずもない。
「もうやめろ、ミアン。おまえは失敗した。そしてこれからも、成功する見込みはない。おまえには、もう資格がないんだ。おれを利用しようと思ったときから」
 見込み違いだ、と言ってやると、女は困惑の表情になる。リーベルトは唇を歪めた。まだ、隠しおおせるとでも思うのか。
 母に、自分の存在を知られる女は野心家だ。王宮の者が信じているほどに、母はリーベルトの交友関係を積極的に探っているわけではない。不出来な上の息子のことは、とうの昔に諦めているから、最終的に息子は自分の言うことを聞くと思っていれば、そうとやかくは口を挟まない。母が怒り狂うのは、自分の権益が侵されそうなとき、彼女の城である王宮が、別の権威に奪われそうなときだ。
 その母にとって、最も脅威的な地位はどこか。
 女を寝台に押し倒す。睦言を囁く距離で、しかし情愛の響きは一切欠いたまま、リーベルトは低く呟いた。
「もっと、ましな手を考えつかなかったのかよ――あの王太子殿下が、おれのお下がりなんか、相手にするわけないだろうが」
 女の目が、今度こそ引きつるように動のを見て、真実を確信する。と言っても、自分の読みを疑っていたわけではない。どう考えても、それ以外にない。
 リーベルトがどんな女を連れてこようが、万一血迷って妻としようが、母にはさして影響はない。自分の息子の妻、それも外で遊び惚けているばかりで、城内に特に影響力があるでもない放蕩息子の妻など、何を恐れることがあるだろうか。その女は、母の言いなりになるより他に、王宮内で生き延びる道はないのだ。
 だが、王太子妃となれば話は違う。次代の王妃、母の立場をそっくり譲り受ける女となれば、その立場だけでも母と同等だ。ましてや、あの王太子の――王城の表の半分、宮廷を牛耳る最大の権力者、あの母にして決して思い通りにはできない、血の繋がらない息子の権威を背負った女が、もし王宮に出現するとしたら。
「まあ、目の付けどころは悪くなかったさ。誰だって、あいつを落とせたらどんなにかと思うに決まってる」
 そして、野心を抱く女たちにしても同じだ。たとえ最初はリーベルト程度で満足できそうだと思っても、一旦王宮の中を覗き見てしまえば、彼女たちの本能は止まれない。光を目指す羽虫と同じく、上を目指して行くしかない。やがて王宮のすべてを手に入れられる可能性があると知ってしまえば。
「だがな、考えてみろ。どんな女だってそう思ってるんだ。おまえよりはるかに条件のいい女だって。それが、未だに手つかずの獲物として残ってるって、どういうことかわからねえのかよ。おまえが首尾よく王宮に入り込んだとして、その綺麗な脚とか胸とかをちらつかせて、それで何とかなる話じゃない――きっかけさえあれば、可能性があるなんて、おめでたいにも程がある」
 だが実際のところ、どうしたらあの異母兄を『落とす』ことができるのかは、リーベルトにもわからない。金か、美貌か、権力か。少なくとも、そのどれか一つだけでは足りないのは間違いない。詳しいことは知りたくもなかったから聞いていないが、これまでにも、レイドリックには輝かしい縁談が雨のように降り込んできているはずだ。そのうちのいくつかは、かなり実現に近いところまで進んでいるという噂だったが、いつの間にか立ち消えた。
 一国の王太子には、王統を安定させる義務がある。今年で二十になるレイドリックは、本来であればとうに結婚して、子供の一人や二人拵えていてもいいはずだが、未だにそういうことにはなっていない。母が熾烈に妨害している可能性は十分にある、しかしそれももし本人がその気であれば、たいした障害ではないだろう。国内の大貴族の娘も、異国の王女も、もちろん、王太子の関心を惹きつけるべく送り込まれる美貌が取り柄の女たちも、今のところ誰も、彼の心を捕らえてはいない。
 あの兄の『心を捕らえる』などということが、一体誰にできるだろう。誰も彼には近づけない――近づいたつもりになっていても、最後には結局弾き出されてしまう。兄は一人で完璧で、不完全な他人の存在など必要ない。邪魔なだけだ。
 昔、はじめて女を知ったとき、リーベルトは有頂天になった。生まれてはじめて、兄の知らないことを知ったのだ。自分がとてつもなく偉くなった気がした。兄は知らない、でも彼は知っている。
 それがどんなに馬鹿らしいことかは、それほど経たずに身に染みた。女を抱くなんて、特別なことでも何でもない。誰にでもできる、どころか誰だってやらずにはいられない。情欲の快楽に囚われて、みっともなくあがいてはいずり回るしかないのに、あの兄は常に高みにいて、こっちを見下ろしている。彼は兄の知らないことを知ったのではない。兄が一顧だにせず放り捨てたものを、ありがたがって拾っただけだ。
 兄は常に正しい。何にも傷つかず、何一つ欠けたところがない。それを呪わしく思う自分は、愚かで、みっともなくて――なのにもう、こういう風にしか生きられない。
 女の体から身を起こし、寝台を離れる。後ろから、女が更に何か言うのが聞こえたが、振り返らずに部屋を出た。夜も深まり、空気もぐっと冷え切っていて、とうに寝台の熱を失った肌には不快な冷たさだ。
 だらしなく羽織っていた上着の襟を仕方なく留めて、リーベルトは舌打ちした。ああ、余計な時間を食ってしまった。適当に別れを告げて帰るはずだったのに、あの女が体を摺り寄せてきたりするからだ。あいつのせいだ。
 とはいえ、それが言い訳であることは自分でもわかっている。建物の出口に近付いたとき、すぐ外に自分の親衛騎士の姿を見つけて、リーベルトは後ろめたさを感じた。たいした時間はかからないと、連れてきた二人の親衛騎士には言っていたのだ。なんだかんだ彼がよろしくやってしまっていた間、寒気にさらされ待たされていたら、誰でもご機嫌というわけにはいかないだろう……。
「あ、殿下」
 風を避けて足踏みをしていた一人が、彼に気づく。次いで、背を丸め、両手をこすり合わせていたもう一人が、ぱっと振り向いた。どちらもほっとしたように顔を輝かせている。よかった、これでここから立ち去れる、ありがたいという顔――勝手に予定を違えた主を、責める気色は少しもない。
 馬鹿な奴ら――だが、いい奴らだ。
「おい、ここから一番の近場はどこだ」
 仏頂面を崩さずに外へ出て、リーベルトはいきなりそう言った。きょとんと顔を見合わせる騎士たちを、肘で小突く。
「おまえらの、行きつけだよ。どうせ、都中にいくらでもあるんだろ。――寒いし、怠いし、一杯くらい引っかけてからじゃないと、帰る気なんかしねえ」
「ええと……もしかして、殿下のおごりで?」
「どうせ、父上に金を借りなきゃならないんだ。おまえらの飲み代くらい増えたって、一緒だよ」
 途端、二人の騎士たちはますます元気づいたようだ。両手をかざして、互いに打ち合わせたりしている。彼らの陽気な振る舞いに満足しつつ、しかし表情はそのままに、ふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、リーベルトは夜の街を目指して歩き出した。

***

 じりじりと、熱い光が顔を焼く。不満のうめき声を立てて寝返りを打ち、顔を枕に埋めたが、今度は後頭部が熱くなっただけだ。ただでさえ地獄のように痛む頭に、これ以上不快な刺激は必要ない。リーベルトはようやく覚悟を決めて、薄目を開けた。
 途端、灼けつくような日差しに目が眩む。小さな窓からまっすぐに入ってきた光が、寝台に転がった彼の顔にちょうど当たっているのだ。光といっても朝日ではない、ほどなく没する太陽の、断末魔のような夕日だ。夜通し、酒杯と掛札を回し続けて、この寝台に倒れ込んだのはいつだっただろう。その前に寝たのはいつだった? こんなことをしはじめて、どのくらい経ったのか――最後に家へ戻ったのは、どのくらい前だったか。
 馴染みの悪友に誘われたのは、父王に借金の清算を頼んだ直後のことだ。長めの説教くらいは甘受しなければならないと覚悟していたが、思いがけずあっさりとことが運んだのはよかった。何か他に気を取られることでもあったのか、父は心ここにあらずと言った様子で、彼を叱りつけるどころではないらしかった。
「リーベルト、おまえも、いつまでもそんなことをしてはおられんのだぞ」
 だが、通り一遍の説教とはいえ、暗い眼差しを向けられてそう言われるのは、なんだかひどく癪に障った。では、彼は何をしていればいいのだ? 王家の名にふさわしく品行方正に? 何のために? そういうものを絶対的に体現している人間は、もういるではないか。
 次代の国王である王太子が健在で、その資質にも能力にも問題ない、むしろ理想的であるとなれば、二番目の王子に何の役割があるというのか。せいぜい、面白おかしく暮らして何が悪い。
 そんな風にむしゃくしゃしていた彼の心を読んだのか、賭け事仲間の一人が、彼を自分の屋敷に招待してくれた。一応、ほとぼりが冷めるまで賭け事は控えようという気持ちはあったのだが、そんなものは、一旦手札が回ってくればどうでもよくなる。そこで数日を過ごし、そうこうしているうちに別の者が、新しく購入した別邸ならもっと遠慮なく過ごせると言う。そこで過ごしているうちに、また別の者が、素晴らしい美酒が手に入ったと言って、それからまた別の誰かが……。
 だが、さすがにもう疲れた。体が重い。頭の芯に、二日酔いとは違う痺れが居座っている。乱れた寝台に寝転がったまま、リーベルトは散漫な思考をかき集める。城を出てから、まだひと月は経っていない。でもかなり近い。そろそろ家へ帰る頃合いだ――たとえ、そうしなければならない理由は、何一つなかったとしても。
 だるい体を何とか引き上げる。よろめきながら、リーベルトは仮眠していた小部屋を出て、皆が集う広間へ向かった。
「ああ、殿下、お早いお目覚めで」
 広間といっても、街中の小ぶりな屋敷のこと、十人もいれば狭いと感じる程度の広さだ。彼が引っ込む前の面子はそのまま残って、更に二人ほど増えた気がする。窓は固く閉じられ、澱んだ空気と酒精の匂いの中に、うつろな目の若者たちがたむろしている様は、リーベルトの頭のわずかに鮮明な部分にひりつくような嫌悪感を呼び起こした。クソみたいな連中、クソみたいな場所。
 だがそれも、一度足を踏み入れて、その空気を吸ってしまえば、あっという間に身になじむ。リーベルトは手近な椅子を掴んだ。座っていた者が慌てて退くのを当然に、どっかりと腰を下ろすと、卓に肘をついて痛む頭を支える。
「もう帰る。その前に、水を一杯くれ」
「まだ、夜はこれからですよ。人も集まって、だんだん楽しくなるっていうのに」
「うるせえ。帰るって言ったら帰るんだよ。おまえらも、いい加減、おれから引き出すだけ引き出しただろう」
 新たに増えた借金の総額がいくらなのか、リーベルトはもはや勘定してはいない。どうせ、誰かがきっちり取り立てに来るのだ。でも今回は、多分それほどのことはない。何度か大勝ちして、他の全員の顔色を青く塗り替えさえしたのだ。だからそれほどひどくはない、きっと……。
「なんてことだ、リーベルト殿下ともあろうお方が、負けたままで退散とは」
「水を寄越せって言ってるんだ。聞こえないのか、うすのろが」
 軽い挑発めいたやりとりは、興が乗っているときならそれなりに刺激的だが、今はまったくお呼びでない。不機嫌に吐き捨てると、さすがに伝わったのか、相手もそれ以上は続けなかった。誰かが差し出した水をものも言わずに奪い取り、一気に飲み干す。怠さは少しも変わらないが、少しだけ人心地がついた気がして、リーベルトは大きく息をついた。そう、帰らなくては……。
「でも、今夜は、お帰りにならない方がいいんじゃないですか」
 だというのに、まだそんなことを言う者がある。部屋の中では、新来のうちの一人だ。リーベルトはかっとなって、怒鳴りつけようとした。しつこく指図されるのは大嫌いだ。彼が一度決めたことに、ごちゃごちゃ口を挟むとどうなるか教えてやる。
「きっと、遅くまでごたついていますよ。あの方が出発するから」
 だが続いた言葉は、とっさに意味が取れないもので、リーベルトは口を閉ざした。どうやらこれは、彼を足止めするためだけの挑発ではないらしい。出発? 誰が、どこに?
「ああ」
 しかしどうやら、当惑しているのは彼一人らしい。皮肉な笑みを閃かせる者、興味のない顔をしている者、反応に差はあれども、皆、何のことを言っているのかは承知しているようだ。リーベルトはますます困惑した。一体、何の話だ。連中は何を知っていて、どうしてそれを彼だけが知らないのか。
 一体――何が起きているのか。
「……おい、何の話だよ」
 話を切り出した男に視線を据えて問う。この屋敷の外でまともな活動をしてきた後なのか、室内にいる者の中では格段にきちんとした姿の若者は、リーベルトの問いかけに無造作に肩を竦めた。そんなことは、改めて言うまでもないだろうという顔だ。
「だから、王太子殿下ですよ。明日、あの方が行かれるから、今頃は準備で慌ただしい。王宮へお帰りになるのは、あの騒動が終わってからでいいんじゃないですか」
 兄が、どこへ行くというのか。確かに、レイドリックが王城を出る機会はそれほど多くないが、それでも滅多にないと言うほどでもない。王都や、その近郊のどこかへ行くくらいなら、慌てふためいた準備なんか要るはずもない。もっと、遠く? どこへ――何のために?
「あれ、もしかして、ご存じないですか?」
 一方でリーベルトの様子から、相手も察したらしい。目を丸くして彼を見返すと、素っ頓狂な声を上げた。信じられないと言わんばかりの顔に、リーベルトは更に苛立ちを募らせる。くそったれ、一体何が言いたいんだ。
「おれが何をご存じないって言うんだ。とっとと言えよ、あいつがどこへ行くって?」
「ツァーラントですよ」
「は?……ツァーラント!?」
 だが今度は、素っ頓狂な声を上げるのはリーベルトの方だ。王都の外どころではない、国の外だ。それも、かなり遠く――大陸の北の端、このリヒターシェンとは、縁もゆかりもない国。
 いや、最近は、ないこともない。無縁ではいられなかったと言うべきか。
「ツァーラントから、使者が来たのは聞いてらっしゃいますか。ローセリアから戻された兵士たちと一緒に」
 少し前、リヒターシェンの東に位置するローセリア王国は、ツァーラント王国との戦いに敗れ、その支配下に置かれた。ローセリアは長く、西方諸国の盟主的存在で、リヒターシェンも当然、ローセリアに助力して援軍を送っていたから、この敗報は衝撃をもって受け取られた。ツァーラントという国は、文化の光の届かない貧しい北方に乱立した小国の一つで、古王国時代から繁栄が続いている西方地域からは、取るに足らない有象無象の国と思われていたのだ。それが俄かに周辺を平定し、ついにはローセリアを襲って西方へ進出してきた。
 大陸の西方は、長く大きな争乱を経験していない。これまでさして警戒をしてこなかっただけに、このツァーラントの動きに、西方諸国はどこも動揺した。このリヒターシェンでも一時は、家財をまとめて逃げ出すだとか、いや、剣を取って先に襲いかかるべきだとか、都中どこも大騒ぎになって、リーベルトもうんざりしたものだ。落ち着いて飲んだくれてもいられない。
 その騒ぎが収まったのは、ツァーラントが、西方諸国がローセリアに派遣した兵士たちを無条件で解放するという知らせが広まったからだ。一度話がこじれれば、容易に戦端を開くことになりかねない――あるいは、その口実に使える――捕虜に関する交渉を、一切なしで済ませたこの判断は、ツァーラントがこれ以上の戦いを望んでいない証として受け取られた。人々は落ち着きを取り戻し、リーベルトもやれやれとばかりに、王城に居つかずふらふらする、元の暮らしに戻った。
 ツァーラントからの使者――最後に王城を離れる前に、リーベルトもそのことは聞いた気がする。ただ、戦争ではなく和平の使者だと言われていた。連中が戦争を望まないのなら、こちらに挑戦する理由はない。うまく片が付くのだろうと思っただけだった。
「ええ、和平の使者でしたよ。ただ、条件もあって」
「条件?」
「我が国の王族のどなたかが、ツァーラントに赴いて、そこに留まらなければならないと。それで、王太子殿下が行かれることになったんです」
 こともなげに若者は言ったが、リーベルトは絶句してしまう。それはおかしい、どう考えてもおかしい。『それで』などと言って、何の説明にもなっていないではないか。
「な……何でだよ。何であいつが行かなきゃならないんだよ。王太子だぞ。まさかツァーラントは、王太子を寄越せなんて言ってきたのか」
 それではおよそ、和平の申し出などではない。むしろ挑発、断られることを前提とした宣戦布告に近い。そんなことを仕掛けてくる国と、まともな話などできるはずがない。
「いえ、さすがにそこまでは言っていないと思いますよ。ただ、王太子殿下が、ご自分が行くと志願されたって話です」
 しかし、その言葉を聞いた瞬間、リーベルトは全身からさっと血の気が引くのを感じた。体が震える。腹の奥に、氷の刃が差し込まれたようだ。冷たく凍える、けれど同時に、彼を内側から焼き尽くす――怒り。
 ――馬鹿野郎!
 まただ、とリーベルトは思った。あいつはいつもそうだ。自分は何でもできると思っている、自分だけが上手くやれると思っている。だからそんな危険を冒すのだ。自分だけは特別、自分だけは何があっても平気だと、傲慢に信じている。他人の意見など聞きもしないで。
 王太子が国を出て、他国の人質になっていいはずがない。そのために使える人間は、他にいくらでもいるではないか。もしツァーラントが、より国王に近しい人間でなければ価値がないと思っているとしても、それなら――それならリーベルトでもよかったはずではないか。
 気付いて、リーベルトは密かに息を呑む。むしろ、彼であるべきだ。王国の第二王子、玉座は継がない、けれど王の息子には違いない。成人した男で、自分の身くらいは自分で守れる。異国に赴いて暮らすことくらい、問題なくできる。
 正直に言えば、怖くないわけではない。おそらく西方の文化など一つも解さないであろう野蛮な異国の王の人質になるなんて、平時であればまっぴらごめんだし、もし最初から彼に白羽の矢を立てられていたら、それなりにごねてみせたりはしただろう。だがそれでも、最後は必ず受け入れたはずだ。もし、それしかないのだと言われたら。もしそれで、王太子を他国にやるなんて馬鹿な真似をせずに済むのだと知ったなら。
 もし、たった一言でも、相談してくれたなら――きっと、必ずそうしたのに。
「は、さすが我らが王太子殿下、高潔にして勇敢であらせられる」
 不意に耳障りな笑声が上がって、リーベルトははっと我に返る。見れば、卓を囲む男たちの一人が、手札を放り捨てたところだった。酔いに濁った目を彼に向けると、毒々しい笑みを浮かべた。侮蔑に憎悪に満ちた笑み。
「国のために身を挺して、野蛮人どもの国にお下りになるとは。まことに慈愛深い方だ。はは、結構、結構」
 称賛の言葉は、しかし悪意で塗り固めると、ほとんど呪いに近い。胸が悪くなるのをこらえて、リーベルトはその男を見返した。とある貴族の跡継ぎだが、継ぐべき跡がどの程度残るのかは定かではない。彼の一族は一時期、王と王妃の寵愛を受けて派手な暮らしをしていたが、それを失って久しい今は、家運もだいぶ傾いているという。
 父王の方は知らないが、母の寵愛を失った理由については、リーベルトにはよくわかっている。そもそもが、長続きするようなものではないだけだ。母は移り気で、お気に入りの相手を次々と変える――おそらくは本能的に、自分以外の誰かに権力が集中するのを嫌っているのだ。誰かが自分の代弁者として、自分以上に影響力を持ちはじめる前に、ばっさりと捨ててしまう。
 長く王宮を知っている者には自明の展開だが、しかしどういうわけかこの男は、一族の凋落は王太子のせいだと思っているらしい。王太子が、王と王妃に余計なことを吹き込んだせいで、彼の父親は要職を罷免され、叔母は王宮を離れざるを得なくなったのだと。
 あり得ない。父はともかく、母が目障りな継息子の言うことなど聞くわけがない。もし聞いたら、逆に、再びその女を重んじはじめたかもしれない。そしてレイドリックにも、そんな無益な、どころか有害にすらなり得ることをする理由がない。
 馬鹿な男だ――馬鹿で、粗暴で、卑劣な男だ。正直なところ、リーベルトはこの男が好きではなかった。身を持ち崩しているのはお互い様だが、それは彼ら自身の問題で、他人のせいではない。機嫌が悪いからと側仕えの者を殴ったり、嫌がる女を無理矢理寝台に押さえつけるのは筋が違う。そうしたことを何度か止めるたび、リーベルトはますます自分の見解を確信せざるを得なかった。この男は駄目だ。人間の屑であることは、彼自身も決して変わりはないにしても、本当に虫が好かない。
 しかし、それでもここまで何だかんだ付き合いが続いてしまったのは、この男がまさに、兄の嫌う人間だからだ。寛大で公正な王太子殿下は、普通、誰に対しても嫌な顔はしない。しかしこの男に対しては、露骨にとまでは言わないが、最低限の礼儀以上の注意を払いたくないという態度なのが傍目にもわかる。確かに不愉快な人間ではあるが、何もろくでなしは一人ではなし、どうしてレイドリックが特別にこんなつまらない男を疎んじているのかは不思議だったが、しかしその事実は、リーベルトに暗い満足感をもたらした。この兄も、ただの人間がするように、偏狭に誰かを嫌ったりするのだ。誰にでも寛大、誰にでも公正なんて、そんなことはない。そう見せているだけなのだ、偽善者め。
 あの取り澄ました面の皮を剥がすためなら、どんなことでもやる。出来の悪い弟のことなど見向きもしない、あの兄の嫌がることならどんなことでも――だがそれは、この男と一緒にいるのが快いということでは、決してないのだ。
「誰にとっても、結構なことだ。ねえ、リーベルト殿下」
 男が、意味ありげに彼を見る。とっさに顔をしかめる彼に構わず、気安い口調で続けた。
「これで、王城もだいぶ暮らしやすくなりますよ。もう、こんな日陰者の生活をすることはない」
「……どういうことだ」
「何も、城の外を転々とすることはない、殿下は何でも、王城でお好きなことができるようになるではないですか。いくら賭けようが、どんな女を抱こうが、口うるさく言う者はもういないのです、ずっと」
「ずっと?」
「そうですよ。ツァーラントなんて蛮族の国が、一体いつまで和平なんて望むと思いますか。今だけだ。奴らの態勢が整って、再び西方を狙うようになったら、今度は人質なんて邪魔になるだけだ」
「…………」
「リーベルト殿下、あなたが行かれるのではなくて本当によかった。あなたはここにいて――すべてを手に入れられる」
 酔いに誤魔化した、毒のある声。野心にしみ込み、欲望をくすぐり、聞く者を彼の望む方向へ駆り立てる。少なくとも、本人はそう思っている――浅はかな馬鹿の分際で!
 リーベルトは立ち上がる。無言で卓を回り、男の前に立つと、拳を固めて、渾身の力で殴り飛ばした。
「二度と、おれの前にその面を見せるな。くたばれ、クソ野郎が」
 どよめく周囲に構わず、言い放つ。殴られた男は、緩慢な動きで身を起こすと、目を見開いて彼を見返した。突然の暴力に怒るよりは、何が起きたのはわからないというようなその表情に、リーベルトは舌打ちをする。やっぱり、この男とは気が合わない――こんな、殴られるのが当然の屑を殴っても、すっとするどころか嫌な気持ちしかしないのに、自分の従者や女を殴って、一体何が面白いのか。
 だが今、そんなことを気にかけている時間はない。いつの間にかすっかりふらつきの消えた足取りで、リーベルトは部屋を飛び出すと、王城へ戻るべく、その辺にいるはずの親衛騎士を大声で呼ばわった。

 王城へ帰り着いた頃には、既に辺りは真っ暗になっていた。とはいえ、城の雰囲気はやはり常とは違う。前庭には煌々と明かりが灯され、兵士や使用人たちが頻々と行き来している。時折ぶつかりそうになる彼らを避けもせず、リーベルトは腹の中が煮えくり返るのを抑えながら、まっすぐに目的地へ向かった。ただ、まっすぐ歩いているかどうかは自信がない。脳裏を渦巻く感情に圧倒されて、眩暈がしそうだ。
 ――畜生。
 どうしてこんなことができるのか。どうしてそう、自分勝手でいられるのか。何でもできるつもりで、いい気になっているにしても、ものには限度があるだろう。あいつ一人の問題ではない、勝手なことをされたって、他の全員が迷惑するだけだ――あいつ一人が犠牲になったって、何もかもがおかしくなるだけなのに。
 いつだって、勝手なのだ。一人で決めて、一人で引き受けて、何でも一人で片付けてしまう。他の人間なんか、まるであてにならないと決め込んでいる。今だってそうだ、和平のための人質役に、自分以外に適任者がいると、気付かなかったとは言わせない。ならばせめて、リーベルトにだけは話をするべきではないか。少なくとも、一言くらいはあって然るべきではないか。
 顔も合わせず、言葉もなく、何一つ残さずに――こんな風に行ってしまうなんて許せない。
 王城の奥へ進むにつれ、表の慌ただしさは次第に遠のき、人の行き来はほとんどなくなった。親衛騎士を追い払って、空の廊下に一人、荒々しい足音を響かせながら、リーベルトはついにその部屋の前に辿り着く。
 その場所に立つのは、一体何年ぶりだろう。怒りに任せて蹴飛ばしかけた扉に、しかし見覚えのある傷を見つけて、リーベルトは反射的に動きを止めた。そうだ、彼がやったのだ――遊ぶ約束をしていたのに、兄が部屋にいてくれなかったのだ。後から思えば、宮廷で、何か王太子の臨席を必要とするような急な客か出来事があったのだろうが、そのときのリーベルトにとっては、兄の不在は裏切り以外の何物でもなかった。腹が立って悲しくて、一緒に遊ぶために持ってきた玩具を投げつけたら、玩具は壊れるし扉は傷つくし、大人は怒るしで散々だったが、戻ってきたレイドリックだけは怒らなかった。ごめんねと何度も謝って、一緒に玩具を直してくれて、その日のおやつは全部くれた……。
 ――知るか、そんなこと!
 一瞬のうちに閃いた古い記憶を、慌てて意識から締め出そうとしたが、もう遅い。馴染みの扉、その木目の一筋まで記憶にあるままのその扉の前に立ち尽くして、リーベルトは動けなくなった。こんなところで、ぼうっと突っ立っている時間はない。今すぐにこの扉を開けて、部屋の主を捕まえなければならない。その襟首を引っ掴んで、いい加減にしろと怒鳴りつけたい。今ならまだ間に合う、彼を行かせろと説得して……。
 だが、そう思えば思うほど、扉は威圧感を増してそそり立つように感じられる。一体どうして、とリーベルトは思った。どうしてこの扉は、開けられないような気がするのだろう。子供の頃には、あんなにも簡単に、何度も出入りしたはずなのに。
「――――」
 ふと、どこからか人の声がしたようで、リーベルトは我に返った。次いで、それが扉の向こうから聞こえることに気付いてはっとする。間違いない、話し声だ。レイドリックの他に、誰かが部屋の中にいるのだ。しまった、その可能性は考えていなかった――それではさすがに、兄を締め上げるわけにもいかない。
 しかも、話し声は次第に近づいてくる。客が扉から出ようとしているのだと察して、リーベルトは慌てて身を隠す場所を探した。誰とも鉢合わせはしたくない、何とかやり過ごさなければならない。通路の陰に隠れて、そっと様子を窺う。
「――それでは、失礼します」
 溌溂とした、高い女の声が響いて、リーベルトは少し拍子抜けした。それが誰のものなのか、覗いて見るまでもなくわかったからだ。それでも一応、こっそり視線をやった先で、王太子の親衛騎士は廊下に出ると、振り向いて規則正しく敬礼した。
「うん、お疲れ様」
 その敬礼が向けられるのは、当然、彼女の主だ。親衛騎士を見送りに現れた姿を確かめて、リーベルトは思わず身を固くする。いつもと変わった様子は、何一つない。落ち着いて、穏やかで、平然としていて――明日、この場所からいなくなることを、何とも思いはしないように。
「明日は、少し早めに参ります。何か、お手伝いすることはありますか?」
 しかし次の瞬間、シエルがそんなことを言って、リーベルトはきつく奥歯をかみしめた。どうして、そんなにあっさり言えるのか。あの女は、自分の主が何をしようとしているのか、まったくわかっていないのだ。主が危険を冒すのを止めもしないで、一体何のための親衛騎士か。
「いいや、何もないよ。もうほとんど、荷物も運んでしまったしね。明日はこの部屋まで来てもらう必要もない。下のホールで会おう」
 じりじりしているリーベルトのことなど知りもせず、主従は当たり前のようにそんなことを言っている。まるで明日からも、今日までと同じ日々が続いていくかのように。他に二、三の確認を終えると、シエルは再び敬礼し、背を向けて歩き出した。息を殺しているリーベルトの方に、足音が近づいてきて……。
「シエル」
 だが突然、呼び止める声がして、足音はぴたりと止まる。
 親衛騎士の名を呼んだレイドリックは、まだ扉のところに立っていた。呼び止めはしたものの、すぐに言葉を続けるでもなく、じっと彼女を見つめている。その考え深げな表情を見て、リーベルトは次の言葉をほとんど確信した。
 ――置いていくつもりだ。
 自分の親衛騎士でさえ、ここに残していくつもりなのだ。事実上の敵国に赴くのは自分だけでいい、他の人間を巻き込むことはないと思っているのだ。自分に剣を誓った親衛騎士でさえ。
 兄はそういう人間だ。一人で決めて、一人で引き受けて、何でも一人で片付けてしまって――他の誰も信じない。
「レイドリック様!」
 そしてどうやら、兄の親衛騎士も似たようなことを考えたらしい。ぎょっとした顔をしたと思うと、主の側に駆け戻って、必死の様子で訴える。
「あの、でもわたし、もう母に手紙を出してしまいましたから!」
「ああ、書いたの? それはよかった。あまり時間がなかったから、どうしたかなと思って」
「書きました! これからレイドリック様にお仕えして、ツァーラントへ行くと。だから、もう変更はできません! お願いですから、お気が変わったなんて仰らないでください――やっぱり連れては行かないなんて」
「言わないよ、そんなこと。今更、君を置いていこうとは思わない」
 しかし意外にも、レイドリックはそう答えた。その穏やかな言い方に、取り繕うようなところは少しもない。親衛騎士の慌てように、苦笑めいた微笑みを浮かべると、落ち着いた声で続ける。
「ただ、ちゃんと言っておいた方がいいと……言っておきたいと思って」
「何ですか?」
「――ありがとう」
 落ち着いた声、しかしその言葉は思いがけない強さで響いて、リーベルトの息を止める。急に心臓が大きく打って、視界がぐらついた。そんな、あり得ない。そんな言葉を、あの兄の口から聞くはずがない。小さな親切に対するちょっとした挨拶以外の『ありがとう』なんて――まるで、自分の側の他人の存在を認めているみたいに。
 まるで、誰かが自分に何かをしてくれることを、心から喜んでいるみたいに。
「ありがとう、一緒に来ると言ってくれて。君にとっては、必要のない旅なのに」
「レイドリック様、あなたが行かれる先で、わたしに必要のない場所などありません! もう、申し上げたはずです。地の果てまでご一緒しますと」
「うん、聞いた。そう言ってくれて嬉しかった。でも前にも言ったけど、地の果てまで行く予定はないからね。あまり無茶なことはしないで、危ないことは避けて。いい?」
「それは……レイドリック様次第です。わたしはあなたの親衛騎士ですから、あなたが無茶をなさらなければ、わたしもしません」
「私は無茶なんかしないよ。今までに、したことがあったかい?」
「わたしたち、どうしてツァーラントへ行くことになったんでしたっけ?」
「…………」
 一瞬の、沈黙。しかし、やがて軽い笑い声が上がる。リーベルトは愕然とし、ますます胸が苦しくなるのを感じた。レイドリックがこんな風に笑うのを、聞いたことはない。あの冷たい、優等生面ではなくて、こんな風に笑えるなんて知らなかった。
 彼が、知らなかっただけだ。そんな表情を向けられたことはなかったから。本当の気持ちは、何も教えてくれなかったから――ずっと、必要とされていなかったから。
「なるほど。君の勝ちだ、シエル。これからは、気を付けるようにするよ。できるだけ」
「はい、わたしも、気を付けます。できるだけ」
「じゃあね、また明日」
「はい。また、明日」
 笑みを含んだ声が言い交わすのを、リーベルトは身動ぎもせず聞いていた。扉が閉まる音がして、軽い足音が元気よく、彼のすぐ側を通り過ぎて行ってしまっても、その場に立ち尽くしたままでいた。急に体が重くなって、もう一歩も動きたくない。ついさっきまで腹の中で沸き立っていたはずの衝動は、固く冷えた鉛に変わって、彼の全身を侵していく。
 それでも、重い足を引きずって、リーベルトは再びその扉の前に立った。辺りに人の気配はない、もう邪魔が入ることはない――けれどもう、その扉を蹴り破りたいとは思わない。そんなことをして、一体何になる? 何をしても、たとえ力づくで押し入ったとしても、彼の前に扉が開かれることは決してないのに。
 この扉は、誰の前にも開かないのだと思っていた。兄は一人で完璧で、だから彼は締め出されたのだと思っていた。だが、そうではないのだ。今でもこの扉を、何とも思わず開けることができる人間もいる。幼い頃の彼と同じように。
 締め出されたのは、彼だけだったのだ。もうずっと――きっと、ずっと。
 ひどく頭が痛かった。胸の悪さを噛み殺し、リーベルトは扉を睨みつける。明日になれば、何もかも終わる。あの人は行き、二度と戻ってこない。扉を永遠に閉ざしたままで。
 顔も合わせず、言葉もなく、何一つ残さずに――そうやって彼を置いていくと、あの人はとうに決めたのだ。
 音もなく、リーベルトは踵を返した。誰もいない暗い廊下を、あてどもなく下っていく。よく知ったはずの王城の、先の見えない闇を見据えながら、リーベルトの痛む頭に響き渡るのは、たった一つの言葉だけだった。
 大嫌いだ。大嫌いだ。――大嫌いだ。

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